日本大百科全書(ニッポニカ) 「平野義太郎」の意味・わかりやすい解説
平野義太郎
ひらのよしたろう
(1897―1980)
マルクス主義法学者、社会運動家。明治30年3月5日東京・築地(つきじ)に生まれる。1921年(大正10)東京帝国大学法学部を卒業後、民法専攻の助手を経て24年助教授となる。処女作『民法に於(お)けるローマ思想とゲルマン思想』(1924)に続いて『法律における階級闘争』(1925)を世に問うて、マルクス主義法学者として脚光を浴びた。27~30年(昭和2~5)ドイツに留学、片山潜(せん)らコミンテルン活動家と接触し、帰国後も反戦活動に従事。30年治安維持法違反で検挙されて免官、有罪判決(執行猶予)を受ける。『日本資本主義発達史講座』(1932~33)を野呂(のろ)栄太郎らと編集し、講座派マルクス主義の中心的主張者と目された。36年コム・アカデミー事件で検挙されたが無罪。戦時中は太平洋調査会調査部長として、中国、東南アジアなどの調査活動にあたる。第二次世界大戦後は中国研究所などの創設に尽力し、日本共産党系知識人の指導者として、平和運動などに活躍した。著書には『法律における階級闘争』(1925)、『日本資本主義社会と法律』(1956)など政治的なものや『馬城大井憲太郎伝』などもある。昭和55年2月8日死去。
[長尾龍一]
『編集委員会編『平野義太郎――人と学問』(1981・大月書店)』