慈善事業(読み)ジゼンジギョウ(英語表記)charity work

デジタル大辞泉 「慈善事業」の意味・読み・例文・類語

じぜん‐じぎょう〔‐ジゲフ〕【慈善事業】

社会的連帯感や倫理的義務感に基づいて、罹災者りさいしゃ・病人・貧民の救済などのために行われる社会事業
[類語]公共事業社会事業

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精選版 日本国語大辞典 「慈善事業」の意味・読み・例文・類語

じぜん‐じぎょう‥ジゲフ【慈善事業】

  1. 〘 名詞 〙 宗教的・道徳的動機に基づいて、孤児、病人、老弱者、貧民の救助などのために行なわれる社会公共的事業。
    1. [初出の実例]「社会の不祥なればこそ慈善事業が起るのです」(出典:楽天録(1898)〈田口卯吉〉自愛)

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改訂新版 世界大百科事典 「慈善事業」の意味・わかりやすい解説

慈善事業 (じぜんじぎょう)
charity work

慈善あるいはそのいくぶんとも組織的な形態を意味する慈善事業は,宗教的・感情的動機に基づく善行であり,貧民の救済や病人に対する施療などをその内容とする。慈善はユダヤ教キリスト教においても,また仏教においても重要な実践徳目の一つとして位置づけられてきた。しかしながら,それは近代市民社会の成立とともに宗教的背景を薄れさせ,産業革命以降になるといっそうその世俗化が進み,公的救済施策が未成熟な時期においては友愛組合などの相互扶助組織とともに民間の自発的な救済事業の一翼を担って重要な役割を果たした。イギリスを例にとれば,19世紀後半,世俗的な慈善事業が新興の中産階級である産業家や商人によって活発に展開された。彼らの多くは自由競争を耐え抜いて成功を収めた優越者としての立場から,競争の敗残者としての貧困者の救済を行った。彼らを慈善事業に駆り立てたものは敗残者に対する階級的な罪障感であり,それだけに援助に対する熱意には誠実なものがあった。しかし,一方においては労働者たちを懐柔したいという願望から慈善活動を行うものもいた。〈慈しみ深き貴婦人たち〉と呼ばれた一部の産業家や商人の妻たちに代表されるような感傷に由来する慈善活動もみられた。さらには,慈善事業は社会的な栄達や政治家としての成功を目指す人々に対して絶好の機会を与えるものであった。もとより,同時代の慈善事業家たちのなかに純粋な宗教的な動機や社会的公正の実現を目指す観点から慈善活動を推進する人々のあったことは事実であるが,全体としていえば19世紀後半の慈善事業は一方的で,合理性や計画性を欠いていたといえる。行きすぎた救済を生む一方で,ほんとうに救済を必要とする人がそれを受けられなかったりすることが多く,救済を受ける人々の堕落すらみられた。

 ここに慈善事業の弊害を回避することを目指す慈善事業の組織化が始まるのである。イギリスでは1869年ロンドンに慈善組織協会charity organization society(COS(シーオーエス))が設立され,これに範を得て77年にはアメリカのバッファローでも慈善組織協会が誕生した。時期においてやや遅れ,行政主導という形をとったとはいえ,日本においても1908年に中央慈善協会(1921年中央社会事業協会と改称)の設立をみたのであった。イギリスおよびアメリカにおける慈善組織協会は無計画的な救済の弊害を除去するために救済者名簿の作成と交換,ケース・ペーパー(救済記録)の保存,申請者の生活調査,友愛訪問員による救済者の訪問指導などを実施し,これらはいずれも社会事業の成立の道を開くものであった。とくにアメリカの慈善組織協会活動からは,やがてケースワークと呼ばれる社会事業,およびその展開形態とされる社会福祉に固有の援助技術の体系が生み出されている。

