徳島(読み)トクシマ

デジタル大辞泉 「徳島」の意味・読み・例文・類語

とくしま【徳島】

四国地方南東部の県。もとの阿波国にあたる。人口78.6万(2010)。
徳島県北東部の市。県庁所在地。もと蜂須賀はちすか氏の城下町。かつてはの集散地。8月には阿波踊りでにぎわう。阿波浄瑠璃人形芝居の伝承地。重化学・木工業が盛ん。人口26.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「徳島」の意味・読み・例文・類語

とくしま【徳島】

  1. [ 一 ] 徳島県北東部の地名。県庁所在地。天正一四年(一五八六蜂須賀家政が猪山に築城の際付近の地を徳島と命名。吉野川河口に発達。江戸時代は蜂須賀氏二五万七千石の城下町。藍玉の生産で知られた。染色・木工業などが行なわれ、八月の阿波踊りは有名。明治二二年(一八八九)市制。渭津(いのつ)
  2. [ 二 ]とくしまけん(徳島県)」の略。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳島」の意味・わかりやすい解説

徳島(県)
とくしま

四国の南東部に位置する県。東は紀伊水道、南東は太平洋に面し、西は四国山地を隔てて愛媛県と高知県に、北は讃岐(さぬき)山脈を境にして香川県に接する。県庁所在地は徳島市。2020年(令和2)の国勢調査による人口は71万9559人で、2015年の国勢調査時から約3万6000人の減少となっている。面積は4146.75平方キロメートルで、四国の総面積の約22%を占める。

 古くは粟国(あわのくに)と長国(ながのくに)の2国があったらしいが、大化改新(645)ごろには阿波(あわ)一国に統一された。徳島の地名は、1585年(天正13)阿波に入国した蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が翌年渭津(いのつ)(現在の徳島市)に猪山(いのやま)城を築き、渭津を徳島と改めたことに始まる。

 徳島県が誕生した1880年(明治13)の県人口は63万5012人で、1888年には約68万に増加したが、70万人台に達したのは1902年(明治35)である。この間の人口停滞はコレラ、流行性感冒による死亡者や他府県への転出者が多かったことによる。大正から昭和にかけてはほぼ順調な人口増加をみたが、1934年(昭和9)の約77万人をピークにしだいに男子人口が減少した。第二次世界大戦後の1945年には復員などで83万5763人に増加し、1954年(昭和29)には89万人に達したが、それ以降阪神工業地帯などへの人口流出が続き、1972年には78万人台に減少した。人口の3分の1は徳島市に集中、また徳島市周辺の小松島市、鳴門(なると)市、板野(いたの)郡などに人口が多いのに対し、美馬(みま)市、三好(みよし)市、三好郡、海部(かいふ)郡など山地や海岸部の地域では過疎化が進んでいる。2002年(平成14)4月には4市10郡38町8村であったが、平成大合併を経て、2020年(令和2)10月時点では8市8郡15町1村となっている。

[高木秀樹・平井松午]

自然

地形

中央構造線に沿って流れる吉野川の北岸は讃岐山脈、南岸は剣山(つるぎさん)を主峰とする剣山地がそれぞれ東西方向に走り、県総面積の80%は山地で占められる。剣山地の北斜面は吉野川流域に、南斜面は勝浦川・那賀(なか)川の流域となる。吉野川流域の徳島平野、勝浦川・那賀川の下流部に沖積平野があって県内の主たる居住・生産地域となっている。山地の地質をみると、讃岐山脈は中生代白亜紀の和泉(いずみ)層、剣山地は北半は中生代の変成岩三波川(さんばがわ)帯、南半は古生代・中生代の秩父(ちちぶ)帯、南の海部山地は四万十(しまんと)帯である。約130キロメートルに及ぶ海岸線のうち、北東部の鳴門市の海岸は出入りに富むが、吉野川河口から那賀川河口に至る約40キロメートルの海岸は単調な砂浜海岸となっている。南東部の橘(たちばな)湾から高知県境までの太平洋に面した海岸は岩石海岸が続き、山地が海岸に迫り平地に乏しい。

 自然公園には瀬戸内海国立公園、剣山、室戸阿南(むろとあなん)海岸の2国定公園、大麻山(おおあさやま)、奥宮川内谷(おくみやごうちだに)、中部山渓(ちゅうぶさんけい)、土柱高越(どちゅうこうつ)、箸蔵(はしくら)、東(ひがし)山渓の6県立自然公園がある。

[高木秀樹・平井松午]

気候

剣山地を境にして北部地域の瀬戸内式気候と南部地域の南海型気候に分かれる。北部地域は年間を通じて晴天の日が多く、とくに冬季は快晴の日が続く。夏は瀬戸内特有の蒸し暑い凪(なぎ)現象がおこる。年降水量は少なく1000~1500ミリメートルくらいである。南海型気候は降水量の多いのが特徴で、3000ミリメートルに達し、木頭(きとう)などの林業地帯を生んだ。気温は県南の海岸部で年平均気温17℃前後と高く、剣山付近がもっとも低く14℃以下である(1981~2010)。

[高木秀樹・平井松午]

歴史

先史・古代

旧石器時代の遺跡は、讃岐(さぬき)山脈南麓(ろく)の河岸段丘上や丘陵・山腹に分布するほか、阿南市廿枝(はたえだ)などからもナイフ形石器などが発掘されている。縄文土器は、1924年(大正13)徳島市城山東麓の貝塚から籾痕(もみあと)のある土器が発見されたのをはじめ、吉野川流域や鳴門市の森崎貝塚などから発掘されているが数は多くない。弥生(やよい)時代の出土品は県内各地から発掘されるが、とくに銅鐸(どうたく)と銅剣の出土地が集中する鮎喰(あくい)川流域を中心に、青銅器文化圏が存在したと考えられている。古墳の大部分は後期のもので、前方後円墳は吉野川流域や鮎喰川下流域に多い。

 古記には県北を粟国(あわのくに)、県南を長国(ながのくに)と称したとあるが、大化改新のころ阿波一国となった。国府は国府町(こくふちょう)観音寺(かんおんじ)(徳島市)付近に置かれ、矢野(徳島市)には阿波国分寺も建立された。観音寺に隣接する石井町尼寺(にじ)からは、国分尼寺跡(国の史跡)が発掘されている。『延喜式(えんぎしき)』によると、当時の阿波国には阿波、名方(なかた)(のち名東(なひむかし)、名西(なにし))、板野、美馬(みま)、麻殖(おえ)、勝浦(かつら)、那賀(なか)の各郡があった。条里遺構は吉野川の下流や、小松島市、阿南市に残っている。

 昭和30~40年代に発掘調査された美馬市美馬町の郡里(こおざと)廃寺(国の史跡)や石井町の石井廃寺の遺物から、その創建は飛鳥(あすか)~奈良時代と推定される。平安中期以降、弘法大師(こうぼうだいし)信仰が四国中に広まり、四国八十八か所の霊場が定まり、阿波にも23の札所が置かれた。

 1185年(文治1)の源平屋島(やしま)の戦いは平氏の敗北に終わったが、平氏の残党が祖谷山(いややま)に落ち延び落人(おちゅうど)集落をつくったといわれる。阿波の荘園(しょうえん)は、奈良時代の新島荘(しょう)、枚方(ひらかた)荘、勝浦荘を除いて鎌倉初期に成立したものが多い。その多くは公田の荘園化で、墾田を荘園化したのは富田、助任(すけとう)の各荘の現徳島市中心部にすぎない。

