中国,甘粛省北西部の酒泉地区に属する市。人口19万(2000)。河西通廊あるいは河西走廊とよばれる地帯の西端に位置するオアシスの町で,シルクロードの中国側の出入口に当たる最重要の地であった。1984年になって近郊に飛行場が完成したが,それまでは鉄道が通っていないため,およそ200kmはなれた蘭新線(蘭州~ウルムチ)の柳園駅から車で行くか,幹線自動車道路の甘新公路上の安西県から分岐する安敦公路で西に120kmの行程を踏んだ。
北側はクルック・ターク(乾いた山)であるが,南側には祁連(きれん)山系の支脈が伸びてきて,そこから流れ込む党河の水を縦横にひいたオアシスの上に成り立つ。このオアシスの西側に,党河が作った表面がゴビ,つまり礫石まじりの荒地の大扇状地が横たわり,その大扇状地の北西端と南端とに,すなわち敦煌県の北西およそ100kmの地と南西およそ70kmの地とに,前漢時代に玉門関と陽関が設けられていた。それぞれ北西のハミ(哈密)やトゥルファン(吐魯番)へ通ずる西域北道,ホータン(和田)へ通ずる西域南道の門戸となっていたが,清代以後ハミ,トゥルファンへは安西から交通する。冬はきわめて寒く,夏は酷熱の地で,しばしば強風の吹き荒れることでも知られる。住民は漢人系,イラン系,トルコ系,インド系といったさまざまな種族からなる。敦煌県の人口は約9万,そのうち約1万2000人が県城に住み,残りの大多数は農村部に住んでいる。特産品としては綿花があげられる。唐以後しばしば沙州の治所であったために,沙州とよばれることも多かった。ちなみに,現在の県城は1725年(雍正3)にできたもので,それ以前の町は3km南西の地点にあり,今では周囲をポプラにかこまれた土の城壁の一部を残しているだけである。
敦煌の名がとくに有名になったのは,県城の南東17kmにある鳴沙山東麓に仏教の大石窟群,敦煌莫高窟があり,今世紀の初頭に,その第17窟,蔵経洞とよばれる仏洞から大量の経巻や古文書,書画の類が発見され,世界の東洋学および仏教美術の研究に寄与したためであった。1907年(光緒33)以来,イギリスの探検家M.A.スタインとフランスの東洋学者P.ペリオ,日本の大谷探検隊などがもたらした古文献や書画が,南北朝・隋・唐時代の中国の社会経済史や古文書学,仏教あるいは美術や俗文学(変文)といった研究に刺激を与え,活発ならしめた貢献は,確かに特筆に値する。それとともに,スタインが,1906年から08年にいたる第2次中央アジア探検において,敦煌付近の長城の遺跡から辺境守備隊関係の漢代木簡705点を発見し,13年から15年にいたる第3次探検において同じく敦煌付近で166点の漢代木簡を発見したことの学術史上の功績を看過してはならない。第2次探検による漢代木簡の発見は,1901年にS.A.ヘディンとスタイン自身によって発見されていた晋代木簡を別にすると,近代における漢簡出土の最初であったので大いに注目を集め,その釈文と研究があいついで発表された。まずフランスの東洋学者K.シャバンヌが1913年に全簡の釈文と訳注とを588簡の写真を付して出版し,ついで翌年に京都に亡命中であった羅振玉と王国維による《流沙墜簡》が日本で刊行され,精緻な考証が加えられたのである。なお,第3次探検収集の木簡についてはフランスの東洋学者H.マスペロによって研究された。その後,44年にスタインの探検した長城遺跡を再調査した夏鼐(かだい)らによって48点の木簡と竹簡が採集され,79年には敦煌県の北西95kmの馬圏湾で1217点もの少数の竹簡を含む木簡が発掘されている。
班固の《漢書》によれば,漢代に中国領となる以前の敦煌は,月氏ついで匈奴の支配下にあって東西貿易の中継を営んでいた。漢の武帝によってその西域経営の最先端の基地として敦煌郡が設けられ,河西四郡の一つに数えられ,オアシスの北縁には匈奴の攻撃から守るために長城が築かれ,玉門関と陽関が設けられたことになっていたが,これら敦煌漢簡という第1次史料の発見によって,長城の守りの実態が判明したのである。敦煌が中国より西域に通ずる門戸であるという体制は,このように前漢時代にすでに整い,以後その役割をつとめつづけ,西方の世界にもシルクロード上にある都市の名として敦煌の名が伝えられた。漢民族以外の人々による敦煌に関する記録として最も古いのは,2世紀のアレクサンドリアの学者プトレマイオスの《地理書》で,その第16章にセリカの都市として挙げたThroanaが敦煌のことであるとみなされている。