 しかしながら慈善組織協会に結集した慈善事業家たちの思想は,彼らが対応しようとした貧困問題の解決には時代遅れのものであった。慈善組織協会の貧困あるいは貧困者のとらえ方は,一口にいえば保守的なものであり,自由放任主義時代そのままにきわめて道徳主義的であった。貧困化の原因は個人の能力の欠如あるいは性格の欠陥にあるとされ,救済を受ける者は劣等者であり,救済を与える者は優越者であった。貧困者に対する友愛訪問は優越者の劣等者に対する訪問であり,前者は後者に人格的な影響を与えて後者を前者の高みに引き上げることにねらいがおかれていた。また,慈善組織協会は公的救済に対してつねに慈善事業を優先させ,慈善事業は〈価値のある貧民deserving poor〉に対する施策であるのに対して,公的救済は〈価値のない貧民undeserving poor〉に対するそれであると主張してはばからなかった。このような慈善組織協会の保守的な側面は,やがて到来する社会改良の時代において慈善組織協会をその傍流の位置にとどめることとなる。資本主義生成期以来の救貧法がしだいに近代化され,所得保障制度が充実していくにつれ,慈善団体は貧困者に対する金銭の給付による救済という伝統的な機能を喪失し,家族や個人に対する相談・指導,専門的な治療・訓練などの提供を主たる任務とするようになっていき,同時に慈善事業は公的な福祉政策の支配を受け,その一部分として位置づけられるものとなっていった。

 近代日本の場合における慈善事業もほぼ同様の経過をたどっている。明治初期にはカトリック系の奥浦慈恵院,プロテスタント系の岡山孤児院,仏教系の福田(ふくでん)会育児院などの宗教的背景の強い育児施設が設立されている。産業革命の時期にあたる1899年には,前年に日本の慈善事業の古典といわれる《慈善問題》を著した留岡幸助によって,不良少年を対象とする家庭学校が東京巣鴨に設けられた。このほか日本においても社会問題の発生とともに数多くの慈善施設・団体が設立されるが,これらは前出の中央慈善協会や国庫奨励金・助成金の交付などによって行政的な規制を受けつつ,やがて大正デモクラシーのもとで民間社会事業と呼ばれるものに移行することになるのである。
社会福祉
執筆者:

古代における慈善事業を概観すると,まず僧尼・皇族・貴族・地方官吏・豪族など個人による慈善救済活動がある。この面では,聖徳太子四天王寺の施薬院など四院の設置ほかの事績が想起されるが,伝説的要素が強く確かなことは不明である。その点,詳細な史料の残る奈良時代の僧行基の活動は質量ともに特筆でき,後世の慈善事業に与えた影響も大きい。行基の多岐にわたる活動のうち具体的に知られる造営事業には架橋・直道・船息などの交通施設,池・溝・樋・堀などの灌漑施設のほか,役民・運脚夫らが飢えや病気で難渋した際に救済収容する布施屋(ふせや)といった救恤(きゆうじゆつ)施設がある。長距離の旅を強いられた律令制下の農民は途中で死亡する者も多く,政府の対策も不十分であっただけに注目され,のちに東大寺が大和に布施屋を設置し,平安時代には一部の地方官吏らにより続命院・救急院・悲田処ほか類似の施設が各地に設置された。

 つぎに仏教に関心の深かった光明皇后の活動も著名である。施薬院悲田院の設置は藤原氏の氏寺であった興福寺に置かれた先例があるが,光明子が皇后宮職にそれらを設置した意義は注目され,のちに孝謙女帝も興福寺の施薬院を財政面で援助し,弘仁年間(810-824)には淳和天皇の皇后正子内親王が病気の僧尼のための済治院や癩病患者専門の不譲化身院を嵯峨の大覚寺に設けた。その他個人で孤児や貧農の救済を行う者などいくつもの活動例があるが,藤原氏の一族のみの救済を目的として大臣が財源を提供したり施設を建て,その運営を施薬院等にゆだねている例や,私財による救済活動を行った豪族の中には位階の取得を目的とした者も考えられることなど,問題を含んだものも少なくない。

 一方,全国規模のおもな公的救済制度としては賑給(しんごう)・義倉(ぎそう)・常平倉(じようへいそう)・湯薬支給・借貸(しやくたい)などがある。いずれも仁愛・仁政思想によるものとみられるが,理念どおりに機能していれば,限界をもちながらも一定の効果は期待できたであろうが,各制度の実態をよくみると問題は少なくない。賑給は7世紀末以来,実施例こそ多いが,儒教思想の影響で高齢者や鰥寡孤独(かんかこどく)などの身寄りのない者の救済を優先させたため,最も救済の必要な困窮者・病人については受給者数や稲穀の支給量などが格段に少なく相対的には冷遇されていた。義倉常平倉の制度も政府の計画どおりに全国的規模で機能していた期間は意外に短く実効性はさほど評価できない。湯薬支給の制度にしても実施記事は多いが,実情は粥(かゆ)用の稲穀・アワの支給が大部分で,一般の人々への薬の支給などはほとんどなかったようである。また,本来無利息で稲穀を貸与する借貸制度も地方によっては利息を徴収されている例もある。さらにこれらの制度は受給者の認定基準など不明りょうで,地域の担当者の恣意(しい)的な運用や水増しなど不正行為が行われたり,与奪権をてこに周辺農民が私的労働力として利用される可能性があるなど公的救済制度にもさまざまな限界があった。