[高木秀樹・平井松午]

中世

源平の戦いのあと、鎌倉幕府は佐々木経高(つねたか)を阿波、淡路、土佐3国の守護職に任じたが、佐々木氏は承久(じょうきゅう)の乱(1221)に敗れて守護職は小笠原(おがさわら)氏に移った。1341年(興国2・暦応4)足利(あしかが)氏の重臣細川頼春(よりはる)が四国管領(かんれい)、阿波守護に任ぜられ、3代詮春(あきはる)のときに勝瑞(しょうずい)城(藍住(あいずみ)町)を築き守護所とした。細川氏は北朝方として、剣山周辺の阿波山岳武士の南朝方に対抗した。勝瑞城は吉野川低地にある要地で、約240年間、阿波の行政の中心地となった。1552年(天文21)8代持隆(もちたか)は重臣三好義賢(みよしよしかた)に殺害され、以後阿波は三好氏に支配されたが、1575年(天正3)には土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が阿波に侵入、1582年には阿波全土を支配した。しかし1585年には豊臣(とよとみ)秀吉による全国統一のための四国平定で長宗我部氏も敗退し、蜂須賀家政が阿波に入国することになった。

[高木秀樹・平井松午]

近世

蜂須賀氏は1586年(天正14)猪山城(現徳島城)を築いて一宮(いちのみや)城から移り、城下町をつくった。以後、徳島は徳島藩25万石の城下町として明治維新に及んだ。1670年(寛文10)には城下の人口1万8826、戸数1472と記録される。藩政初期には阿波国の重要な地に支城を置き重臣を配した。一宮城(徳島市)、撫養(むや)城(鳴門市)、川島城(吉野川市)、池田大西城(三好市)、仁宇(にう)城(那賀(なか)町)、鞆(とも)城(海陽町)、脇(わき)城(美馬市)、富岡(牛岐(うしき))城(阿南市)、西条城(阿波市)の9城で「阿波の九城」とよばれたが、幕府の一国一城令によりすべて取り壊された。なお1615年(元和1)淡路国が徳島藩に加えられた。

 徳島藩の経済を支えたのは吉野川流域のアイ栽培、鳴門海峡に面した撫養の塩田、山地でのタバコ栽培であり、とくにアイ栽培と藍玉(あいだま)製造は藩の重要な財源となった。新田開発も進められ、阿波藍と新田開発は徳島藩の表高を大きく上回り、実高は40万石といわれた。一方、藩政下の農民の生活は苦しいものであった。1756年(宝暦6)の五社宮騒動(ごしゃのみやそうどう)は藍玉一揆(いっき)ともよばれるように、藩の藍専売制に対する農民の怒りが爆発したものである。騒動の首謀者5人は捕らえられて刑死したが、騒動の起きた石井町には5人を義民として祀(まつ)る五社神社がある。藩政期にはこのほか仁宇谷一揆、山城谷(やましろだに)一揆など約50の一揆が発生している。

 江戸末期には渭東(いとう)地区(徳島市)に洋式調練所を設け、津田に台場を築いて海防にあたった。戊辰(ぼしん)戦争には官軍として東北地方にまで赴いた。明治維新時には藩内でも混乱が生じ、版籍奉還に伴う禄(ろく)制改革によって卒族の扱いを受けた徳島藩筆頭家老で洲本(すもと)城代の稲田氏家臣を、徳島藩士が襲う庚午事変(こうごじへん)(稲田騒動)が起こり、首謀者10人が処刑された。

[高木秀樹・平井松午]

近代

1871年(明治4)の廃藩置県で徳島県が設置され、同年名東(みょうどう)県と改称、1876年には名東県が廃され、旧阿波国は高知県に、旧淡路国は兵庫県に分割編入された。1880年ふたたび徳島県が復活したが、旧淡路国は戻らなかった。自由民権論の先駆をなした土佐立志(とさりっし)社の影響を受け、徳島にも1874年井上高格(たかのり)を中心とする自助社が結成され自由民権論が盛んとなり、翌年二十数名の社員が大阪で板垣退助を迎えて気勢をあげている。しかし、首唱者は投獄されて徳島の自由民権運動は消滅した。1889年の市町村制施行で徳島市が誕生し、1市10郡2町139村に統一された。当時の徳島市の人口は6万余、全国で10番目であり、藍経済に支えられて銀行も多く設立されたが、明治30年代にはインド藍・人造藍(化学染料)などの輸入により阿波藍は凋落(ちょうらく)し、県勢も衰退した。

[高木秀樹・平井松午]

産業

1995年(平成7)の国勢調査による徳島県の産業別就業者数は40万6031人であったが、2005年国勢調査(1%抽出集計)では37万8000人となっている。産業別就業者では卸売・小売業がもっとも多いが、第一次産業(農林水産業)の就業者の割合は11.2%(1995年は12.2%)を占め、全国平均の5.1%(1995年は6.0%)を大きく上回っていて、とくに農業に従事する者が多い。近代工業の発達は遅れており、工業出荷額は1994年に1兆4420億円であったが、2004年には1兆6562億円とわずかに増加した。しかし、全国総出荷額のわずか0.6%を占めるにすぎない。

[高木秀樹・平井松午]

農林業

山地の多い徳島県の耕地面積は、県の総面積の7.8%である。そのうち水田が約6割で、吉野川中・下流域や那賀(なか)川・勝浦(かつうら)川の流域、県南の海岸沿いに多く、畑地、樹園地は山間地に分布する。2004年の農家数は3万9910戸(1995年は約4万5000戸)で、そのうち、大部分は兼業農家である。吉野川下流の徳島平野では藩政時代にはアイ作が盛んであったが、明治中期に藍(あい)製造の衰退で桑園(そうえん)や蔬菜(そさい)畑にとってかわり、さらに現在は灌漑(かんがい)施設が整備され水田地帯となっている。最下流部は、1946年(昭和21)の南海地震によって地盤が沈下し、塩水を避けて畑地に転換されている。

 畑作物はサツマイモジャガイモダイコン、ニンジン、キュウリホウレンソウ、レタスなどがある。ダイコンは阿波たくあんの原料として江戸時代から栽培され、畑作物では収穫量第1位であったが、2004年度(平成16)の統計ではニンジンが第1位となっている。このほかに、シロウリ、蓮根(れんこん)、タケノコなどの生産が全国に知られており、近年は施設園芸も盛んになってきている。ミカン栽培は勝浦川流域が中心であったが、1981年(昭和56)の大寒害以降は激減した。スダチは県の特産物として全国生産の大部分を占める。県の北部ではナシの栽培が行われており、花卉(かき)栽培ではキク、洋ラン、ヒオウギ、オモトなどが知られる。

 藩政期から明治中ごろまで吉野川の中・下流域を中心にアイ栽培が行われ、江戸末期には栽培面積は8000ヘクタール、最盛時の1903年(明治36)には1万5000ヘクタールに達し、流域の過半をアイ畑が占めた。刈り取られたアイは「寝床(ねどこ)」とよばれる作業場で発酵されたのち、約70日間藍蔵に保存されてから藍玉(あいだま)に加工され、着物や足袋(たび)などの染料となった。徳島藩は藍役所を置き、アイ栽培、藍玉の製造・販売を監督した。藩の経済を支えた藍も明治中ごろにはインド、沖縄、台湾などから輸入される安い藍に押されて衰退し、さらに化学染料にとってかわられた。

