領主が毎年農民から取り立てた貢租。
荘園において田畠を耕作する者は,荘園領主に生産物の一部を貢納する義務をもっていた。この貢納物が年貢であるが,平安時代から鎌倉時代にかけては所当(しよとう)とか乃貢(のうぐ)あるいは土貢(どこう)などと呼ばれることも多かった。畠の年貢は地子(じし)と呼ばれている。田の年貢は原則として米納であったが,室町時代には銭納化したところが多かった。
初期荘園の系譜をひく荘園では,早くから収穫量に応じた反別(たんべつ)の年貢量(斗代(とだい))が決められており,たとえば大和国東大寺領櫟(いちい)荘では,1137年(保延3)の検田帳によると2斗代,3斗代,4斗代,5斗代,6斗代の5段階になっていた。寄進地系の荘園では,寄進前の公田官物率法(かんもつりつぽう)の影響をうけることが多かったようで,たとえば大和国東大寺領春日荘や同国興福寺一乗院領池田荘の一律の3斗代,若狭国東寺領太良(たら)荘の一部にみられる6斗4升8合代などはその例である。太良荘には,地味に応じて年貢量の決められていたところも多くあり,1254年(建長6)の実検取帳目録によると6斗4升8合代のほかに5斗代,6斗代,7斗代,8斗代,9斗代,石代のところがみられる。太良荘の斗代は,安芸国沼田(ぬた)本荘の1252年の作田正検目録にみえる1斗代,1斗5升代,2斗代,3斗代,3斗5升代,4斗5升代に比べると,著しく高斗代である。しかし当時の枡はところによって容量が異なるから,単純に比較することはできない。総収穫量に対する年貢の比率は,反別の収穫量がどの程度だったのか明確でないため算出しがたいが,だいたい3割から5割程度だったと推定されている。鎌倉時代の末ごろから,丹波国東寺領大山荘や播磨国東寺領矢野荘などでは,田地を上,中,下の3等級に分かち,それぞれの斗代を決めて年貢を徴収する方法がとられている。1318年(文保2)の大山荘斗代請文によると,上田7斗5升代,中田5斗7升代,下田4斗5升代である。なお年貢には紅花などが付加税として加徴されたり,交分(きようぶん)あるいは斗増分(口米)と称し,米が加徴されることが多かった。
畠の年貢すなわち畠地子(はたじし)は,麦,大豆,粟,蕎麦などの雑穀をもって納め,麦地子は反別1斗ないし2斗の場合が多かった。また伊予国東寺領弓削島(ゆげしま)荘や同国醍醐寺領大島荘のように,塩をもって年貢とした特殊な荘園もあった。
年貢は,名田(みようでん)部分は名主(みようしゆ)がまとめて荘官に納め,一色田(いつしきでん)(散田(さんでん))部分は直接荘官が収納した。この年貢の中から運送費,荘内諸雑費などの必要経費が差し引かれ,荘園領主(本家,領家)のもとへ送られた。鎌倉時代に入ると地頭らによる年貢抑留がしばしば起こるが,領家はその対策として,下地(したじ)支配を放棄し一定額の年貢だけを収納する地頭請所(うけしよ)とすることが多かった。室町時代には守護の請所となった荘園が多い。
なお,荘園内の農民の負担には年貢と並んで公事(くじ)すなわち種々の雑役があり,その量は多かった。したがって,年貢だけをとりあげて荘園における農民の負担をみてはならない。
執筆者:泉谷 康夫
通例は田,畑,宅地など検地によって高請(たかうけ)された土地に賦課される農民の負担分(本年貢,本途物成(ほんとものなり))を指すが,広義には本年貢の付加税(口米(くちまい),欠米(かんまい)など),山林,原野,河海の用益に課された小物成(こものなり)(山手米(やまてまい),野手米(のてまい),川船年貢,塩浜年貢など),臨時の雑税である浮役(うきやく)(酒屋運上(さかやうんじよう),質屋冥加永(みようがえい)など)など,広く農民の生業に対して賦課されたものを含む。ただし河川普請(ふしん)役,助郷(すけごう)役などの夫役(ぶやく)負担は,諸役と称して年貢と区別するのが一般である。なお小作人が地主に納入する小作料や,明治以降の地租を,俗に年貢と呼称することもある。
