宴席で客の座興をとりもつことを業とする男。俗に太鼓持(たいこもち)(略して太鼓)というが,ほかにも弁慶,末社(まつしや),男芸者などの別称が多い。古く《あづま物語》(1614)に〈太鼓持〉の語があるが,詳細はわからない。初めは客が個人的に同伴した案内者だったようで,戦国武将における御伽衆(おとぎしゆう)のような存在であったかと思われる。しかし,元禄期(1688-1704)には専業の幇間が現れており,《諸国色里案内》(1688)には〈此(この)道のわけしり,揚屋(あげや)の手引するものを太鼓〉とあって,遊里の案内者として遊郭外から連れていくべきものとされた。また,遊女の周旋は後年まで幇間の内職として残ったという。元禄ころ,すでにおかしさを主とする座興の芸が形成され,西鶴の作品などに有名な幇間の名とともにその活躍が描写されている。幇間は大尽(だいじん)客のいうことを〈御尤(ごもつとも),聞えた事〉とはやして,〈さまざまのあほうを尽し,大臣君の仰(おおせ)とあれば雪の中へも裸で飛込〉むことも辞さなかった(《人倫糸屑》1689)。遊郭内にいて客の席に呼ばれる幇間は,宝暦(1751-64)ころには職業的に定着して,〈吉原細見〉に男芸者として掲載されるようになる。彼らは一中(いつちゆう)節,荻江(おぎえ)節などの音曲によってたつものが多かったので,太夫,師匠とよばれた。しかし酒席の遊戯的気分をもりあげるためには,本業の音曲芸だけでは不十分で,前記の幇間芸を洗練させ,ものまねや声色などの諸芸に通じた。芸を演じない時間帯(これを平場という)に,世情の新知識をおりまぜながら,複数の客を長時間楽しませる話芸が幇間の腕のみせどころであった。したがって単なる芸人と違い,〈太鼓持あげての末の太鼓持〉のような経歴をもつものがあった。また寄席の落語とも関係が深かった。江戸では吉原の幇間を一流とし,桜川甚好,桜川善好らが有名であった。
執筆者:原島 陽一
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宴席に興を添える職業の男。太鼓持ち、男芸者などという。初めは遊里の案内者として遊客に同伴されていたが、元禄(げんろく)(1688~1704)ごろにはこれを職業として遊興の助言をするようになり、宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に遊芸をもって宴席の遊戯的気分を盛り上げる職業人として独立した。幇間を太夫(たゆう)・師匠とよぶのは、彼らが一中節(いっちゅうぶし)・清元(きよもと)などの音曲を表芸にすることが多かったことによる。ただし幇間としては、表芸を演じるのでなく、それを基礎として新古の演芸、物真似(ものまね)、声色(こわいろ)、舞踊などの多芸にわたり、それを即興的、滑稽(こっけい)的にみせるのを特色とする。
遊廓(ゆうかく)や私娼(ししょう)街のほか、市中に住む幇間もいたが(野(の)太鼓という)、江戸では吉原の幇間を一流とし桜川甚好(じんこう)・同善好(ぜんこう)らが有名となった。一方では、無芸で客に世辞をいって収入を計る卑屈な幇間があり、追従(ついしょう)者を「太鼓持ちのようだ」とさげすむのは、これに原因する。明治・大正期の花柳(かりゅう)界の盛況で幇間も増えたが、現在は数名が残るにすぎない。
[原島陽一]
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