 アイとともに徳島藩の重要な財源であった葉タバコ栽培や、明治以降盛んとなった養蚕業は、現在でも県西部を中心に行われているが、衰退の一途にある。第二次世界大戦後に伸張した畜産業も、輸入自由化のなかで低迷を続けている。

 県の総面積の約75%が林野で、そのうち私有林が83%を占める。スギ、ヒノキ、クヌギ、カシなどが吉野川・那賀川の上流域から伐(き)り出される。とくに那賀川上流の木頭(きとう)は降水量が多いためスギの育成に適し、藩政時代から美林で知られた。林産物にはシイタケや和紙原料のミツマタ、コウゾ栽培がある。

[高木秀樹・平井松午]

水産業

蒲生田(かもだ)岬以北の東海岸は沿岸漁業が主で、経営規模も小さく、エビ、タイ、イワシ、アジ、シラスなどの漁獲があり、鳴門海峡のワカメは優良品として知られる。南海岸は沿岸・沖合漁業が盛んで、マグロ、カツオなどの漁獲がある。養殖漁業には鳴門海峡でのワカメ、吉野川河口のノリなどがある。このほかに、アユやウナギの内水面養殖も行われている。

 阿波の塩業は1599年(慶長4)に播磨(はりま)(兵庫県)から入浜式塩田が導入され、正保(しょうほう)年間(1644~1648)には撫養塩田(むやえんでん)(鳴門市)が完成し、以後南斎田(みなみさいだ)(徳島市)、橘(たちばな)(阿南市)にも塩田が造成された。阿波の塩は品質がよく赤穂(あこう)塩と並んで全国的に知られ、藍、タバコとともに藩の財政を支えた。明治以降塩田はしだいに整理され、1972年(昭和47)のイオン交換膜法による製塩ですべて姿を消した。

[高木秀樹・平井松午]

工業

繊維、木工業などの軽工業が主体で、鉄鋼、機械などの重工業が占める比率は小さい。経営体も中小規模のものが多いが、1964年(昭和39)徳島市を中心とする地域が新産業都市に指定され、企業誘致も進み、吉野川河口北岸の徳島市川内地区、北島町にかけては東邦テナックス(旧、東邦レーヨン。2001年工場閉鎖)、日清紡(にっしんぼう)、四国化成などの大手企業の工場立地もみられ、また松茂(まつしげ)町や、鴨島(かもじま)町(現、吉野川市)、土成(どなり)町(現、阿波市)には工業団地が造成された。製造品出荷額等は2004年で1兆6562億円(1995年では1兆4653億円)で、製薬などの化学工業、電子部品・デバイス、電気機械器具、パルプ・紙・紙加工品、食料品、飲料・たばこ・飼料の順となっている。

 地場産業には藩政期からの木工業があり、とくに阿波たんす、阿波鏡台の製造で知られた。木製建具、仏壇、銘木の生産もある。綿織物の阿波しじらも明治初期に藍と結び付いてつくられてきたものである。阿波正藍しじら織、鳴門市の大谷(おおたに)焼、吉野川市の阿波和紙は伝統的工芸品に指定されている。このほか上板(かみいた)町の和三盆(砂糖)、つるぎ町のそうめんなどがある。

[高木秀樹・平井松午]

交通

徳島県北東部の鳴門(なると)海峡に臨む撫養(むや)(鳴門市)は、古来四国の門戸にあたる重要な港津であり、『阿波国風土記』(逸文)には「牟夜(むや)」と記されている。都から四国へ至る南海道の官道は、加太(かだ)(和歌山市)から紀淡(きたん)海峡を越えて淡路島へ上陸し、福良(ふくら)から鳴門海峡を渡って牟夜へ到着した。牟夜からは陸路を西へ向かい、板野郡衙(ぐんが)推定地とされる郡頭(こおず)駅(板野町)から北転して讃岐(さぬき)へ抜けた。阿波の国府(徳島市)へは、郡頭駅から南進する支路によって結ばれたと考えられている。

 江戸時代、徳島城下を起点とするおもな街道を阿波五街道と称した。吉野川の南岸を西へ向かい、白地(はくち)の渡し(三好市池田町)で吉野川を越えて伊予(いよ)(愛媛)へ行く伊予街道、撫養から吉野川北岸に沿って美馬市脇町(わきまち)を通り、州津(しゅうづ)(三好市池田町)で吉野川を渡り池田で伊予街道と合する川北街道(撫養街道)、讃岐山脈の大坂峠を越えて讃岐(香川)へ向かう讃岐街道、海沿いを南下し、小松島や日和佐(ひわさ)、八坂八浜(やさかやはま)の難所を経て土佐(とさ)(高知)へ行く土佐街道、撫養を経由して淡路の洲本へ向かう淡路街道である。現在、伊予街道は国道192号、川北街道は地方道鳴門池田線、讃岐街道は同じく徳島引田(ひけた)線、土佐街道は国道55号、淡路街道は国道28号がほぼ踏襲している。

 江戸時代には河川交通も重要で、吉野川をはじめ勝浦川、那賀川、海部(かいふ)川などでは川舟による物資の輸送が行われた。吉野川は川口(三好市山城(やましろ)町)まで遡航(そこう)でき、池田、州津などの河港があり、河口の徳島からは米、塩、日用品が、上流側からは藍玉、木材、木炭などが運ばれ、鉄道の敷設まで続いた。秘境であった祖谷(いや)や木頭(きとう)への自動車道が通じるようになったのは、大正以降である。

 鉄道は1914年(大正3)に吉野川の川舟にかわる徳島本線が完成し、1935年(昭和10)には徳島と高松を結ぶ高徳本線(こうとくほんせん)が全線開通した。県南の牟岐線(むぎせん)が開通したのは1942年で、1973年には海部まで延長された。1992年(平成4)には、海部と甲浦(かんのうら)(高知県東洋町)とを結ぶ第三セクター方式の阿佐海岸鉄道(あさかいがんてつどう)が開通した。阪神地方への航路は、1875年(明治8)の航海汽船会社の設立とともに発展してきた。現在は徳島港と和歌山港、東京港、新門司港にフェリーの定期船便、徳島小松港と釜山(ふざん/プサン)との間にコンテナ便がある。徳島空港は東京と福岡へ定期便が就航し、東京とは高速バスでも結ばれている(2018)。

 本州四国連絡橋の神戸―鳴門ルート(神戸淡路鳴門自動車道)は、淡路島と大毛(おおげ)島(鳴門市)を結ぶ大鳴門橋(1629メートル)が1985年(昭和60)に完成、1998年(平成10)4月に全長3911メートルと世界最長の吊(つ)り橋である明石(あかし)海峡大橋が完成したことで全通、阪神方面への時間距離が短縮した。鳴門インターチェンジからは高松自動車道(四国横断自動車道の一部)となり、香川県へ通じている。また、鳴門ジャンクションで接続した徳島自動車道(徳島インターチェンジから四国縦貫自動車道の一部)が徳島市を通り、愛媛県四国中央市川之江まで走っている。

[高木秀樹・平井松午]

