建部清庵(読み)たけべ・せいあん

朝日日本歴史人物事典 「建部清庵」の解説

建部清庵

没年天明2.3.8(1782.4.20)
生年正徳2(1712)
江戸中期の医者。陸奥国仙台支藩の一関藩(一関市)の藩医の子として生まれる。名は由正のち由朴,字は元策,号は寧静館,代々清庵を称した。仙台藩医松井寿哲に医を学び,江戸に出て修業したのち帰藩して藩医となった。明和7(1770)年蘭方医学に対する疑問を記した質問状を門人の衣関伯竜に託し,江戸の諸医を訪問させた。安永2(1773)年ついに杉田玄白とめぐり合うこととなり,清庵の質問内容が玄白の模索し達し得た境地と似ていることから,玄白は早速返書を書いて両者の文通が始まった。ふたりの往復書簡は玄白塾の門弟らによって編集され,「蘭学問答」「瘍医問答」と呼ばれて新入塾生の心得とされ,清庵没後の寛政7(1795)年に『和蘭医事問答』として刊行された。刊行には3男亮策(由水)と5男勤(由甫)も協力している。亮策は玄白の門下であり,勤は清庵没後に玄白の養子となって杉田伯元を名乗っており,清庵と玄白の親交の深さがうかがわれる。宝暦5(1755)年の東北地方における大飢饉時には,その惨状に接して『民間備荒録』を著し,藩内に頒布,同書は明和8(1771)年江戸の書肆須原屋市兵衛によって上梓された。一関で没し,大慈山祥雲寺に葬られた。<著作>『清庵漫筆』『備荒草木図』『癘風秘録』<参考文献>「建部氏系譜」(『医史料』6号),宗田一図説・日本医療文化史』

(宗田一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建部清庵」の意味・わかりやすい解説

建部清庵
たけべせいあん

[生]正徳2(1712).一ノ関
[没]天明2(1782).3.8. 一ノ関
江戸時代中期の医師。享保 15 (1730) 年,江戸で小松寿哲に外科を学ぶ。かねてから紅毛外科に関心をもっていたので,それに対する疑問と意見を書きとめ,明和7 (70) 年に衣関甫軒に託したところ,甫軒はそれを杉田玄白に渡し,玄白と清庵との間で書簡をもって問答が行われた。それがのちに『和蘭医事問答』と題して出版された。この問答が契機で清庵の長子由水と門人の大槻玄沢が杉田玄白に入門,また清庵の5男亮策が玄白の養子となり,伯元と称した。清庵の著書に『民間備荒録』『備荒草木図』がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「建部清庵」の解説

建部清庵 たてべ-せいあん

1712-1782 江戸時代中期の医師。
正徳(しょうとく)2年生まれ。陸奥(むつ)仙台藩藩医松井寿哲に師事,江戸でオランダ外科をまなんで陸奥一関(いちのせき)藩(岩手県)藩医となる。杉田玄白と蘭方について文通,この往復書簡は「和蘭(オランダ)医事問答」と題して寛政7年に刊行された。天明2年3月8日死去。71歳。名は由正,由朴。字(あざな)は元策。別号に寧静館。著作に「民間備荒録」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例