 古代の慈善救済活動は儒教思想の影響を強く受けた公的な諸制度と福田思想を基本とする私的な活動とに大別できるが,前者は十分に機能を発揮しえず早く停廃されたものもあり,平安期まで存続した制度も一部の地域で機能するにとどまったとみられ,中世へ継承されたのは主として個人による活動であった。
執筆者:

中世における慈善事業の中心となっていたのは,仏教者が慈悲行・布施行(ふせぎよう)の実現を目的とする形で,乞食非人と呼ばれた人々に非人施行をすることであった。その最も早い時期の宗教活動家としてあげられるのは,東大寺別当となった永観(1053-1132)を中心とする平安末期の浄土教の聖であろう。永観は京都禅林寺の梅の実を薬王寺の病人に施与してこれを救済したので,その梅の木は悲田梅と呼ばれたといわれている。また,永心は河原で泣いていた不具者に帷子(かたびら)を与え,比叡山の叡実は道ばたの病者を看病したと伝えられている。これらの聖の慈善事業は鴨長明の《発心集》に書き留められているが,阿弥陀の名号をとなえて後世の極楽往生を願っていた真浄房なる遁世僧が乞食に施行をしたという事例からうかがえるように,浄土教の聖の慈善事業は,極楽往生のためのみずからの作善として行われたものであった。この往生祈願のために貧者・非人供養を行うという浄土教の考えは貴族の間にも流行し,たとえば1027年(万寿4)の藤原道長の葬送に際しては,悲田院病者・六波羅蜜乞者(のちの清水坂非人)に米・魚・海藻などが施行されている。

 しかし,中世における慈善事業の白眉ともいうべきは,非人を文殊菩薩の化身とみなすことでこれを供養した,西大寺叡尊や極楽寺忍性(にんしよう)を中心とする鎌倉時代後期の律僧の宗教的非人救済運動であろう。思円房叡尊は,1240年(仁治1)に大和額田部宿で非人供養を行ったのを皮切りに,大和・河内・和泉の諸非人宿において非人に施行をし,彼らに斎戒を授けてその日常生活をも統制することで非人供養を行った。とくに69年(文永6)に大和般若寺の文殊菩薩像の完成を記念して,奈良坂で行った非人施行は,非人2000人を集めるという大規模なものであったが,その際に非人に施行された物品は,檜笠・莚(むしろ)・団扇(うちわ)・浅鍋・引入(ひきいれ)(一種の皿)・破子(わりご)(弁当箱)といった非人が物乞いをして歩くための道具や,米・餅・汁・柑子(こうじ)(ミカン)・水などの食料,さらには針・糸・癩病の非人が頭を包むための布などであった。叡尊は記録にみえる限り晩年の83年(弘安6)に至るまで非人施行を実行しつづけたが,この叡尊の活動は叡尊の弟子にも受け継がれ,たとえば長岳寺・海竜王寺に住した戒慧房厳貞(生没年未詳)は,獄舎の囚人に食を施すとともに,施浴を給して垢(あか)すり供養を行っている。

 しかし,叡尊の弟子中でも特筆すべきは,幼時より文殊信仰を学んで非人救済を念願としていた,良観房忍性の活動である。彼は西大寺にあったとき,重病のため足腰の立たなくなった奈良坂の癩非人を毎日奈良の市の乞場まで背負ってその送り迎えをし,乞食によってその生計が成り立つようにしたという。奈良坂にある癩病患者の収容施設である北山十八間戸も,忍性が建てたものであるといわれているが,彼はのちに鎌倉極楽寺に住して極楽寺坂に悲田院・癩宿・病宿・薬湯室などを設け,病者・孤児を救済した。とくに彼が87年に鎌倉桑ヶ谷に造立した桑谷療病所においては,20年の間に病が治った者4万6000人,死者1万0450人と,治療を受けた者の5分の4が治癒したと伝えられている。忍性は94年(永仁2)には四天王寺の別当ともなり,同寺の悲田院をも再興したといわれているが,これは叡尊の他の弟子で,四天王寺における西大寺流律宗の拠点ともいえる薬師院の長老であった観心房禅海(生没年未詳)と計って行ったものであろう。禅海は叡尊が1275年(建治1)に清水坂非人に施行をした際にこれに随行し,非人873人に受戒をした人物である。叡尊の弟子の中でもこのような実績をもつ人物が,非人が多く参集した四天王寺における律宗の拠点を守っていたことは興味深い事実である。