社会・文化

教育・文化

1661年(寛文1)徳島藩は京都から合田晴軒(ごうだせいけん)を招いて儒官とした。以後、増田立軒、柴野栗山(しばのりつざん)らの儒者が藩に仕えている。1791年(寛政3)12代藩主治昭(はるあき)は栗山の子平次らの勧めで寺島学問所を設立し、士族だけでなく庶民の子弟の入学も許した。1768年(明和5)には賀川(かがわ)流産科を確立した賀川玄悦(げんえつ)を京都から招いて藩医にしている。1795年には医師学問所が創設され、藩内に医学や本草(ほんぞう)学を学ぶ者も多くなった。シーボルト門下の美馬順三(みまじゅんぞう)は玄悦の『産論』をオランダ語に訳し、同じくシーボルトに学んだ高良斎(こうりょうさい)は優れた眼科医として知られた。

 2018年(平成30)現在、大学は国立の徳島大学鳴門教育大学、私立の四国大学、徳島文理大学の4校、短期大学は私立3校、高等専門学校に国立阿南工業高専がある。

 新聞は、明治初期に『名東(みょうどう)新聞』『徳島新聞』『普通新聞』『徳島毎日新聞』が発刊されたが、すぐに廃刊になったものが多い。現在、県内世帯普及率がもっとも高い『徳島新聞』は『普通新聞』がその後何度か紙名をかえ、他紙と合併、分離を繰り返しながら命脈を保ったものである。放送は、NHK徳島放送局が1933年(昭和8)に開局し、1959年にテレビ放送を開始、四国放送(JRT)も1959年にテレビ放送を始めた。1992年にはラジオ放送のエフエム徳島が開局した。

[高木秀樹・平井松午]

生活文化

徳島県最大の祭りとなった阿波踊は盂蘭盆(うらぼん)の精霊(しょうりょう)踊りが祖型とみられ、夜の「ぞめき」が盛んになるにつれ、早朝に三味線と語りで町中を流す「流し」がほとんどみられなくなったのが惜しまれる。人形芝居も藩政期に淡路で盛んになり、徳島城下にも多くの人形座があった。明治初期には県下に58の人形座があったという。現在は勝浦座など十数座が活動するほか、高校のクラブ活動や婦人会によって演じられることが多い。なお、1999年には「阿波人形浄瑠璃(じょうるり)」が国の重要無形民俗文化財となった。

 吉野川の支流祖谷(いや)川上流域の祖谷地方は、大正期まで交通の不便な地で、平家の落人が住み着いたとも伝えられ、長く他地域と隔絶されていたため独特の習俗を残している。一家の跡取りが結婚すると、親はそのほかの子供を連れて別家に移る別居隠居の制度や、山仕事や農作業を共同で行う結(ゆい)などがみられる。隠居制度は那賀(なか)川上流の旧木頭(きとう)村地区、旧木沢村地区(現那賀町)にも残っている。県北部の讃岐山脈の大坂峠、三頭越(さんとうごえ)、猪鼻(いのはな)峠は阿波と讃岐(香川)を結ぶ道路が通じ、藩政時代には阿波の藍やたばこが運ばれ、また借耕牛(かりこうし)が通る道でもあった。借耕牛の風習は江戸中期からあり、阿波の山分(さんぶん)から水田耕作のため讃岐へ出稼ぎに行き、牛の使役料は米で支払われた。この制度は昭和30年代まで残っていたが、農業経営の変化とともに失われた。

 「西祖谷の神代踊(じんだいおどり)」(国の重要無形民俗文化財)、石井町の「曽我(そが)氏神社神踊(かみおどり)」(選択無形民俗文化財)、徳島市の「宅宮(えのみや)神社神踊」など県下には神踊が分布するが、五穀豊穣(ほうじょう)、雨乞(あまご)い祈願など農業にかかわる芸能である。吉野川、那賀川沿いには辻堂(つじどう)、薬師堂、大師堂とよばれる小堂のある集落が多い。これらの小堂は村人の親睦(しんぼく)の場所、また悪病よけ、灯明あげなどを行う信仰の場所であるとともに、四国遍路の接待場所でもあり、「阿波の辻堂の習俗」として選択無形民俗文化財とされている。

 藩政期に藩の財政を支えた藍、塩、和三盆などの製造に用いられた「阿波藍栽培加工用具」「鳴門の製塩用具」「阿波の和三盆製造用具」が保存されており、「祖谷の蔓(かずら)橋」とともに国の重要有形民俗文化財に指定されている。

 国指定史跡に円墳の「段の塚穴」、郡里(こおざと)廃寺跡(以上美馬(みま)市)、阿波国分尼寺跡(石井町)、丹田古墳(東みよし町)、勝瑞城館跡(藍住町)、渋野丸山古墳、徳島城跡、徳島藩主蜂須賀家墓所(以上徳島市)、阿波遍路道(鶴林寺道、太龍寺道、いわや道、平等寺道)があり、国指定重要文化財には、建造物に丈六寺本堂、観音堂、三門(徳島市)、切幡(きりはた)寺大塔(阿波市)のほか、藍農家の田中家住宅(石井町)、製塩業の福永家住宅(鳴門市)など、また彫刻に井戸寺の木造十一面観音(徳島市)などがある。国指定天然記念物には、樹齢1000年以上と推定される東みよし町の「加茂の大クス」(特別天然記念物)のほか、「阿波の土柱(どちゅう)」(阿波市)、「大浜海岸のウミガメおよびその産卵地」(美波町)などがあり、渦潮で知られる鳴門は国の名勝に指定されている。

[高木秀樹・平井松午]

伝説

平家の落人伝説はほとんど全国にわたっているが、とりわけ本県の三好(みよし)市東祖谷(ひがしいや)の阿佐(あさ)家を中心に、高知県境にかけて分布することは古くから知られている。阿佐家では落人のしるしとして「平家の赤旗(あかはた)」を伝えている。四国には狐(きつね)がいないというが、狸(たぬき)伝説は実に多い。なかでも阿波は「狸合戦」の本場で、徳島の六右衛門(ろくえもん)狸と小松島の金長(きんちょう)狸を親分とする2派の合戦は激しく、両親分狸が戦死するまで続いたという。津田浦(徳島市)に六右衛門の墓、小松島市に金長の祠(ほこら)があって、いまも信仰を集めている。小松島市の沖合いのお亀磯(かめいそ)という岩礁は、もと亀島だったところで、お亀千軒とよばれるほど繁栄した漁村だったという。あるとき、一夜にして水没し、おかめ波石という岩だけが残ったという伝説がある。神前の銅(あかがね)の鹿(しか)の顔が赤くなると島が沈むという言い伝えがあり、その前兆を信じた者だけが助かり、疑った者はみな死んだ。徳島市福島の四所神社(ししょじんじゃ)は、亀島にあったのを生き残った者が福島に移したといわれる。大毛(おおげ)島土佐泊(とさどまり)に貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)がある。平通盛(みちもり)は一ノ谷の合戦で戦死し、妻の「小宰相局(こざいしょうのつぼね)」は屋島を目ざしてこの地まできたが、世をはかなんで入水(じゅすい)した。里人が哀れんで葬ったという墓が残っている。浄瑠璃(じょうるり)の『傾城(けいせい)阿波の鳴門』で知られる「阿波十郎兵衛」のモデル坂東十郎兵衛屋敷跡が徳島市川内(かわうち)町にある。十郎兵衛は徳島藩の船改(あらため)役を勤めていたが、無実の罪を負わされて磔(はりつけ)になったと伝えている。「衛門三郎(えもんのさぶろう)」は弘法(こうぼう)大師のあとを追って21回も四国全土を巡り、力尽きて焼山(しょうさん)寺山(神山町)で倒れたが、死の直前に大師に出会えたという。大師が墓標がわりに杖(つえ)をさし、根づいたのが「杖杉(つえすぎ)」であるという。大師伝説の一つに「鯖大師(さばだいし)」がある。八坂八浜(やさかやはま)(海陽町)は海沿いの難所で、大師はここで馬子(まご)を呼び止め、馬の背に積んだ鯖を一尾くれといったが、それを断るとにわかに馬が腹痛をおこした。さては大師、と気づいて鯖を献ずると、たちまち腹痛がやんだ。大師は鯖を海に放してやったという話である。遍路の国だけあって、小松島の立江(たつえ)寺の「肉づきの鉦緒(かねお)」、「種まき大師」(鳴門市大麻(おおあさ)町)、「焼山寺の大蛇(おろち)」など、弘法大師や遍路にまつわる伝説が多い。