年貢の仕法は,領主によって差異があるので,以下幕領の場合を中心に本年貢の賦課法をみる。まず代官所において,検地により確定された石高(こくだか)(または面積)を基準とし,その年の作柄を検見(けみ)した結果にもとづいて年貢納入高を決定する。これを小物成,浮役などと一緒に年貢割付状(可納割付(かのうわつぷ),免状ともいう)に記し,村請(むらうけ)の原則に従って村の名主,惣百姓中あてに下付すると,村では農家の所持石高に比例した高割りによって各戸の賦課高を決定する。この内,村の年貢高を決める方法は,時代によって変化している。近世初頭の農政の方針は〈まづ一人一人の田地の境目をよくたて,さて一年の入用作食をつもらせ,その余りを年貢に収むべし。百姓は財の余らぬやうに不足なきやうに治る事,道なり〉(《本佐録》)とあるように,農民の収穫のうち再生産に必要な最低限のものを残して,あとは年貢として取り立てようというものである。この段階では租率(免(めん),取箇(とりか)ともいう)は可能な限り高く決められ,村高×租率によって年貢高は定まった。
かかる方式は農村の疲弊をもたらしたので,17世紀中葉の寛永の飢饉を契機に農政の方針は小農経営の保護育成策に転じ,畝引検見(せびきけみ)法が導入された。これは平年作の反(たん)当年貢高(根取米(ねどりまい))を定めておいて,不作年には坪刈(つぼかり)によって不作分の反別を減ずる(畝引)ことによって年貢高の調節を計るものであった。その後生産力が安定するに伴って定免(じようめん)法が実施された。これは過去の実績をもとに,検見を省略して,今後3ないし10年間の年貢高を定めるもので,万一その期間中に30%以上(のちに20%以上)の不作が生じたときは破免される。これによって領主は歳入が安定するうえ,検見費用を節減できたし,農民は増収分を自己のものとして蓄積する可能性が開けた。さらに綿作など高度な商品作物の展開に対応すべく,18世紀中葉には有毛検見(ありげけみ)法が採用された。生産力の増大によって,検地による石高が実情に合わない場合,畝引検見では有効に対処できないが,有毛検見法は検地高によらず実情に即して生産高を把握したので,年貢高を大幅に増すことができた。〈胡麻の油と百姓は,絞れば絞るほど出るものなり〉(《西域物語》)という句は,有毛検見法に代表される段階の年貢賦課の方針をよく示している。
農民は,賦課された年貢を決められた期日までに村名主のもとへ納入する。年貢の賦課は石高で示されるが,実際の納入はあらかじめ米,金(銀)の納入割合が決められている。関東では田方は米納であるが畑方は永納(えいのう)と称し銭で納入し,関西では年貢高のうち畑方にほぼ相当する3分の1が銀納となっている。また米の回送が著しく困難な地方(信濃,大和,佐渡など)は,石代納(こくだいのう)と称し全額を貨幣で納入した。村では集まった年貢米を俵詰めし,一時郷倉(ごうぐら)へ保管する。藩領の村や,幕領でも馬背で運送可能な地域は,これを城下町の藩庫もしくは江戸御蔵(おくら)へ直送する。遠隔の村は水運を利用するが,ここでは数村ないし10ヵ村がいっしょに廻米(かいまい)組合を作り,船を仕立て,宰領の指揮によって年貢米を江戸の御蔵に運びこむ。ほかに大坂,京都の二条,大津,駿河の清水などの幕府米蔵に貯蔵されることもあった。金納年貢は代官所を経由して幕府の金蔵(かねぐら)へ納められる。村では年貢を分割して納入するたびに小手形を受け取るが,完納した時点で小手形と引換えに代官所より,納入米・金の区別,納入日付など明細を記した年貢皆済(かいさい)目録を受領して,その年の年貢納入は完了する。もし納入できない農家が生じたときは,五人組もしくは村が責任を負って負担する。村の納入が滞ったときは,翌年以降に引き継がれる。また旗本など財政窮乏のはなはだしい小領主の場合には,年貢先納(せんのう)と称して米作の収穫以前に納入を命ぜられる場合もあった。
