抗日パルチザン(読み)こうにちパルチザン

改訂新版 世界大百科事典 「抗日パルチザン」の意味・わかりやすい解説

抗日パルチザン (こうにちパルチザン)

今日の朝鮮民主主義人民共和国で建国の精神的淵源とされている,1930年代に中国の東北(満州)で共産主義者が展開した抗日パルチザン闘争。1910年の朝鮮植民地化後,間島を中心とする東北一帯では,義兵や独立軍による朝鮮民衆の反日武力抗争が一貫して続けられてきたが,この伝統を継承しつつ満州事変後の1932年春から共産主義者主導の武装闘争は開始された。当時のコミンテルンの一国一党方針により,このパルチザン部隊は形式上は中国共産党満州省委員会指導下の東北人民革命軍(1934年以後は東北抗日聯軍)に属し,朝・中人民連帯による反日帝闘争の一翼を担ったが,東満・北満では実際上朝鮮人が主力の部隊が多かった(朝鮮側文献では朝鮮人民革命軍と呼ぶ)。特に,間島五・三〇蜂起(1930)以降の大衆的高揚を背景として間島地方では,32年秋から小規模ながら九つの解放区が創出された。しかし満州事変当初有力だった中国国民党系等の反満抗日軍が急速に崩壊するにつれ,日帝側は〈共産匪〉に〈集中討伐〉を加え,〈集団部落〉をつくったり謀略団体〈民生団〉を送りこんだりした。この34-35年の厳しい時期に現出した解放区放棄方針等の指導の混乱を,金日成の主導のもとに克服した朝鮮人民革命軍は,以後朝鮮に最も近い長白県に根拠地をおき,コミンテルン7回大会(1935)を背景に朝鮮の民族解放と革命の独自の課題に集中するようになる。すなわち36年5月に祖国光復会を組織し,37年6月豆満江上流の朝鮮側にある普天堡に進攻するなど,国内民衆との連係を重視した。山中に密営をおいて白色区に住む農民と地下組織を通じて〈水と魚〉の関係を保つ厳しい状況だったが,こうした活動を39年5月の茂山戦闘以後まで続けたすえ,40年8月小部隊を残して主力はソ連領に移動した。日本ではこうした主体的闘争の内実につき,戦後までまったく漠然とした〈間島パルチザン〉のイメージしかなかった。
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