[武田静澄]

『『徳島県史』全10冊(1964~1967・徳島県)』『『徳島県林業史』(1972・徳島県)』『福井好行著『徳島県の歴史』(1973・山川出版社)』『金沢治著『日本の民俗36 徳島』(1974・第一法規出版)』『『徳島県百科事典』(1981・徳島新聞社)』『『角川日本地名大辞典 徳島県』(1986・角川書店)』『『図説 徳島県の歴史』(1994・河出書房新社)』『『新版 徳島県の歴史散歩』(1995・山川出版社)』『『徳島の地理』(1995・徳島地理学会)』『『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』(2000・平凡社)』



徳島(市)
とくしま

徳島県北東部、吉野川の河口にある市。県庁所在地。県北(阿波北方(あわきたがた))と県南(阿波南方)の接点をなす。1889年(明治22)市制施行。1926年(大正15)名東(みょうどう)郡斎津(さいつ)、沖洲(おきのす)の2村、1937年(昭和12)同郡加茂名(かもな)町、八万(はちまん)村、加茂町、1951年勝浦郡勝占(かつら)、多家良(たから)の2村、1955年名東郡新居(にい)町、上八万村、名西郡入田(にゅうた)村の一部、板野郡川内(かわうち)村、1966年板野郡応神(おうじん)村、1967年名東郡国府(こくふ)町をそれぞれ編入。JRの高徳(こうとく)線、徳島線、牟岐(むぎ)線、国道11号、55号、192号、438号が通じる交通の要地である。1995年(平成7)には徳島自動車道が開通した。また徳島小松島港徳島港区からは和歌山、東京、北九州などへの定期航路がある。また市の北部に接する松茂(まつしげ)町には徳島空港があり、東京、福岡からの定期便が就航する。面積191.39平方キロメートル、人口は25万2391(2020)。ちなみに市制施行時の人口は約6万1000人であった。

 市域は、北は旧吉野川の分流今切(いまぎれ)川右岸から、南は剣(つるぎ)山地の一部である中津峰(なかつみね)山(773メートル)に及ぶ。市街地は新町川、助任(すけとう)川などの吉野川の分流と、分流によって隔てられた徳島、福島、住吉(すみよし)島、寺島、出来(でき)島、常三島(じょうさんじま)などの島々がつくる三角州上に立地する。

[高木秀樹]

歴史

徳島市の城下町としての発展は1585年(天正13)蜂須賀家政(はちすかいえまさ)の入国に始まり、以後明治維新まで徳島藩の中心として繁栄した。家政は当初徳島西部の一宮(いちのみや)に城を構えたが、まもなく新町川北岸の渭津(いのつ)の猪山(いのやま)(渭山とも。現在の城山(しろやま))に城を築き、翌年ここに移り渭津を徳島と改めた。城下町は徳島を中心に、寺島、出来島、常三島などに武士の屋敷を配し、また御用商人の屋敷や武士の買い物町として商家が置かれた。現在も八百屋(やおや)町、籠屋(かごや)町などの地名が残る。北の助任町、南の幟(のぼり)町、西の佐古(さこ)町など交通の要地には軽卒、鉄砲組を配置し、東の福島の安宅(あたけ)には御船屋(おふなや)を置き、水軍の根拠地とした。明治以降も県庁、市役所は城山周辺に立地し、新町が商業の中心をなすなど、藩政時代の地域区分、機能区分を継承している。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)7月4日、アメリカ軍による空襲で市街の約62%が焼失、死者は約1000人に達した。

[高木秀樹]

産業

徳島市の産業の中心は地場産業の木工品製造である。城山東部、いわゆる渭東(いとう)地区の安宅は、藩政時代に船大工が住んでいた地区で、船の余材を使って安宅物とよばれる下駄(げた)やちり取りなどの木工品をつくっていた。明治以降は県内の豊富な木材を利用して鏡台、たんす、仏壇などの製造が盛んになった。とくにたんすは福岡県大川市、広島県府中市とともに全国的な産地として知られた。渭西地区の佐古や鮎喰(あくい)は良質の地下水に恵まれ、藩政時代からみそ、しょうゆの醸造業のほか、染色、織物業が行われている。1982年に徳島市立木工会館が完成し(2020年閉館)、木工業のほか、藍(あい)染めなどの地場産業の振興を図っている(木工会館の閉館に伴い、後継施設として徳島市産業支援交流センターが場所をかえてオープン)。吉野川北岸の川内地区には化学、繊維などの大手企業の工場立地もみられる。

 農業は、都市化で耕地は減少しているが、米作、サツマイモ、スダチ、イチゴなどの野菜・果樹栽培が行われ、漁業は、ハモ、太刀魚、イカなど小型底引網、機船船曳綱による沿岸漁業やノリ養殖がある。

[高木秀樹]

文化・観光

徳島城は1875年(明治8)に取り壊され徳島中央公園となり、徳島城跡が国の史跡に、表御殿庭園が国の名勝に指定されている。1992年(平成4)徳島城博物館が開設された。北西部の国府町地区の観音寺(かんおんじ)は奈良時代に国衙(こくが)が置かれた地。周辺には四国八十八か所の第14番常楽寺、15番国分寺、16番観音寺、17番井戸寺があり、鮎喰川沿いの一宮地区には13番大日寺がある。南部の勝浦川左岸の丈六寺の三門は室町時代の和唐様折衷の建築で、本堂、観音堂、経蔵とともに国の重要文化財に指定されている。眉山(びざん)(290メートル)へはロープウェーが通じ、頂上からは市街や淡路島を眺望できる。吉野川北岸の川内地区にある徳島県立阿波十郎兵衛屋敷は、浄瑠璃(じょうるり)で名高い阿波十郎兵衛のモデル坂東十郎兵衛の屋敷跡。四国最大の行事阿波踊(8月12~15日)は徳島城の築城祝いに始まると伝えられる。1999年には1年を通して阿波踊をみることができる「阿波おどり会館」が開館した。文化の森総合公園には、県立博物館、県立近代美術館のほか図書館や文書館などがある。1998年とくしま動物園、2002年とくしま植物園が開園した。また、市内には徳島大学、四国大学、徳島文理大学などがあり、文教都市でもある。