 以上の西大寺流律宗の活動は,律僧の慈善事業の中でもとくに目立つものであるが,他にも泉涌寺の覚一房覚阿(生没年未詳)は,1304年(嘉元2)の後深草院の死去に際して,蓮台野・東悲田院・清水坂などの京都の非人に非人施行をし,温室を設けて非人垢すり供養を行っている。また,壬生大念仏狂言の創始者である法金剛院の円覚上人導御(1223-1311)も,悲田院の貧病者を救い,獄舎の囚人をにぎわしたと伝えられている。これらの鎌倉後期の律僧たちの慈善事業をどう評価するかは難しい問題で,実際,それが当時の身分秩序を肯定し,現実の体制をことほぐ立場からの,非人に対する統制としての役割を一定程度果たしたことも事実である。しかし同時に,彼らの活動が宗教的に極限の〈貧窮・孤独・苦悩〉の存在とされた貧者非人・癩者を供養することによって,当時の仏教理念に基づく平和の観念である安穏を祈念しようとした,一種の宗教的平和運動としての意味をもっていたことにも注意しなければならない。

 なお,南北朝~室町期には律宗の衰退にともない,このような仏教者による慈善事業はおもに禅僧と時衆によって担われるようになった。乞者に食を給した下野興禅寺の真空妙応(?-1351),1363年(正平18・貞治2)の阿波国の飢饉に際して貧人乞者に粥を施した春屋妙葩(しゆんおくみようは),財を捨てて癩者を沐浴させた遠江方広寺の無文元選(1323-90),1461年(寛正2)の飢饉・疫病に際して,六角堂の前に大釜を置いて粥を炊き,飢者に施行した勧進聖願阿弥(生没年未詳)などがその例である。とくに寛正の飢饉に際しての時衆の願阿弥の活動には注目すべきものがあるが,総じて,中世における慈善事業の系統的な遂行者としては,鎌倉後期の律僧の非人救済運動をもって一つの画期とするべきである。
時宗 →律宗
執筆者:

近世社会において,貧困・病苦・流行病発生などへの社会的対応は,儒教イデオロギーによる為政者の仁政,仏教思想による積善など,近代的合理とは異なる論理に基づいて行われた。たとえば,近世前期,寛永・延宝・天和年間の諸国に及ぶ大飢饉に際して,領主・高僧らによる飢人救済が各地で行われ,その人々の徳は後世までたたえられた。しかしながら,近世中期以降,貧富の階層的固定化が進むと,社会的矛盾はひとり為政者や高僧の恣意的作善ではその解決は望みえず,富裕な町人による徳(=財力)の発揮が期待されるようになった。この傾向にいっそうの拍車をかけたのは松平定信の封建道徳強化策である。《孝義録》に集録された忠孝義者のなかに,貧窮者に金品を施した奇特者が多く含まれていることは,この時期に作善のよりいっそうの大衆化が企てられたことを物語る。しかし,当時,これら慈善的行為の対象者となる人々は,金品の施しを上からの賜物として,ただ受動的に受け取っていたというわけではなかった。個人の権利意識の未形成な身分制社会においては,伝統的思惟に基づく封建道徳の強化が,実はその一方で,為政者や富者など社会的上位者は下位者に対して,おのおのその得分を発揮しなければならないとする社会感覚を封建大衆の間にはぐくみ,それが社会的合意となっていたことである。これによって,封建社会はかろうじてそのバランスが保たれたといえよう。
執筆者:

王朝支配の時代にも,貧民,老廃者,寡婦,孤児といった社会の弱者に対する救済制度は法典に備わっていた。しかしそれはきわめて不完全なものでしかなく,その種の対策は主として富者の恣意的な慈善事業に頼らねばならなかった。荒災時に粥厰を開設しての施食,厳冬時の施衣,病者への施薬といった生を維持するための諸措置,ならびに死者に対する施棺といったことが事業のおもな内容である。なかには義学をたてて有名となった武訓のような例もある(《武訓伝》批判)。慈善への発心は功過格に代表される伝統的な勧善思想に由来すると同時に,社会的声望(たとえば郷紳としての)を得ようとする欲求にも根ざしていた。1920年前後に悟善社,道院等多くの新興宗教(迷信集団として新文化運動の攻撃対象となった)ができて慈善事業にのりだすが,それは中華民国政府の社会政策,福祉事業の欠如を補うものであった。またそのころ華洋義賑会といった新しい型の団体も誕生した。
執筆者:

