後南朝(読み)ごなんちょう

改訂新版 世界大百科事典 「後南朝」の意味・わかりやすい解説

後南朝 (ごなんちょう)

1392年(元中9・明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇とこれを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。上皇はやがて帰洛したが,上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統の皇胤を奉じて南朝の再興をはかった。これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。しかしその勢力は微弱で,14年(応永21)伊勢の北畠満雅が後亀山上皇の招きに応じて挙兵したことはあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で敗死してからはまったく無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,43年(嘉吉3)将軍義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した事件,44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の紀州における挙兵などが目につく程度で,ほとんど見るべきものはない。67年の応仁の乱以後は大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,後南朝は自然消滅の途をたどった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後南朝」の解説

後南朝
ごなんちょう

1392年(明徳3・元中9)に行われた南北朝合体後の南朝皇統の子孫や遺臣による皇位回復行動をさす。皇位回復行動は,北朝・南朝が交互に皇位につくという合体条件の不履行を理由として,おもに天皇や将軍の代替りに,反幕府勢力に支援されつつおこされた。足利義満死後の1410年(応永17),後亀山上皇が吉野に出奔。称光天皇践祚(せんそ)後の14年,北畠満雅は後亀山上皇に応じて伊勢で挙兵,足利義持・称光天皇死後の28年(正長元)には小倉宮(おぐらのみや)を奉じて再挙兵したが,いずれも制圧された。足利義勝死後の43年(嘉吉3)日野有光らが皇居に乱入し神器を奪取した禁闕(きんけつ)の変は著名。以後,後南朝はしだいに勢いを失い,表舞台から消える。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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