納入された年貢は,領主財政の収入の基本部分を構成した。幕府財政の場合でいうと,米方全収入に対する年貢米収入の比率は,1730年(享保15)58%,1844年(弘化1)95%,63年(文久3)85%ときわめて高い数字を示している。これに対して金銀方収入に対する年貢金銀の比率は,前者の規模が増大するのに対し後者が固定的であるところから,1730年64%,1844年25%,63年18%と低下している。石高に対する年貢高の比率(年貢率)は,領主の政策や検地の仕方によっても差が生ずるが,幕領では1716年(享保1)34%,その後漸増して52年(宝暦2)の39%をピークとし,漸減して1841年(天保12)にはまた34%となっている。私領の場合には,一般にこれより高いところが多い。
明治維新以後しばらくは旧慣によって年貢を徴収したが,地租改正の実施によって旧来の年貢の量を受けつぎながら,地価の100分の3と規定された地租に移行した。
執筆者:大口 勇次郎
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中世から近世にかけて行われた税。乃貢(のうぐ)、官物(かんもつ)、所当(しょとう)、物成(ものなり)も同義語として使用されることがある。
[飯沼賢司]
律令(りつりょう)制下では租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)等の税目があったが、平安中期、律令制が解体する過程で、田率賦課の官物、臨時雑役(ぞうやく)の二系統の税目が登場し、11世紀中期以降、荘園(しょうえん)体制が確立するなかで前者の系統から年貢という税が成立したと考えられる。文書上の年貢の語の初見は11世紀末期で、12世紀には「ねんく」という平仮名書きがみえ、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の最古の注釈書「唯浄裏書(ゆいじょううらがき)」には「トシトシニタテマツル」の訓(よ)みがある。中世では公事(くじ)と並ぶ税で、公事が用途指定的、臨時的税であるのに対して、毎年の「たてまつりもの」と理解されていた。また、公事はもともと国家的・准国家的行事、造営の用途を荘園に賦課したものであるのに対して、年貢は官物などの公的な税の系譜を引くが、荘園領主が徴収するもので、荘園や領主によって徴収のあり方は異なっていた。荘園領主は検注によって荘園の定田(じょうでん)数とその田の等級(上田・中田・下田(げでん)など)を確定し、この田数と等級による斗代(とだい)(段当り年貢収納高)に基づいて年貢を賦課していた。したがって、米が年貢の主品目であることは間違いないが、地域によってその品目はさまざまであった。たとえば、八丈絹(はちじょうぎぬ)(美濃(みの)国)、白布(信濃(しなの)国)、紙(但馬(たじま)国)、榑(くれ)(周防(すおう)国)、金(陸奥(むつ)国)、塩(瀬戸内海地域)、鉄、牛、馬、水産物などがある。このことは、年貢が、田の生産物=米の徴収を目的にしたものというより、田を基準としてさまざまな産物を徴収した制度であることを端的に示している。
ところで、年貢は確定された田数によって名田(みょうでん)に賦課され、1年ごとに進未結解(しんみけちげ)(決算)が行われた。未進分はその年貢を請け負った地頭(じとう)・名主(みょうしゅ)・百姓等の負債となったため、これをめぐって彼らはしばしば荘園領主と対立した。ことに鎌倉後期は年貢未進をめぐる地頭と荘園領主の相論が激化し、南北朝期以降はこれに加えて名主・百姓の年貢減免闘争が表面化することになった。
[飯沼賢司]