[高木秀樹]

『『徳島市史』全6巻(1973~2020・徳島市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「徳島」の意味・わかりやすい解説

徳島[県] (とくしま)

基本情報
面積=4146.67km2(全国36位) 
人口(2010)=78万5491人(全国44位) 
人口密度(2010)=189.4人/km2(全国33位) 
市町村(2011.10)=8市15町1村 
県庁所在地=徳島市(人口=26万4548人) 
県花=スダチ 
県木=ヤマモモ 
県鳥=シラサギ

四国の東部を占める県。北は香川県,西は愛媛県,高知県に接し,東は紀伊水道,南は太平洋に面する。面積,人口,経済がともに全国の100分の1を占めるため,〈100分の1県〉と呼ばれてきたが,高度経済成長にともなう地域格差の拡大によって,近年は100分の1の水準の維持も困難になってきている。

県域はかつての阿波国全域にあたり,江戸時代は淡路国とともに徳島藩蜂須賀氏の所領であった。1871年(明治4)廃藩置県によって徳島藩は徳島県となり,同じく阿波・淡路両国を管轄した。同年名東(みようどう)県と改称。73年香川県を併合して讃岐国も管轄下に置いたが,75年香川県の再置により分離した。翌76年名東県は廃されて阿波は高知県に,淡路は兵庫県に編入されたが,80年高知県から阿波が分離して徳島県が再置され,現在に至っている。

徳島県の遺跡は吉野川流域に集中する。先土器・縄文時代の遺跡は比較的調査が進んでいないが,縄文早~後期の加茂谷遺跡(三好郡東みよし町)や森崎貝塚(鳴門市)などが知られている。弥生時代では,2個の銅鐸と1本の大型細身銅剣とが伴出した源田(げんだ)遺跡(徳島市)をはじめとして,いずれも偶然の発見ではあるが,銅鐸の出土例が多い。また高川原(たかがわはら)遺跡(名西郡石井町)では珍しい銅鐸形土製品がほぼ完形のまま出土している。足代(あしろ)東原遺跡(三好郡東みよし町)は弥生後期から古墳時代前期ころの積石墓群からなる。こうした積石墓の伝統はやがて前方後円状の積石塚へと発展するらしい。この墓群に接近して積石塚があるし,萩原遺跡(鳴門市)ではそうした古墳時代前期の積石墳墓が調査されている。主体部の竪穴式石室周辺からは弥生式的な色彩の濃い古式土師器や画文帯神獣鏡が出土している。なお,ここでは箱式石棺墓,土壙墓,石蓋土壙墓,竪穴式石室墓など古墳時代全般にわたる墓が,多くは積石を伴って存在している。丹田(たんだ)古墳(三好郡東みよし町)や八人塚(徳島市)も同様の積石塚である。このように吉野川流域はとりわけ積石塚の盛行した地帯である。積石塚は長崎県対馬から中部地方まで分布するが,香川県とともに本県は特に集中度が高く,〈阿讃積石塚分布圏〉などと呼ばれるゆえんである。

 前期古墳では,星河内(ほしこうち)丸山古墳(徳島市)がある。これは竪穴式石室をもつ大型の円墳で,鏡,鍬形石,車輪石,石釧(いしくしろ),大刀などの副葬品から4世紀後半と考えられている。中期古墳としては恵解山(えげやま)古墳群(徳島市)がある。約10基の円墳からなり,内部主体は箱式石棺のものと横穴式石室のものとがある。5~6世紀であろう。後期古墳では段の塚穴古墳(美馬市)がある。太鼓塚と棚塚という二つの円墳からなる。いずれも石積みのドーム形天井をもつ玄室を備えている。6世紀後半~7世紀初めであろう。鳴門市の大毛島では本州四国連絡橋の大鳴門橋の建設と,これと関連する国道28号線の建設工事が進められて,多くの遺跡が明らかにされつつあるが,この中には製塩址かと思われる集石遺構が多く発見されている。

 歴史時代では,石井廃寺(名西郡石井町)が挙げられる。法起寺式伽藍配置をもち,出土した古瓦には天平期(729-749)から平安中期に及ぶ各時期のものがある。
阿波国
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徳島県は山地が大部分を占め,平地は全面積のわずか15%を占めるにすぎない。中央構造線が県北を東西に走り,これに沿って東流する吉野川をはさんで,北側に讃岐山脈,南側に四国山地,剣(つるぎ)山地,海部(かいふ)山地がいずれも東西方向にのび,東にいくに従って低くなっている。讃岐山脈は浸食されやすい和泉砂岩層からなる平均標高500mほどの山脈で,吉野川に面した南麓に典型的な扇状地や段丘を形成する。天然記念物の〈阿波の土柱〉は,この土砂の堆積物が浸食をうけて形成された地形である。四国,剣,海部の3山地は,讃岐山脈に比較するといずれも標高1000~2000mの高峻な壮年期の地形を示す。四国山地は結晶片岩からなり,吉野川上流が山地を横断して横谷をなし,大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ),祖谷渓(いやだに)などの景勝地をつくっている。剣山地は県内で最高の標高をもつ山地で,県を南北に分ける主分水界をなす。その北斜面は吉野川の流域に含まれ,その中・下流低地が徳島平野であり,〈北方(きたがた)〉という。南斜面は勝浦・那賀両川流域に含まれ,その下流低地を中心とした地区は〈南方(みなみがた)〉とよばれる。地形上,剣山地北斜面は山腹に平たん面が多いため,山地集落の発達が目だつが,南斜面は急傾斜地をなし,山腹の平たん面も少なく,川は穿入(せんにゆう)曲流をなして深い峡谷を形成している。海岸線は阿南市の橘湾以北は単調な砂浜海岸,以南は岩石海岸となっている。

 気候は,北部では瀬戸内式気候に近く,年降水量は1300mmに達しない。南部は夏季多雨の南海型を示し,年降水量は2000mm以上に達する。夏から秋にかけて台風による風水害が多い。

藩政時代はアイ,タバコ,塩の三大特産物を背景に豊かな経済力を誇り,城下町徳島は四国最大の都市として栄えた。しかし,明治末年ころから化学染料の出現によりアイの栽培が急速に衰微するとともに経済力を失い,近代工業の立地も遅れた。1995年の産業別就業人口の割合をみると,第1次産業12.2%,第2次産業30.6%,第3次産業56.8%で,第1次産業の比率は全国平均の6.0%に比べるとかなり高く,四国4県では高知県に次ぎ愛媛県と並ぶ高い比率を占め,農業県的性格が比較的強いことを示している。しかし,農業県的性格が強いとはいうものの,耕地面積は県総面積の8.8%(1996)にすぎず,しかも販売農家戸数約3万戸のうち専業農家は21%,第2種兼業農家が61%を占める。近世には徳島平野一帯の〈北方〉は,商品作物アイの栽培を主とした畑作地帯で,商業地域として早くから開け,勝浦・那賀両川の下流域低地を中心とした〈南方〉は低湿な水田地帯とは好対照をなした。徳島平野は下流部を除くと一般に高燥で,アイ作の衰えた明治以降は桑園化が進み,大正期および第2次大戦後に灌漑用水が整備されてからは急速に水田化され,最近は施設園芸,畜産も盛んとなった。下流部はダイコン,ホウレンソウ,れんこんなど阪神市場向けの野菜の特産地となり,特にれんこんは茨城県に次いで全国2位(1995)の生産を上げている。一方,那賀・勝浦両川流域は下流部では水田が卓越するが,最近中流部ではハウスミカン,スダチなどの果樹やたけのこなど商品作物の栽培が盛んになってきている。那賀川上流域は年3000mm以上と降水量が多く,木頭(きとう)と呼ばれる林業地域で,河口の阿南市に製材工場が集中している。海面漁業は,橘湾以北では経営規模が小さくイワシ,アジ,タチウオなどを対象とする沿岸漁業が中心であるが,近年は不振である。代わって水産養殖が盛んとなり,ハマチ,ワカメ,ノリなどが養殖されている。これに対して橘湾以南では,かつてはマグロ,カツオなど遠洋漁業を中心としたが,現在は沿岸漁業や釣客相手の遊漁が主流となっている。

