愛智荘(読み)えちのしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「愛智荘」の意味・わかりやすい解説

愛智荘
えちのしょう

古くは依智荘とも書かれる。近江(おうみ)国愛智郡(滋賀県愛知(えち)郡・東近江市)にあった荘園。郡名を荘名とするため同名の荘園が多い。

[中野栄夫]

元興寺領

愛知郡愛荘(あいしょう)町、東近江市付近。753、754年(天平勝宝5、6)に聖武(しょうむ)天皇が先帝の施入物で百姓墾田買得して成立したと伝えられる「本願荘」60余町と、9世紀以後の買得田とからなる。検田使僧延保(えんぽ)が約10年間現地に臨み、荘田の衰退を回復するために奮闘した記録である859年(貞観1)の検田帳が伝わっている(田刀(たと)の初見)。また1060年(康平3)元興寺(がんごうじ)が地子(地代)を引き上げようとしたのに対して田堵(たと)らが反対したことは有名。12世紀中ごろまでに、東大寺領に合体したとみられている。

[中野栄夫]

東大寺領

愛荘町、東近江市付近。主として9世紀ごろ僧安宝らが買得した大国(おおくに)郷周辺の田地よりなる。買得の際の売券の一部が伝存する(大国郷売券)。876年(貞観18)には水田12町からなっていた。10世紀ごろの史料にみられる大国荘はこの後身と思われる。やがて元興寺が東大寺末寺化するに伴い、元興寺領をあわせて東大寺領愛智荘として一体化したとみられている。12世紀なかば過ぎまで存続が確認できるが、鎌倉時代に入ると退転したようである。

[中野栄夫]

円成寺領

1117年(永久5)の史料には、宇多(うだ)天皇の施入で、官省符(かんしょうふ)によって不輸を認められていたと記されている。円成寺(えんじょうじ)は鎌倉時代に仁和寺(にんなじ)末寺となるので、その所領も仁和寺の支配下に入った。

[中野栄夫]

日吉社領

日吉社(ひえしゃ)祠官(しかん)の御封便補(みふうべんぽ)として、1100年ごろ(康和年中)立荘され、1110年代(永久年中)に官符によりそれが公的に認められた。上・下両荘に分かれていたが、具体的な内容は不明。室町時代まで存続していた。なお9世紀ごろ弘福寺(ぐふくじ)領(愛知郡荘ともいう)の存在も知られるが詳細は不明。

[中野栄夫]

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百科事典マイペディア 「愛智荘」の意味・わかりやすい解説

愛智荘【えちのしょう】

近江国愛知郡におかれた荘園。701年−704年以前に大和弘福(ぐふく)寺に依智荘が施入されたというが(東寺文書),所在地は明らかではない。ほか愛知郡内に複数の寺社領が成立していた。現滋賀県愛知川町(現・愛荘町)・湖東町(現・東近江市)域に比定される愛知荘は,753年−754年に聖武上皇が先帝の施入物で奈良元興(がんごう)寺に購入した60余町などが始まりとされ,依智荘としてみえ,不輸租田であった(東大寺文書)。838年から859年まで検田が行われている。1060年に元興寺が地子(じし)を引き上げようとしたのに対して田堵(たと)らが反対,愛智荘の荘司(しょうじ)らはそれを非法として訴えている。9世紀にみえる愛智荘(大国荘の後身)は奈良東大寺領で,平安末期に元興寺と合体したとする説がある。9世紀末には山城円城(えんじょう)寺に寄進された愛智荘があり,12世紀に公役(くやく)が免除されている(東寺百合文書)。1099年−1104年に立荘された近江日吉大社領の愛智荘は,219町余の上方と,260町余の下方に分かれ,愛智下荘には日吉諸社の油本神田が置かれていた。なお愛智勅旨(田15町・年貢米75石)があり,1276年に日吉社造営にかかわる賦課があった(九条家文書など)。

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