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(山梨絵美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
彫刻家。山形市生まれ。生家は代々仏師。漢画、漢学を学び、1886年(明治19)軍人を志して上京、騎兵隊に属し、その間、馬の彫刻をつくる。後藤貞行、小倉惣次郎に彫刻を学び、1900年(明治33)ドイツに渡ってベルリン美術学校教授ヘルテルに師事し、官学派の古典主義彫刻を研究して02年帰国した。07年第1回文展から審査員を務め、『ゆあみ』を出品した。太平洋画会研究所彫刻部を主宰し、多くの後進を指導、17年(大正6)帝室技芸員、19年帝国美術院会員となり、明治後期から大正期にかけての代表的な彫刻家として活躍し、風俗的な主題の木彫もつくった。代表作に『ゆあみ』『斥候(せっこう)』『北白川能久(よしひさ)親王騎馬像』『大聖歓喜天像』などがある。
[三木多聞]
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1868.2.5~1927.3.12
明治・大正期の彫刻家。山形県出身。仏師の家に生まれる。後藤貞行・小倉惣次郎に学び,1900年(明治33)ドイツに渡り,ベルリンでヘルテルに師事,官学派の古典主義の彫塑を学ぶ。02年帰国し,太平洋画会彫刻部を主宰。07年第1回文展で「ゆあみ」が好評を得る。17年(大正6)帝室技芸員,19年帝国美術院会員となった。晩年は東洋芸術に傾倒,「老子」などを制作した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。白馬会には菊地鋳太郎,小倉惣次郎が加わり,太平洋画会にはヨーロッパ留学から帰った新海(しんかい)竹太郎(1868‐1927),北村四海(しかい)(1871‐1927)が加わって後進を指導した。これらようやく盛んになりかけた洋風彫塑に対抗して,1907年,岡倉天心を会長とし,米原雲海(1869‐1925),山崎朝雲(1867‐1954),平櫛(ひらくし)田中らの新鋭木彫家6名による日本彫刻会が結成され,文展第3部には,木彫家,彫塑家が一堂に会することとなる。…
※「新海竹太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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