新国劇(読み)しんこくげき

精選版 日本国語大辞典 「新国劇」の意味・読み・例文・類語

しん‐こくげき【新国劇】

大正六年(一九一七)、沢田正二郎を中心に、新しい国民演劇をめざして組織された劇団。「月形半平太」「国定忠治」など、剣劇を創案して大衆的な人気を得た。沢田の死後は辰巳柳太郎島田正吾を中心に活躍。昭和六二年(一九八七)解散。

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デジタル大辞泉 「新国劇」の意味・読み・例文・類語

しん‐こくげき【新国劇】

大正6年(1917)沢田正二郎が、歌舞伎新劇との中間をいく新しい国民演劇の創造を目ざして結成した劇団。剣劇と大衆劇を中心に、島田正吾・辰巳柳太郎らが活躍したが、昭和62年(1987)に解散。

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改訂新版 世界大百科事典 「新国劇」の意味・わかりやすい解説

新国劇 (しんこくげき)

劇団名。1917年4月,芸術座を脱退した沢田正二郎を中心にして,倉橋仙太郎,金井謹之助,田中介二,渡瀬淳子らによって結成された。東京新富座での第1回公演に岡本綺堂松居松葉(しようよう)の戯曲を上演したが,興行的には不調に終わり関西に去った。関西で松竹の白井松次郎に拾われ,京都南座,大阪角座などに出演するが,舞台に迫真的な立回りを取り入れてしだいに観客の喝采を得るようになり,19年には新たな座付作者行友李風(ゆきともりふう)(1877-1959)の《月形半平太》で大当りをとった。続いて同じく行友の《国定忠次》も成功し,テンポの早い演技と激しい立回りで,剣劇という一ジャンルをつくり,関西劇界を席捲した。沢田の目標は歌舞伎と新劇の中間を行くような新しい大衆演劇の樹立にあり,〈民衆と握手せよ,而して片足のみは不断に民衆より半歩を進めよ〉と〈演劇半歩主義〉を主張した。21年には上京して,明治座での公演にも成功,本拠を浅草公園六区の公園劇場に移し,〈沢正(さわしよう)〉の名は剣劇の評判とともについに日本中に知られるようになった。24年に金井,田中らが沢田の相手役として活躍していた女優の久松喜世子きよこ)(1886-1977)と対立して退団,翌年には渡瀬淳子が離れたが,高田保脚色《白野弁十郎》(《シラノ・ド・ベルジュラック》の翻案・脚色),真山青果《桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)》などで大衆劇の新境地を開き,前進を続けた。しかし,29年3月4日に沢田が急死,劇団は一時,危機に見舞われるが,若い島田正吾(1905-2004)と辰巳柳太郎(たつみりゆうたろう)(1905-89)の抜擢が功を奏して人気を呼び,引き続き劇界に確固たる地位を占めた。第2次世界大戦中は吉川英治原作の《宮本武蔵》などで切り抜け,戦後は北条秀司(ほうじようひでじ)(1902-96)の《王将》《霧の音》などの名作を得て人気を保ってきたが,創立50周年を迎えたころから,大幹部の島田,辰巳の高齢化,若手の脱退で衰退にむかい,79年9月,株式会社新国劇は倒産。往年のような形での劇団再建は困難になっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新国劇」の意味・わかりやすい解説

新国劇
しんこくげき

劇団名。1917年(大正6)沢田正二郎を盟主として創立された大衆劇団。新国劇の名は、それまで新劇の舞台に立っていた沢田がこれに飽き足らず、より広範な一般大衆に親しまれる「新しい国劇」を目的としたのによる。同年4月松竹の協力で東京の新富座で旗揚げ公演をもった。しかし興行的には失敗し、関西に移り、京都・南座でも不入りであったが、7月の大阪・角座(かどざ)の公演は、沢田が考案したリアルな立回りで評判をとった。松竹大阪が弁天座を根城に沢田売出しに力を入れ、沢田も「邪劇(じゃげき)」と自嘲(じちょう)する大衆劇への徹し方でたちまち活況を呈し、京都で座員8名であったのが翌18年には120名に膨張。行友李風(ゆきともりふう)を座付作者に迎え、『春告鳥』『月形半平太』『函嶺夜話』『国定忠治(くにさだちゅうじ)』などで基礎を固めた。21年(大正10)東上して明治座で公演、創立時の失敗を雪辱する。沢田は半歩前進主義を唱え、「右に芸術、左に大衆」をモットー硬派の演劇と大衆的な剣劇で劇団は順調に発展していった。23年浅草公園劇場出演中、座員が円座になってすしを食べているのを賭博(とばく)行為と誤解した警官とのトラブル(象潟(きさかた)事件)に続いて関東大震災。直後に日比谷(ひびや)の野外音楽堂で『地蔵教由来』『勧進帳』ほかを市民慰安として公演し成功を収め、その後も帝国劇場などに進出して新国劇の全盛時代を築いたが、29年(昭和4)に沢田が急死。