慈善事業は本来互酬・再分配の原理のなかでとらえるべきものであり,古代,中世を通じて王侯・貴族・富者などが,下位の者や貧民に物や金を配ることは当然のこととされていた。ヨーロッパ世界でも,すでに古北欧のエッダやサガに氏族仲間が貧窮化したり,病気になったときに助け合う習慣があったことが描かれているし,中世の領主制のもとでも領主は領内に居住する者の病気や老衰,事故の際に世話をする義務を負っていた。捨子や孤児を養育する義務も原則として領主にあった。

 キリスト教の浸透とともに慈善事業のあり方に大きな変化が生じ,独特の慈善・善行charity,caritasの考え方が確立される。古代社会においては貧者にはなんら積極的な意味づけはなされておらず,単に社会的に劣位にある者として位置づけられていたにすぎない。しかし《ルカによる福音書》(6~20章)にみられるように,キリスト教においては貧民こそ幸いなる者として位置づけられ,貧者はそれ自体でひとつの価値ある存在となり,豊かな者は永遠の救いにあずかる可能性が少ない存在とされた。私有財産すら他人から奪ったものとみなされ(ニュッサのグレゴリオスアウグスティヌスなど),所有者がそれらの財産を善行のためあるいは教会のために用いるときにのみ,私有財産は正当化された。キリスト教の浸透とともに彼岸信仰が転換し,死者が死後も現世と同じ姿で生きつづけるという古ゲルマン以来の彼岸信仰から,死後は煉獄に,そして最後の審判によって天国か地獄かのいずれかに赴くことになるという信仰が広まっていったこともこの変化と深くかかわっている。すなわち死後の救いを確かなものとするためには何よりもまず善行を積まねばならず,善行の筆頭にあげられるのが貧民への喜捨と教会への寄進であったからである。

 カール大帝はすべての教会財産は貧民の財産であるとして,大聖堂教会の場合は全教会の財産と収入の4分の1,農村教会の場合は十分の一税の3分の1を貧民のために用いることを定めている。カール大帝の規定には教会が寡婦,孤児,捨子の世話もすべき旨が記されている。教会用語としての貧民pauperesとは,身体上の障害をもつ者,孤児,寡婦,老人,旅人などを含むものであった。しかしながらこの段階での救貧事業は名目的なものにすぎず,貧者の存在を是認した活動であって,貧者を根絶しようとする目的はまったくなかったのである。たとえばクリュニー修道院には貧民への慈善を行う規約があった。徒歩で来る客人のうち旅人,巡礼のほかに修道院のまわりをうろつく貧民には毎日36人または72人に施しが与えられた。このほかに修道院内部にも定員18人の貧民が収容されており,1人が死ぬと1人だけ補充された。しかしながら修道院のまわりにはつねに数百人以上もの貧民がひしめいていたのである。貧民への喜捨は修道士の霊的救済のために必要なのであって,その限りで貧民救済が続けられていたにすぎない。

 中世ヨーロッパの各地に都市が成立すると,慈善事業に新しい局面が訪れる。都市内に成立した手工業者や商人の兄弟団(組合)がキリスト教の教義に基づいて盲人,啞者,病人などの世話をしたからであり,とくにベギン会やベガルド会などの在俗修道会はこの方面で大きな活動を行っていた。豊かな商人や都市貴族たちは私財を投じて病院をつくり,そのなかには1331年に成立してから1920年のインフレーションで閉鎖されるまで続いていたコンラート・グロスの聖霊病院(ニュルンベルク)のような例もある。聖霊病院は1179年にはじめて南フランスのモンペリエにつくられ,98年に教皇インノケンティウス3世の承認を得,巡礼の保護を使命とする修道院として形を整えていった。13世紀前半にすでにアルプス以北に広がり,ウィーン,ハルバーシュタット,ウルム,マインツなどに聖霊病院がつくられていた。この病院は通常の病人だけでなくとくに貧しい旅人(巡礼者)の世話をする組織であり,多くの場合市参事会が経営に参与している。
施療院
 ヨーロッパの都市には13世紀以後このような病院のほか養老院孤児院などがつくられ,近代の社会福祉施設の萌芽がすでに生まれていた。これらの施設を生んだ理念は,先に述べたキリスト教の彼岸信仰に基づく現世倫理であり,はじめは個人の喜捨行為として設立されたが,それらの施設の多くがやがて公的施設として都市の管理下におかれるようになってゆく。この点をみてもヨーロッパの都市が完全な世俗都市ではなかったことがわかるのである。慈善事業の多くは手工業組合などの兄弟団によって営まれたが,これらも仲間の死後の救いをともに祈る祭祀団体として成立したものであり,そこから保険や社会保障などの萌芽が生まれている。近代になると組合では負担しきれなくなった社会福祉上の出費は徐々に国家の手に移ってゆくが,そのとき慈善事業という言葉は国家からは切り離された個人や団体の事業をさすようになる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈善事業」の意味・わかりやすい解説