南北朝期以降、年貢は守護請の進行によって守護大名に横領されるようになる。一方、畿内(きない)近国では、惣(そう)とよばれる自治的組織が主体となって年貢を請け負い、荘園領主が直務(じきむ)支配を行うケースもあった。戦国期には、戦国大名の領国形成の過程で、守護権は大名権力のなかに吸収され、惣は、土豪(どごう)・地侍(じざむらい)の被官化によって、大名権力によって組織される方向に進んだ。しかし、戦国大名がその財源として年貢を手中にしたとはいえない。すなわち、戦国大名の検地については議論があるが、その検地はどうみても部分的であり、内容においても、不十分であったと考えられるからである。したがって、年貢相当分の多くは、生産の向上もあって、加持子(かじし)・内徳(ないとく)などとして在地(ざいち)に残されていたが、戦国大名は、段銭(たんせん)・棟別銭(むなべつせん)という別の方式によって、在地から収奪を行わざるをえなかったのではないかと考えられる。
[飯沼賢司]
幕藩制下の民衆の普遍的な負担は、身分制に基づき、身分・職分に応じて賦課された「役(やく)」負担で、年貢は、そのうちとくに百姓身分に義務づけられた農業生産物による現物地代である。ただし年貢は、当時の人口の大部分を占める百姓に賦課されたという意味からも、幕藩制国家の経済的基盤をなす租税としての性格を付与されており、百姓の負担のなかではむしろ諸「役」以上に重要な義務と規定されていた。
年貢には、正租としての本途物成(ほんとものなり)と、雑租としての小物成(こものなり)との区別があった。本途物成は、田畑屋敷地に対して賦課され、原則として米納であったが、畑方ないし3分1といった部分的金納(貨幣納)が行われ、また百姓の石代納(こくだいのう)要求により漸次金納へ移行する傾向にあった。小物成は、山林・原野・河海の用益に対して賦課され、比較的早い段階で金納化されていた。
近世の年貢収取体制の基本原則をつくりあげたのは、全国統一を成し遂げた豊臣(とよとみ)秀吉で、彼は圧倒的な軍事力を背景として、度量衡を統一し、全国規模での太閤(たいこう)検地を実施した。その意図は、田畑の実際の耕作者を名請人(なうけにん)(所持者)として直接に掌握し(一地一作人の原則)、中世以来の重層的な中間搾取(職(しき))の体系を排除することと、田畑一筆ごとに畝歩(せぶ)(面積)・石盛(こくもり)(反当収量)を測定し、石高(こくだか)(畝歩に石盛を掛けたもの)という全国共通の年貢の賦課基準(石高制)をつくりだすことにあった。そのうえで、年貢賦課率を持高の3分2(二公一民)と公定したが、これは、実際の年貢率というよりも、秀吉の国家構想における新たな年貢規定に伴うきわめて観念的な数値と理解される。むしろこれを具体化したのは徳川家康で、彼は、「百姓は、死なぬ様に生きぬ様に」すなわち、全剰余労働部分搾取を原則とした。近世前期に広範にみられた徴租法である畝引検見法(せびきけみほう)は、年貢量をその年々の豊凶にしたがって調整することができ、より精密に全剰余労働部分収奪を行うものであった。また、幕府の享保(きょうほう)の改革においては、一時増徴を目ざして石盛にかかわりなく年貢を賦課できる有毛(ありげ)検見法が試みられた。これに対し、百姓の生産力拡大の努力の成果たる剰余労働部分を確保しようとする対領主闘争は、百姓一揆(いっき)となって現れ、その結果、藩領ではおおむね享保期(1716~1736)、そして幕領でも宝暦(ほうれき)期(1751~1764)に年貢量は頭打ちになった。こうした状況に対応した徴租法として、近世後期には定免(じょうめん)法が一般化した。
年貢収取の方法は、近世初期には、村共同体として請ける村請と並んで、有力な土豪による個人請が混在していたとみられるが、初期幕藩体制の危機としての寛永(かんえい)の飢饉(ききん)下で相次いで出された幕府農政法令においては、後者は否定され、年貢の村請制が体制的に確立した。村請制とは、領主が村に対し年貢の村総量を賦課するにとどまり、村の内部での個別百姓の勘定には介入しない体制である。この村請制が民衆支配にとってもつ意味は、年貢未進が出た場合、村共同体の連帯責任において未進を補填(ほてん)させられることであるが、さらに年貢負担に対する百姓の不満が、年貢勘定をめぐる村方騒動へと導かれ、それにより不満が直接幕藩領主に向かうのをそらすという機能ももっていた。
