志波城 (しわじょう)
日本古代の城柵。子波,斯波とも書き,〈しわのき〉とも読む。9世紀初頭に,いわゆる蝦夷経営を経て,岩手県南部の北上川流域〈胆沢(いさわ)の地〉がようやく治まると,その安定を得た地に築造されたのが水沢市にある胆沢城とこの志波城である。志波城は,胆沢城と同じく蝦夷経営の功のあった坂上田村麻呂が造志波城使となり803年(延暦22)に造られた。現在その遺跡は,旧岩手郡内の盛岡市の太田方八丁遺跡とすることに大きな異説はない。それ以前は盛岡以南の紫波郡内に求められ,また志波城の後身である徳丹城より北に位置するとは考えられないなど,擬定地は定まっていなかった。ところが1976年以来の太田方八丁遺跡の発掘で外郭施設や内部が明らかになるにおよび,これを志波城の跡と考えるようになった。この遺跡は盛岡市の南西郊にあり,北上平野の北端近くの低平な沖積地に立地している。北約2kmを雫石(しずくいし)川が東流し,東約9kmで北上川と合流している。規模は東西約930m,南北800m以上で,北半は,雫石川の旧はんらん原で削平消失している。外郭の施設は,内外に溝を伴う築地および,その外側40mにある幅約7mの大溝である。中央には,桁行5間の門が設けられている。遺跡の中心部には方約150mの政庁がある。正面には八脚門が設けられ,中央部には正殿跡と考えられる建物がある。城内にはおびただしい竪穴住居跡,および小規模な掘立柱建物跡がある。外郭線や内郭の遺構にはほぼ2期の変遷しか認められず,この遺跡が比較的短命だったことを物語っている。志波城はたびたび水害をこうむり811年(弘仁2)には遷置の希望が述べられているが,本遺跡の北半部は,雫石川の旧流路となっており消失している。文献の記載と遺跡の状況がよく合致する。なお,志波城の規模は,胆沢城をしのぎ,多賀城に匹敵する。創建当初は胆沢城にもおとらぬ役割が期待されていたものと推量される。
執筆者:桑原 滋郎
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しわじょう【志波城】
岩手県盛岡市市街の西にあった古代の城柵。国指定史跡。蝦夷の首長アテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を滅ぼした坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が803年(延暦22)、奥六(おくろく)郡(のちの陸中、今日の岩手県を中心とした一帯)北部に律令制に基づく支配体制を根づかせるために、北上川と雫石川が合流するあたりに築いた政治・軍事上の拠点である。志波城があった場所については諸説あり確定していなかったが、1970年代の後半に東北自動車道の建設に先立って行われた発掘調査で所在地が判明し、国指定史跡「志波城跡」となった。この調査の結果、堀と築地塀に囲まれた外郭と150m四方を築地塀で囲まれた内郭の二重構造で、その中に官衙の建物が配され、外郭の外側には兵舎と思われる多数の竪穴住居跡があったこともわかった。その規模は鎮守府となった胆沢(いさわ)城を上回り、多賀城に匹敵する。しかし、雫石川の氾濫により大きな被害を受け、建設から10年ほどで放棄され、新たな城柵(徳丹(とくたん)城)が建設されて、その役割を終えた。現在、志波城跡は盛岡市により整備されて「志波城古代公園」になっている。公園内には建物や門、築地塀などが復元されている。JR盛岡駅からバス約26分で飯岡十文字下車、徒歩約5分。◇斯波城とも記される。
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志波城【しわじょう】
古代の東北経営の拠点。陸奥(むつ)国にあり,現在の岩手県盛岡市の太田方八丁(ほうはっちょう)遺跡が志波城跡とされている。803年坂上田村麻呂が築城し,蝦夷(えみし)経営にあてた。813年に後身の徳丹(とくたん)城(現岩手県矢巾町)が築かれ,このとき廃されたと考えられる。1956年以来の発掘調査によって明らかにされた遺構は外郭と内郭(政庁)に分かれ,外郭は一辺840mの方形であったとみられるが,北側は雫石(しずくいし)川によって浸食されている。この一辺約8町の長さが〈方八丁〉の由来。→多賀城/胆沢城
→関連項目蝦夷地|文室綿麻呂
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志波城
しわじょう
斯波城とも書き、「しわのき」とも読む。平安時代の初め、東北地方のもっとも北に設置された城柵(じょうさく)。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は胆沢(いさわ)城を造営した翌年の803年(延暦22)、さらに北に志波城を築いた。しかし、まもなく811年(弘仁2)水害にあったことから、徳丹(とくたん)城(遺跡は岩手県紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町)に移されることになった。志波城の遺跡は岩手県盛岡市中太田にある太田方八丁(ほうはっちょう)遺跡とされ、約150メートル四方の政庁跡を中心に、その周囲に多くの掘立て柱建物、竪穴(たてあな)住居跡が発見され、全体は約930メートル四方という大規模なものである。1984年(昭和59)国史跡に指定された。
[平川 南]
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志波城
しわじょう
陸奥国北部におかれた古代の城柵。盛岡市下太田字方八丁(ほうはっちょう)にあり,雫石(しずくいし)川南岸の段丘上に位置する。803年(延暦22)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が造志波城使として造営。外郭施設は東西930m,南北800m以上の築地,内郭は方約150mで,東北地方の古代城柵として最大級の規模をもつ。811年(弘仁2)しばしば水害にあうという理由で移転が申請され,徳丹城が築かれたのち史料から消える。築地塀や正門などの一部が復元されている。城跡は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
志波城
しわじょう
東北地方における蝦夷征討のため,桓武天皇のとき,征夷大将軍坂上田村麻呂によって岩手県盛岡市下太田に置かれた城柵(→柵)。『日本紀略』延暦22(803)年には,越後国から米と塩とを志波城に送ったことがみえる。10年程度存在していたが,雫石川の洪水被害をたびたび受けたため,徳丹城が築かれ,機能が移された。
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志波城
しわじょう
平安初期,蝦夷 (えみし) 経略の前進根拠地として設けられた城柵
「しばじょう」とも読む。現在の岩手県紫波郡にあたる。803年坂上田村麻呂が築城。前年胆沢城 (いさわじよう) を築き蝦夷支配の拠点を確立し,さらに北進してこの城を築き鎮守府の前進基地とした。立地条件が悪く10年ほどで廃された。
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世界大百科事典(旧版)内の志波城の言及
【徳丹城】より
…史料上の初見は814年(弘仁5)である。803年(延暦22)に造られた[志波(しわ)城]はたびたび水害をこうむるので,便地に移したい旨の願が811年に出され,それが許可されているが,徳丹城は,その志波城の後身と考えられている。岩手県紫波郡矢巾町徳田にその遺跡があり,北上川沿いの低平な自然堤防上に立地している。…
※「志波城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」