慈善事業
じぜんじぎょう
charity work

慈善の理念に基づく組織的活動をいう。慈善とは元来は仏教用語であり、慈悲の実践を意味する。この慈は真実の友情であり、悲は優しさである。慈悲の実践は、他人を自己のうちに転回せしめること、対象において自己を生かすことであるとされる。charityが意味するキリスト教的慈善は、さらにカトリック的慈善とプロテスタント的慈善とに分かれる。カトリック的慈善は、あらゆる被造物は神に似ているから愛すること、汝(なんじ)自身と隣人を神に似ているから愛し、ますます神に似るように形成するべく努めることに本質があるとされる。また、プロテスタント的慈善は、人間はイエスによって目を注がれ、愛されており、そのような自分と他者に対する自己愛と隣人愛とが結合することに基礎づけが求められている。

 貧者や病者に対する慈善行為は、歴史の早い時期から存在していた。しかし、慈善事業とよばれる組織的活動は、産業革命前後からおこってくる。それは、慈善行為に対して、組織性、科学性、社会性をもち始めたところに特徴があった。すなわち、慈善事業においては、行為主体が個人ではなく組織であり、対象がもつ問題の生成やその予防・解決のための事業効果を科学的に理解していこうとする志向があり、ひいては事業を行う社会的責任の思想の萌芽(ほうが)があった。ただし、最後の社会性については、歴史家たちの判断に分かれがあり、それを認められないとするものもある。

 慈善事業の典型的展開は、産業革命期のイギリスやアメリカにみられる。それは、その時期の都市社会の下層における貧困問題に対する社会的対応であり、その思想的基礎づけは、中世のキリスト教的慈善が18世紀の啓蒙(けいもう)思想が主張した博愛の理念によって、より豊かにされたものによっていた。この慈善事業がのちに近代社会事業に発展し、さらに社会保障、社会福祉、福祉国家へとつながっていく。ただし、日本では、慈善事業は、感化救済事業を経て近代社会事業へと発展するので、イギリスやアメリカと同じ発展段階がみられるわけではない。しかし、いずれにせよ、このような歴史的経過があったので、社会事業や社会保障の時代になっても、それらに関する人々の認識に、慈善事業のイメージが混じり込み、それらの認識を部分的に誤らせるということがある。

[副田義也]

『吉田久一・高島進著『社会事業の歴史』(1964・誠信書房)』

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世界大百科事典(旧版)内の慈善事業の言及

【イギリス】より

…下層民たちは職にありつけなかったが,救貧法の屈辱にも耐えられなかったのである。この事件をきっかけとして,多数の個人的援助が行われ,慈善事業が活発となった。人は自助によって生活するが,すべての人が自助によって救われるわけではない。…

【女性運動】より

…その要求を組織的運動を通じて実現しようとしたのが女性運動である。女性の要求が生活全般にわたるものであることから,女性運動の内容も,家事の合理化,慈善事業,売春禁止,教育における男女平等,職業労働における男女平等,公法上・民法上の諸権利,反戦・平和など多様である。これらの女性運動は,女性の生きるべき状態をつくりだそうという共通の理念をもっているとはいえ,現状の把握と将来の展望について意見が一致しているのではない。…

【中国】より

…それに答えるのは彼らのまず第一の義務であった。さらにその社会的地位に伴う義務として郷紳は,協議して恒常的もしくは臨時的な慈善事業,橋梁や堤防の修理・改築,争乱時における郷土防衛などの企画や遂行を指導・担当しなければならない。官は税金徴収と裁判など以外,例えば日本の諸藩のごとく殖産をすすめ指導するなどのことはほとんどなく,人民を完全に放っておいたので,〈官は民と疎,士は民と近し,民の官を信ずるは士を信ずるにしかず〉で,人民は郷紳の指導のもとに〈自治〉体制をとらざるをえなかったのである。…

※「慈善事業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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