明治期になると、維新政府は当初、近世の年貢収取体制をそのまま受け継ぐが、地租改正によって現物地代たる年貢は廃止され、金納貢租たる地租にかわった。その後は、年貢の語は、地主に納める現物小作料の意味で用いられるにとどまった。
[斉藤善之]
『安沢秀一著『近世村落形成の基礎構造』(1972・吉川弘文館)』▽『永原慶二著『日本中世社会構造の研究』(1973・岩波書店)』▽『古島敏雄著『近世経済史の基礎過程』(1978・岩波書店)』▽『松下志朗著『幕藩制社会と石高制』(1984・塙書房)』▽『網野善彦著『中世の負担体系』(永原慶二他編『中世・近世の国家と社会』所収・1986・東京大学出版会)』▽『峰岸純夫著『年貢・公事と有徳銭』(『日本の社会史4』所収・1986・岩波書店)』
前近代社会において,領主が経済外的強制を背景にして土地に賦課し,農民から年々にわたって収奪した貢租。慣用的に使われ,必ずしも明確な歴史概念として使われていない。農民の負担という観点からは,起源は律令体制下の租・庸・調・雑徭の収取体系に求められる。荘園制下では農民負担は年貢・公事(くじ)・夫役(ぶやく)に大別されるが,その後,戦国大名が領国の一円支配を実現させ,荘園制を否定する検地を領内に施行し,土地を貨幣で評価する貫高制を樹立した。封建的土地所有を名実ともに完成させたのが太閤検地で,田畑屋敷地を米の生産量である石高で評価する石高制を創出した。これが江戸幕府に継承され,新たな近世の農民収奪体系が確立された。近世の貢租は年貢と諸役に大別される。年貢は検地帳に名請けされた田畑屋敷地に賦課された基本的な農民負担であり,諸役は小物成・高掛物・国役・夫役などである。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸中期以後の検見の一種。田畑の上・中・下の位,石盛やそれに対応する根取米に関係なく,実収によって年貢を決定する方法(幕領では五合摺,五公五民)。検見に先立ち村役人と地主が一筆ごとに,1坪に何合毛と見立てて内見合付帳に記し,有合毛ごとに段別を寄せて籾高を算出する。…
…江戸時代の雑租の一種。戦国時代に浮役とは,浮役衆または浮勢(うきぜい),浮備(うきそなえ)ともいわれて予備軍を指すが,近世には年貢の一種と理解されている。年貢は田畑にかかる正租の本途物成(ほんとものなり)と,それ以外の山林,原野,河海などにかかる雑租の小物成に大別することができ,小物成はさらに毎年,定額でかかるものと,臨時にかかるものとに分かれるが,臨時にかかるものを浮役という。…
…中世後期に永楽銭(永楽通宝)を基準として算定した年貢収納高で,関東特有の現象である。永積,永盛,永別などの呼称もある。…
…
[中世]
中世になると荘園制のもとで,領家の勧農が行われた。荘園領主は毎年春さきに荘園の池・溝を整備し,百姓の逃死亡などで不作田が出ると浪人を招きすえてこれを耕作させ,年貢の斗代(年貢率)を引き下げたりしたほか,種子・農料を下行して一年の耕作を円滑にしようとした。1104年(長治1)春には紀伊国木本荘へ勧農のために使者が下向し,31町3反の荘田に種子・農料を下行した。…
…しかも通例封建時代と考えられる鎌倉,室町の時代とも区別する意味がこめられている。
[近世社会の特質]
基本的特質は,農業生産の担い手が小農であり,その生産物の過半を武士である領主が年貢として受け取ることである。この関係をやや内容を含めて概括すると,次のようにいうことができる。…