 県東部の臨海地域は,1964年新産業都市に指定され,工業化が進んでいるものの,軽工業,重化学工業別にみると,軽工業が工場数の81%,製造品出荷額の61%を占め(1995),木工,食品,窯業などを中心とする軽工業が依然として大きな比重を占めており,農業とともに停滞的色彩が強い。

 徳島県の経済活動における特色の一つは,その地理的位置から阪神指向性の強いことである。花卉や生鮮野菜を中心とする農産物の約8割が阪神市場に出荷され,徳島県産のものは阪神市場では,野菜が約4割,花卉が5割以上を占め,とくに最近はスダチの出荷が急速に伸びている。人口移動においても,大学生の就学移動のみならず就職移動を含めて阪神圏をその移動先としている。本州四国連絡橋明石~鳴門ルートは,1985年に大鳴門橋が開通し,98年春には明石海峡大橋が開通した。徳島県の阪神指向性をさらに強めるとともに,経済的な停滞を脱却する切札として大きな期待が寄せられている。

 観光資源としては,鳴門の渦潮,阿波踊,四国八十八ヵ所の霊場(第1~23番と第66番),大歩危・小歩危,祖谷渓を含む剣山国定公園,南国的な景観を見せる室戸阿南海岸国定公園などがあるが,交通機関の整備,施設の充実など解決すべき余地を大きく残している。鉄道は1899年に徳島~鴨島間が開通し,1914年に徳島本線(現,徳島線)が全通した。さらに高徳本線(現,高徳線)と土讃本線(現,土讃線)の開通により高松および高知と結ばれた。県南部の鉄道開通は遅れ,73年にようやく牟岐(むぎ)線が海部(かいふ)まで延長され,92年には第三セクター方式による阿佐海岸鉄道が高知県東洋町甲浦(かんのうら)まで開通した。他方,94年には徳島自動車道が部分開通し,2000年までに四国縦貫・横断道路と結ばれた。阪神方面との連絡は,1910年の国鉄宇高連絡船の就航により高松にとって代わられるまでは鳴門が四国の玄関口としての機能を果たしていた。近年は徳島・小松島両港を連絡港としてフェリーや高速船が就航してきたが,明石海峡大橋の完成により再編が迫られた。

徳島県はその自然的・経済的条件から徳島,西阿波,南阿波の3地域に大別される。

(1)徳島地域 県の北東部,徳島平野およびその周辺の吉野川中・下流域,勝浦川の全流域および那賀川の下流域を占め,徳島市を中心として鳴門,小松島,阿南,阿波,吉野川,美馬(みま)の6市と板野,名東,名西(みようざい),美馬,勝浦の諸郡を含む。県の総面積の半分,総人口の88%(1995)を占め,県内の主要地域を形成している。徳島市を中心とした地区は,〈北方〉と〈南方〉との接点にあたり,また県内各地域の交通の結節点として重要な役割を果たしてきた。徳島市はかつては蜂須賀氏の城下町で藍の取引を背景に経済力を誇ったが,近代化への転換に乗り遅れ,現在は商業的性格の強い中都市である。近世の船大工の伝統を継ぐ木工業が盛んで,なかでも阿波鏡台は全国に市場をもち,地場産業第1位の生産額を占める。また,明治初期に藍と結びついて発明された徳島独特の綿織物阿波しじらがある。近年,吉野川下流部は阪神市場向けの近郊農業地域となり,那賀・勝浦両川流域にも商品作物の導入が進んでいる。そのほか地場産業として,吉野川中・下流域の阿波たくあん,ウリ漬,つるぎ町の旧半田町周辺のそうめんを中心とする食品工業,吉野川市の旧山川町の川田和紙,鳴門市大麻町の大谷焼などがある。徳島,鳴門,小松島,阿南の4市を含む臨海地域は,1964年に新産業都市に指定され,吉野川水系,那賀川水系の豊富な電力と工業用水を背景に化学,繊維,鉄鋼,機械などの近代工業が進出している。

(2)西阿波地域 県の西部,吉野川中流域を占め,三好市と三好郡の全域を含む。県の総面積の2割,総人口の7%を占める。吉野川沿岸低地を除けば平地らしきものはほとんどなく,讃岐山脈南斜面と剣山地北斜面に属する山地が大部分を占める。この地方の中心集落である三好市の旧池田町は,古くから讃岐,土佐と阿波を結ぶ四国の交通の要地で,鉄道開通後は徳島本線,土讃本線の分岐点となり,谷口集落として山地集落で生産されるタバコ,木材,ミツマタなどの集散地としても栄えた。山地集落は,かつては交通上の障害から他地域と隔絶し,自給経済的色彩が強く,焼畑耕作が行われていたが,商品経済の浸透とともに,タバコ,ミツマタ,茶,コンニャクなどの商品作物が栽培されるようになった。とくに〈阿波葉〉と呼ばれる在来種のタバコ栽培は近世以来の歴史をもち,他県のタバコ栽培が副業的性格をもつのに対して専業的性格をもつ。しかし,これらの商品作物も労働生産性はきわめて低く,そのために急激な人口流出が生じている。とくに秘境といわれる祖谷地区は大歩危,祖谷渓を軸とする観光開発の動きはあるものの,相次ぐ挙家離村の結果,深刻な過疎問題をかかえている。

(3)南阿波地域 県の南部,剣山地の南側から太平洋沿岸に至る地域で,海部郡と那賀郡の全域を含む。面積は県の総面積の3割を占めるが,人口は総人口の5%を占めるにすぎない。交通の未発達により辺地的性格が強く,人口減少が続いている。海部郡の沿岸地域は岩石海岸をなし,入江の奥には漁業集落がみられる。かつてはカツオ一本釣り,マグロはえなわ,北九州を根拠地とする以西底引網など遠洋・出稼漁業が盛んであった。海部川や宍喰(ししくい)川流域の山間部では,冬季の温暖な気候を利用して阪神市場向けのキュウリ,トマトなどの栽培が急速に発展している。一方,林業地域を形成する那賀川流域は1951年に国土総合開発法に基づく特定地域に指定され,ダム建設を中心とする電源開発,各種用水の確保,森林資源の開発を重点項目とした事業が展開され,小松島・橘湾臨海工業地域の造成に大きな役割を果たした。南阿波の中心をなす美波町の旧日和佐町は16世紀末に発達した小城下町で,美波町の旧由岐町,牟岐町などとともに日本の遠洋漁業の先駆をなした。天然記念物大ウミガメの上陸地,23番札所薬王寺の所在地としても知られる。
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徳島[市] (とくしま)