 座長の死後一時期難関にたたされたが、青年俳優の島田正吾(しょうご)と辰巳(たつみ)吾作(辰巳柳太郎)が抜擢(ばってき)されて、劇団の再建は順調に進み、大劇場公演も定着していった。島田は『白野弁十郎(しらのべんじゅうろう)』『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』、辰巳は『国定忠治』という師の当り狂言を受け継ぐほか、長谷川伸(はせがわしん)の股旅物(またたびもの)を加え、一方では北条秀司(ひでじ)ら現代劇作家とも提携、『王将』は辰巳、『霧の音』は島田の代表作となった。1967年(昭和42)には創立50周年を迎え、大山克巳(かつみ)、緒形拳(おがたけん)を中心とする新体制を出発させた。しかし、緒形の退団ほか悪条件が重なり、劇団運営が円滑にいかないまま、79年株式会社新国劇が倒産。島田・辰巳を中心に公演活動が細々と再開されてきたが、劇団創立70周年記念公演終了後の87年(昭和62)9月解散した。

[藤田 洋]

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百科事典マイペディア 「新国劇」の意味・わかりやすい解説

新国劇【しんこくげき】

劇団名。文芸協会から芸術座に参加した沢田正二郎が,新しい民衆劇の樹立をめざして1917年に結成した劇団。東京で失敗し,関西でも苦闘を重ねたが,〈たて〉を巧みにいかした《月形半平太》や《国定忠治》の上演で成功,再上京した。その後も半歩前進主義を唱え,《大菩薩峠》や《白野弁十郎》などで大衆的な人気を博した。1929年沢田の急死で危機に陥り,辰巳柳太郎,島田正吾らによって再建されたが,1979年倒産,1987年に解散した。
→関連項目大河内伝次郎剣劇藤原義江

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新国劇」の意味・わかりやすい解説

新国劇
しんこくげき

1917年沢田正二郎が結成した劇団。当時の新劇にあきたらず,新しい国民劇を目指して出発したが,東京の新富座での旗揚げ公演は興行的に失敗。関西に都落ちして基礎を固め,21年に上京,『父帰る』『国定忠治』などが成功して,創始した剣劇とともに「沢正」の名は不動のものとなった。「演劇半歩主義」をモットーとし,真山青果,長谷川伸らの戯曲を得て,歌舞伎と新劇の中間をゆく国民劇の創造を進め,劇団名が演劇の一つのジャンルを意味するほど広い層の観客から支持された。 29年沢田の死後は島田正吾,辰巳柳太郎が活躍。しかし第2次世界大戦後は激増した主婦層を中心とする観客の好みと,男優中心主義の劇団の姿勢との間にギャップを生じ,また島田,辰巳に代る新スターの養成もむずかしく,79年経営不振から倒産。 87年8月,新橋演舞場での劇団創立 70周年記念公演を最後に解散した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新国劇」の解説

新国劇
しんこくげき

大正・昭和期の劇団。1917年(大正6)沢田正二郎が,従来の演劇にない広い範囲の人々を対象とした新しい国民劇をつくりだそうという意図から組織。沢正とよばれた沢田の圧倒的力量と剣劇の魅力によって人気を高めた。29年(昭和4)沢田の死後は,辰巳柳太郎と島田正吾を中心に演目を広げ,上質な大衆劇をうみ,60年頃まで隆盛を誇ったが,以後人気を失い,87年創立70周年を機に解散した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「新国劇」の解説

新国劇
しんこくげき

沢田正二郎が創立した劇団
1917年芸術座を脱退した沢田正二郎が大衆演劇の隆盛をめざして,東京新富座で旗上げ公演。初め不成功だったが,「大菩薩峠」「月形半平太」「国定忠治」などの剣劇で人気を集めた。沢田の死後,島田正吾・辰巳柳太郎らが受け継いだが,'87年解散した。

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世界大百科事典(旧版)内の新国劇の言及

【剣劇】より

…俗に〈ちゃんばら〉ともいわれた。1918年(大正7)ころ〈新国劇〉の創始者沢田正二郎が新しい国民大衆劇樹立を意図して進んでいるうちに,《月形半平太》《国定忠治》などの剣闘場面で写実的な緊迫感のある立回りの手を案出し,それが大阪の大衆に迎えられて新国劇の躍進はめざましくなるとともに,剣をふるう人物を主役にした脚本が相次いであらわれて〈剣劇〉の名がつけられた。その後〈剣劇映画〉の名が起こったように時代劇映画への影響は大きく,阪東妻三郎,大河内伝次郎,林長二郎(長谷川一夫),市川右太衛門,片岡千恵蔵らが剣劇映画俳優として人気を呼んだ。…

【沢田正二郎】より

…俳優,劇団新国劇の創立者。滋賀県大津市に生まれ,東京で育った。…

【新劇】より

…こうして経済基盤をつくり,新劇の大衆的普及と芸術的研究上演の二元体制を同時進行させる劇団体制をつくりだしたものの,18年冬,抱月は急逝し,翌19年正月,須磨子は抱月の後を追って縊死を遂げ,第1次の芸術座活動は終わった。 一方,それ以前に芸術座を脱退していた沢田正二郎らは新しい国劇樹立をはかって1917年に〈新国劇〉を結成,ドストエフスキーの《罪と罰》やドイツ表現派のカイザー作《カレーの市民》を本邦初演したが,それらの試みは成功せず,劇団基盤は大衆的娯楽性の強い剣劇によって獲得されていった。 関東大震災前の大正期の新劇は,総じて,芸術座や新国劇のような大衆的娯楽性を創出することによって劇団活動の自立と持続をはかっていた。…

【関の弥太っぺ】より

…1929年(昭和4),総帥の沢田正二郎が急死して危機にあった新国劇のために長谷川伸が書き下ろした戯曲で,8月,帝国劇場で初演され好評を博した。主人公の関の弥太郎は,のちに島田正吾の当り役になった。…

※「新国劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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