…数ヵ村で共同のものを設けることもあり,また郷倉を設けぬ村もあった。はじめは年貢として領主に上納する米その他の生産物を村から送り出すまで,一時的に保管する目的で設置した。建築費,修繕費は領主が負担することになっていた。…
…江戸時代に年貢を貨幣で納入すること。石高制の下では,年貢は原則として米穀の高によって賦課されるが,種々の理由により一部もしくは全部を米に代え金,銀,銭で納めることを石代納と称した。…
…土地の標準収穫量である石高を基準にして組み立てられた近世封建社会の体制原理をいう。
[貫高制との相違]
戦国大名も貫高制に基づいた検地を行い,軍役基準を定めたが,土地面積に応じた年貢賦課が原則で,どれだけの収穫量があるかについては無関心であった。田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。…
…検地に際して田畑・屋敷地の公定収穫量(石高)を算出することをいうが,その反当り換算率すなわち斗代のことをもさす。石盛によって算定された石高に一定の率をかけて年貢・諸役が賦課されたので,石盛の高低は貢租量の多少に関係した。斗代の決定は,田畑の優劣によって上,中,下,下々などに位付けし,上田と見立てた場所2~3ヵ所で1坪(約3.3m2)ごとの坪刈りをし,もし坪当り平均籾1升(約1.8l)があれば1反(約991.7m2)で3石(約541.2l)あり,それを五分摺りすれば玄米1石5斗を得るから,1斗(約18l)の15倍ということで〈15の盛〉または〈1石5斗代〉といった。…
… 中世荘園制下にあっても,広く各層の食料の実態を伝える史料は乏しい。一荘園領主が毎年手にする年貢の種類別総量に対する検討も少ない。しかし例えば皇室領の一つで,長く持明院統の御領であった長講堂領諸荘園の1407年(応永14)の年貢は,米4140石余に対してほかに雑穀などはなく,油,絹,糸,綿,白布,炭,紙,材木薪,香,小莚(こむしろ),漆があげられている。…
…村方三役の一つである名主(庄屋,肝煎)は近世の村体制成立とともに置かれ,名主を補佐する組頭もそれとほぼ同時期に設置されたが,百姓代の成立はそれらよりかなり遅く,中期以降一般化した。百姓代は,村の百姓を代表して名主・組頭の職務執行を監視するものとされ,名主・組頭による年貢・村入用(むらにゆうよう)の割当て不正をめぐる村方騒動などを契機に成立したものが少なくないようである。一村に1~2名程度で,組頭より少ないのが普通である。…
…古代・中世・近世社会で,年貢,夫役(ぶやく),公事(くじ)など賦課物を納入しないこと,または未納分の物をさす。もちろん,領主は年貢などの未進を簡単に認めたのではなく,未進があれば〈付使〉といって使を派遣して催促したし,〈発向〉といって武力で弾圧することもあった。…
…日本の近世において,領主が農民に課する年貢,諸役を,村ごとにまとめて提出すること。近世の領主は年貢徴収にあたり,その書類(年貢免定(めんじよう),年貢割付(わりつけ))を領内の個人あるいは個々の家にではなく,村ごとに出した。…
…近世前期の例を一,二掲げれば,1617年(元和3)出羽国檜山郡藤琴村百姓は,従来の免六ッ成が六ッ五分に上がったことを訴え減免に成功,また信濃国諏訪郡瀬沢村百姓も,23年〈免合高き〉ことを訴えて八分の減額を得ている。 このように〈免〉は近世においては領主取分(年貢)を指して用いられたが,これは免じるという本来的意味からすれば逆転した用法である。現在までの報告によれば,こうした逆転的用法はおおむね慶長・元和期(1596‐1624)に始まるとされており,それ以前にあっては,免は本来の意味で用いられていた。…
※「年貢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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