徳島県北東部,徳島平野東部にある県庁所在都市。1889年市制。人口26万4548(2010)。市街地は紀伊水道に臨む吉野川河口部南岸の三角州上に位置し,16世紀末に蜂須賀家政が築いた渭山(いのやま)城の城下町から発展した。吉野川流域低地のいわゆる〈北方(きたがた)〉と,南の勝浦川,那賀川下流低地を中心とした〈南方(みなみがた)〉との接点にあたり,県の政治,経済,文化の中心をなし,商業が盛んである。市街地内部には新町川,寺島川,福島川,助任(すけとう)川などの川にはさまれた三角州からなる島状の地形が多く,徳島(徳は美称)の名はこれをよく表しており,明治以降県名にも使われることになった。近世には徳島平野を背景とした阿波藍の取引によって繁栄したが,明治中期以降,藍の衰退とともに経済力を失って近代工業の発達も遅れた。地場産業として,東部では阿波鏡台,仏壇,たんすなどの木工業,西部では醸造,阿波しじらなどの織物業が盛んである。1964年鳴門市,小松島市,阿南市にかけての臨海地域が新産業都市に指定され,化学,繊維,鉄鋼,機械などの近代工業が誘致された。徳島駅は高徳線,徳島線,牟岐(むぎ)線が集まる交通の要衝で,新町川の河口の徳島港は和歌山,東京方面へのフェリー発着場となっている。徳島自動車道のインターチェンジがある。徳島城跡には旧徳島城表御殿庭園(名)が残る。8月中旬に行われる阿波踊は有名。
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阿波国徳島藩25万7000石の城下町。1585年(天正13)蜂須賀家政が播州竜野から入国。当初名東(みようどう)郡一宮城に拠ったが,山城のため,鮎喰(あぐい)川支流新町川と園瀬川の三角州地帯渭津(いのつ)の渭山(猪山)に築城,渭津を徳島と改称したのに始まる。徳島は寺島,常三島(じようさんじま),福島,出来島(できじま),住吉島などと並び称せられた州の名で,近世以前は渭山の東にある名東郡富田荘の一寒村にすぎなかった。城下は城山(渭山)を中心に徳島,常三島,福島に武家屋敷を配し,新町川と寺町川に囲まれた内町に重臣を置いた。町屋は新町,八百屋町,紙屋町に,足軽・鉄砲組など下士は北方の撫養(むや)街道口の助任,西の伊予街道口の佐古,蔵本,南の土佐街道口の大道(おおみち),二軒屋に配置された。また眉山(びさん)山麓の寺町に寺院を集中,新町との間を町屋・職人町とした。城下町の建設は,軍事的には領内の要所阿波九城(一宮,岡崎,西条,川島,脇,大西,富岡,丹生(にう),鞆)に家老を配備する支城駐屯制と呼応してすすめられた。

 領内経済の中核としての機能はアイ生産の発展につれて充足し,新町川沿いの船場には藍商の倉が並び,河口の津田は藍玉の積出しと大坂・堺からの物資の輸入港として繁栄した。城下町支配は仕置(家老)-町奉行(中老)-手代・同心-大年寄-町年寄-五人組-町人の系統で行われた。初期豪商は播州三木城主別所長治を祖とする三木正光(網干屋)をはじめ,尾張・播磨出身の武士の系譜をひく寧楽(なら)屋,魚(とと)屋,天満屋,玉屋などで,城下町建設や初期の経済政策をすすめるうえで重要な役割を果たした。仁木義治(呉服又五郎)は1586年阿波国中の紺屋(こうや)司を命ぜられ,市原三左衛門(寧楽屋)や魚屋道通は96年(慶長1)新田開発に参画し諸役免許を与えられた。1616年(元和2)紙類の販売を紙屋町の銭屋,平田屋など17軒の商人に独占させるなど,藩は特権商人の育成,株仲間の組織化をはかった。1733年(享保18)藍方御用場を設置,藍を専売としたが,56年(宝暦6)名西郡高原村常右衛門らの専売制廃止要求の一揆計画が発覚,処刑される事件が起こった。66年(明和3)10代藩主重喜の藩政改革があり,専売制は廃止となるが,藩・城下町特権商人と在方豪商との結合は強まり,また8軒の大坂藍問屋株の廃止,玉師株の再興などで城下に開設された藍玉売場所は活気を呈した。その後,阿波藍商が全国各地に支店を出すなど販売網は拡大し藍産業の隆盛をみた。アイ作の盛行による城下町の繁栄は,1685年(貞享2)に町屋人口2万5590人を記録するにいたった。幕末期にはシーボルトに師事した眼科医の高(こう)良斎や医師学問所の教授高畠耕斎ら蘭学者を輩出した。また人形浄瑠璃が庶民の間に広まり,竹本越前大掾らの義太夫を生み大坂文楽との関係も密であった。阿波踊は城下をはじめ村方でも行われ,現在にうけつがれている〈よしこの節〉の大流行をみた。
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日本歴史地名大系 「徳島」の解説

徳島
とくしま

[現在地名]徳島市徳島町一―三丁目・中徳島町なかとくしまちよう一―三丁目・徳島本町とくしまほんちよう一―三丁目・新蔵町しんくらちよう一―三丁目・中洲町なかずちよう一―三丁目

徳島城の東に隣接する徳島城下の武家地。北を助任すけとう川、南西を寺島てらしま川、東を福島ふくしま川に囲まれる。徳島城などのある島、徳島の東部を占める。徳島は初め渭津いのつとよばれたが、天正一三年(一五八五)阿波に入国した新領主蜂須賀家政が徳島と改めた。慶安五年(一六五二)渭津の旧号に戻したが(阿淡年表秘録)、延宝六年(一六七八)再び徳島に改めた(元居書抜)。当地は周囲に石垣が築かれ、徳島城の外郭の役割を果した。明暦年間(一六五五―五八)には「渭津惣構」、寛文一二年(一六七二)では「渭津城外郭」とよばれた(寛政元年「御巡見御目附衆御尋有之節御答帳」蜂須賀家文書)。武家地徳島の居住者は享保一七年(一七三二)の御家中屋敷坪数間数改御帳では六一人で、家老長谷川家を筆頭に中老・物頭が七割近くを占めた城下随一の高級武家地であった。屋敷も大きく一軒あたりの平均は九四二坪であった。道幅は徳島本町では三間半余(酒井順蔵「阿波国漫遊記」)と広いが、徳島藩主が参勤のために福島橋東詰で乗船するまでこの道を通行したためと思われる。文化九年(一八一二)の島々丁名改目録ではほん丁・新御蔵しんおくら丁・南浜側・東浜側・北浜側・御厩おうまや丁・裏ノ丁・会所かいしよ丁・余りあまり丁・馬場筋・徳嶋御殿前・御堀縁おほりぶちがみえ、裏ノ丁と余り丁は当時新しく付けられた丁名であった。

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世界大百科事典(旧版)内の徳島の言及

【富田荘】より

…阿波国名東郡(現,徳島市)の荘園。前身は国衙領の南助任保,津田島。…

【新島荘】より

…阿波国名東郡(現,徳島市)の荘園。756年(天平勝宝8),東大寺は西日本各地に多くの荘園を一挙に創設した。…

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