庭庄(読み)あえばのしよう

日本歴史地名大系 「庭庄」の解説

庭庄
あえばのしよう

現大野町相羽あいば付近に比定される皇室領庄園。鎌倉期には東西に分れ、東庄根尾ねお川左岸の屋井やい(現本巣郡糸貫町)を含んでいた。貞応三年(一二二四)以降仁治三年(一二四二)以前と推定される宣陽門院所領目録(島田文書)に、女房別当三位家領の一として美濃国饗庭庄とみえる。宣陽門院は後白河法皇の第六皇女覲子で、建久三年(一一九二)に京都長講堂領を譲られている。領家の女房別当三位家は五条邦綱の女で高倉院乳母であった邦子のことであると推測されている。正応六年(一二九三)四月、鷹司兼平が子の基忠に譲った家領のなかに「饗庭庄最勝寺領」とあるので、これ以前に当庄は本家最勝さいしよう(跡地は現京都市左京区)、領家を鷹司家としていたことがわかる(「鷹司兼平譲状案」鷹司家文書)


庭庄
あえばのしよう

荘園志料」に、「饗庭荘 承保四年の記文に見えて左大臣源俊房領なり。今も郡の吉良荘内に饗庭村存す」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報