敦煌は,何といっても河西通廊の最西端にあり,中原から遠く離れているので,中央政府が弱体化すると,しばしば独立ないし半独立し,ときには近傍のオアシス都市と連合して小国家をつくった。中央政府の支配下に入らなくても,東西貿易の中継の重要度は減らなかったし,内地が乱れてもここは平和であったため,大量の移住者が内地から流れ込むこともあった。1世紀初め,竇融(とうゆう)が河西五郡大将軍として敦煌地方に独立したのはその最初の例である。3世紀になると,敦煌は仏教の東漸ルートの陸港ともいうべき位置にあったため,インドや西域からきた僧侶がいったんはここに落ち着くようになった。訳経僧で〈敦煌菩薩〉と称された竺法護のように,敦煌生れの僧侶もでてきたのである。4世紀初めから5世紀半ばにかけての五胡十六国時代には,河西の通廊地帯に小政権がつぎつぎに興亡した。16国のうち,実に5国はこの地帯で興亡を繰り返したのである。敦煌は,まず武威によった張氏の前涼国に属し鳴沙山の名にちなんで沙州がおかれ,まもなく敦煌郡とよばれた。やがて前秦国ついで北涼国に属したが,敦煌太守李暠(りこう)が西涼国(400-421)を建てた際には,初期の国都となった。西涼が滅んで,また北涼国の領土となったが,439年に北涼も北魏に併合された。北魏は初めここを敦煌鎮とし,のちに瓜州と改めた。
莫高窟は,前秦領であった366年(建元2)に僧の楽僔(がくそん)が最初の洞窟を掘り,6世紀の前半,北魏の末期に瓜州刺史となった東陽王の元太栄らが拡張したと伝えられ,それ以後1000年ごろまで開掘と補修がつづけられ,仏教の聖地となった。北魏の都,平城の近くに460年以後,曇曜の発案で開掘される雲岡の大石窟は,明らかに敦煌莫高窟の造営を模範としていた。ただし,同じく仏教の大石窟寺院といいながら,莫高窟がいずれも塑像の仏・菩薩像と四囲の壁画群からなるのに対し,岩壁を切り開いた雲岡石窟の各洞は巨大な石仏の周囲を石の浮彫群が取り巻いているのであって,日本の法隆寺の塑像や壁画の源流は,雲岡ではなくて敦煌ということになる。
6世紀の末に270年ぶりに中国本土の南北統一を実現した隋朝は,第2代の煬帝(ようだい)の治世になると積極的に西域への進出をはかり,敦煌郡がおかれた。この煬帝の西域経営は,張掖や敦煌に派遣されて西域各国の商人から風土や地理について聞き書きし,《西域図記》を著した裴矩(はいく)の献策に負うところが多い。隋末の混乱期には,敦煌は涼州に拠った李軌の支配下に入ったが,唐朝が成立した翌年の619年(武徳2)に唐の支配がおよんで瓜州となり,まもなく沙州と改称された。唐も積極的に西域への進出をはかり,今のトゥルファンに漢人の植民王国を建てていた高昌国を滅ぼして西州を設置したり,さらに西なるタリム(塔里木)盆地のオアシス諸国を平定して羈縻(きび)州を置いたりした(羈縻政策)。こうした西域経営の結果,敦煌は西方への重要な根拠地となり,同時にイラン系商人の蝟集(いしゆう)する町となった。8世紀初めには城内に豆廬軍という守備隊の軍鎮が置かれ,まもなく最初の節度使として設置された河西節度使の管轄下に入ることになった。玄宗治世の開元・天宝年間(713-755)の敦煌は,最も華やかな時代を迎えたのであり,莫高窟にも盛唐様式の華麗な浄土窟が数多く造営された。
