放射線の生物作用を分子、細胞、個体のレベルで調べることによって生命現象を解明しようとする学問をいう。放射線の人間に対する影響は、X線が発見されたときから注目されたが、医学で診断や治療に利用されるようになると、使用者の被曝(ひばく)による障害も著しくなり、生物作用の研究が要望された。1927年、H・J・マラーがX線によってショウジョウバエに人為的突然変異を誘発させることに成功してからは、放射線は有用な突然変異を得る手段として育種に利用されるようになるとともに、遺伝というきわめて生物学的な現象解明の有力な手段として注目されるようになった。原子力時代に入って、原爆や核実験による障害の究明と医療対策が進められている。さらに放射線が医療に、産業に、発電に、社会的に広く利用されるようになると、被曝の危険も高まるので、その障害の実態を解明し危険を防止する基礎となる放射線生物学は、原子力時代においてその社会的責任を果たさねばならないものとなっている。
放射線生物学の研究対象となる放射線は、紫外線、X線、γ線(ガンマせん)などの電磁波や、高速荷電粒子、中性子などである。これらの放射線は赤外線や可視光線と異なり、その光子または粒子のもつエネルギーがきわめて高いので、細胞が照射されると細胞内分子はイオン化されるかまたは励起状態になり、その結果吸収される放射線のエネルギーがいかにわずかでも、その量に応じた化学変化がおこる。このような変化は細胞成分に均一におこるが、生体分子のうちで生命の発現と維持に重要な役割をもつ生体高分子、とくに遺伝子DNA(デオキシリボ核酸)におこる変化は細胞の機能に重大な影響を及ぼし、いかにささいな変化でも細胞は細胞死や発癌(がん)などの致命的な障害を受ける。
近年、細胞の放射線感受性の研究から、放射線抵抗性の細胞は放射線によるDNAの損傷を修復する能力があり、この修復は細胞に存在する酵素によっていることが明らかになった。酵素の生成は遺伝子に支配されているので、放射線抵抗性は、生物が放射線環境下での進化の過程で獲得した能力と考えられている。また放射線による細胞の変異は、この修復の際の誤りによると考えられるようになった。
多細胞からなる成長した動物個体では、多くの器官が機能を分担してその個体を維持している。このうち造血器官、消化器官、生殖器官、皮膚など細胞再生系といわれる器官は、その主要な機能を果たす細胞が絶えず分裂をして補給され、したがって放射線に対する感受性が高い。このような個体に放射線が当たると、個体の全細胞、全器官に一様に線量に応じたエネルギーが吸収されても、個体維持により重要な働きをしている前記の細胞再生系器官が著しい障害を受ける。これが致命傷となって造血障害、腸障害などによる個体死がおこったり、生殖障害や遺伝障害がおこる。このように放射線生物学の研究によって、細胞および多細胞個体の生命維持の機構や突然変異の機構が明らかになってきている。
[代谷次夫]
放射線の生物に対する諸作用について研究する生物学の一分野。放射線としては,X線や紫外線,γ線などの電磁波や,電子線,α線などのような高速荷電粒子線,さらに中性子線などが対象となる。
1895年のW.C.レントゲンによるX線の発見以後,X線の利用が各国で急速に進んだが,19世紀末から20世紀にかけて,医療従事者を中心に,皮膚障害などの放射線障害が多発した。また第1次大戦後には蛍光塗料を扱う作業者やラジウム鉱山でラジウム中毒が発生して,放射線が物理的・化学的効果を起こすよりもはるかに少量で,人体に大きな障害を起こすことが明らかになった。これら生体に対する放射線の影響については,20世紀初頭から研究が行われ,〈細胞は分化の度が低いほど,また分裂が盛んなほど,放射線の感受性が高い〉という〈ベルゴニエ=トリボンドゥの法則〉(1906)や,H.J.マラーのX線によるショウジョウバエの突然変異誘発実験(1927)など,多くの知見が蓄積された。その後,1945年の広島,長崎への原爆投下による原爆症の発生を契機に,放射線の生体に対する影響についての研究が増大し,50年代後半から60年代にかけて,〈放射線生物学〉として確立されるようになった。放射線生物学では,分子,細胞,組織,器官,個体,集団など生物のあらゆるレベルでの放射線の作用が研究されている。これらのうち,遺伝子(DNA)に対しては,とくに著しい作用をもち,DNAに障害をあたえ染色体異常や突然変異,発癌などを引き起こすことから,遺伝現象に対する放射線の影響については放射線遺伝学として独立している。放射線生物学,放射線遺伝学は放射線医学や核医学などの医学をはじめ,育種学や食品科学などの農学など,関連分野が多い。
執筆者:山口 登
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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