ところが,755年(天宝14)に安禄山の反乱が起こって唐の支配力が弱まると,河西の通廊地帯には南から吐蕃(とばん)すなわちチベット人が侵入してきた。沙州つまり敦煌は執拗な抵抗をつづけたが,国都の長安にさえ長駆して一時は占領するほどの力量をもった吐蕃の軍事力によって,781年(建中2)には沙州の一角の寿昌県が破られ,787年(貞元3)に至ってついに全面的に降伏した。これ以後,848年(大中2)に漢人の張議潮によって追い出されるまでの約60年間は,敦煌はまったくチベット人によって統治されたのであって,この時期を吐蕃支配期ないし吐蕃期と呼んでいる。この時期の敦煌では,生活や文化のあらゆる面に吐蕃の影響がみられる。ただし,異民族とはいえ仏教国家ともいえる吐蕃王国の支配下に入ったことにより,莫高窟が破壊されるという悲劇は生まれず,造営は絶えまなく続けられたのである。
9世紀の半ばになると,吐蕃の河西・中央アジア支配は動揺し始めた。吐蕃側の内紛につけこみ,土豪の張議潮を指導者とする敦煌の漢人たちは,848年に吐蕃人を追い払うのに成功した。張議潮が唐朝より帰義軍節度使に任命されたのは851年,張氏の帰義軍節度使による敦煌オアシスの支配が3代50余年つづいた時点で,頼りとする唐朝が滅んだので,張氏が独立して西漢金山白衣皇帝と称した。この金山国も10年つづいただけで,曹氏が代わって支配者となり,ひきつづき中国側から帰義軍節度使に任じられたが,これはまったくの名目だけで,実際は外国の朝貢という扱いであり,やがてタングート(党項)族の西夏の圧迫をうけてしだいに弱っていき,11世紀前半に征服されてしまう。帰義軍時代の敦煌は,ウイグル人やイラン人,チベット人の国々に取り囲まれて,ただ一つの漢人オアシス国というかっこうで,前後200年近くも存続した。帰義軍時代の莫高窟では格段に大きな仏教石窟が造営されたのであった。西夏は13世紀モンゴル帝国に併合されるが,敦煌はさびれた町となってしまっていたらしい。明朝は粛州の西にある嘉峪関(かよくかん)を西の国境の関門として,かつての玉門関の役割を果たさせていたが,トゥルファンの侵入が相次いだため,1524年(嘉靖3)に嘉峪関を閉鎖して東西交通を遮断し,敦煌を放棄してしまった。再び敦煌に漢人が住みついたのは18世紀になってのことで,1725年に現在の敦煌県城が構築されたのである。
執筆者:礪波 護
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中国、甘粛(かんしゅく)省にある県級市。酒泉(しゅせん)地級市に属する。人口14万1969(2012)。内陸アジアの乾燥地帯に属し、ゴビ(土漠)中のオアシスにある。歴史上、瓜州(かしゅう)、沙州(さしゅう)、燉煌ともよばれた。市内を蘭新(らんしん)線、敦煌線(柳溝(りゅうこう)―敦煌)が通るほか、市街近郊には敦煌空港がある。近年、風力発電産業が盛ん。
[池田 温・編集部 2017年6月20日]
前漢の武帝(在位前141~前87)時代に、匈奴(きょうど)に対抗し漢の軍隊が黄河(こうが)の西方に進出したとき、駐屯地となり敦煌郡が設けられたのに始まる。兵士の屯田により農地が開け、漢の西域(せいいき)進出の基地となり、玉門関、陽関の両関が置かれ辺防の要衝となった。ここは中国から中央アジアを経て西方世界に達するシルク・ロードの要地で通商の拠点となり、諸族雑居しイラン系のソグド商人の集落もできた。
西晋(せいしん)時代には、著名な将軍で能書の誉れ高い索靖(さくせい)(239―303)や、敦煌菩薩(ぼさつ)とうたわれた訳経僧竺法護(じくほうご)を生み、文化水準も内地並みに高まった。戦乱の五胡(ごこ)十六国時代に、河西(かせい)の地は相対的に安定し、前涼(ぜんりょう)、北涼、西涼など諸朝を通じ敦煌は発展期を迎え、一時西涼の国都ともなり、著名な石窟(せっくつ)寺院(千仏洞=莫高窟(ばっこうくつ))が開削され、仏教文化の中心地として栄えた。5世紀初め北魏(ほくぎ)に征服され多くの有力豪族が代都に移されるに及び、やや衰退したが、北朝から隋(ずい)・唐にかけてシルク・ロードの要衝として東西文化の交流に一定の役割を果たした。8世紀盛唐には、13郷約6000戸、3万余の人口を擁し、莫高窟に北・南の両大仏が造顕され、絢爛(けんらん)たる浄土図などの壁画で飾られた。ところが安史の乱により唐の勢力は後退し、吐蕃(とばん)(チベット)に数十年間占領されてのち、848年土豪の張議潮(799―872)が吐蕃の内紛に乗じこれを追い、唐に帰順して帰義軍節度使に任ぜられた。
以後、唐、五代、北宋(ほくそう)を通じおおむね中原(ちゅうげん)の正朔(せいさく)を奉じたとはいえ、通交は不安定で独立地方政権に近く、張氏、曹氏が節度使を世襲し、遼(りょう)、甘州回鶻(かいこつ)(ウイグル)、于闐(うてん)(ホータン)など諸族政権と複雑な関係を取り結び、東西交易仲介の利を図った。11世紀なかばにタングートの支配下に陥り、ついでモンゴル、吐魯番(トゥルファン)のウイグルの勢力下にあってのち、18世紀に至り雍正(ようせい)年間(1723~1735)に清(しん)朝の管轄するところとなり、ふたたび多数の漢人が入植し、千仏洞で名高い観光都市となった。
20世紀初め、石窟の一室に封蔵されていた数万点の古写本断巻、幡幢(ばんとう)などが発見された。これがM・A・スタインやペリオによりイギリス、フランスに持ち出され、にわかに敦煌資料の貴重な価値が喧伝(けんでん)され、「敦煌学」とよばれる新研究領域が開かれ、文献学者や美術史家の注目の的となった。新中国は敦煌研究院(旧、文物研究所)を設け石窟の修復保存と研究に努めている。
[池田 温 2017年6月20日]
2014年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「シルク・ロード:長安‐天山(てんざん)回廊の交易路網」の構成資産として、玉門関、懸泉置(けんせんち)遺跡などが世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2017年6月20日]
『榎一雄編『講座敦煌1 敦煌の自然と現状』 『講座敦煌2 敦煌の歴史』(1980・大東出版社)』▽『池田温編『講座敦煌3 敦煌の社会』(1980・大東出版社)』
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中国甘粛省最西端の町。豊かな放牧地であった河西を開拓した前漢王朝の敦煌郡設置に始まる。住民は漢人を主体とする多様な民族からなり,生業として農業,商業とともに牧畜業も活発であった。中国からみれば,当初,西域への門戸として機能していたが,唐代には幹線ルートから外れ,ローカル化した。786年には吐蕃(とばん)の支配下に置かれるが,848年,帰義軍(きぎぐん)が蜂起し張議潮(ちょうぎちょう)が敦煌を掌握した。その後,帰義軍節度使として,張議潮の一族および914年以降には曹仁貴(そうじんき)(議金)の一族が,11世紀の初めまで敦煌を支配した。曹氏の支配時代は,張氏の時代に比べて自立化を強め,周辺諸国と積極的な外交関係を保ったが,1035年頃,敦煌は西夏によって占領された。郊外の莫高窟(ばっこうくつ)から「発見」された敦煌文献は,ほとんどがこの時代までに作成されたものである。
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…また善導は浄土信仰の基本的教義書《観無量寿経疏》《観念法門》などを著したほか,生前に300幅もの浄土変を作ったという。しかしこれらの遺品は中原にはなく,西辺の敦煌莫高窟の壁画によってその盛況をうかがいうるにすぎない。現在同地には隋から宋にいたるおびただしい数の浄土変があり,その変遷を展望することができる。…
…中国では唐代に盛んに造られ,善導は浄土変相を見て浄土教に帰し,のちにはみずから300余舗の浄土変相を描き,ひとにも制作をすすめたという。敦煌には浄土窟とよばれる多数の石窟があり,約230の西方浄土変をはじめ,およそ70の東方薬師変と弥勒変の壁画が残されているし,スタイン探検隊は20余の浄土変相の絵画を持ち帰った。日本でも,法隆寺金堂に描かれていた四仏浄土変をはじめ,当麻寺の《当麻曼荼羅》など多数の浄土変相が残されている。…
※「敦煌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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