中国近代の代表的総合雑誌。1915年9月,陳独秀が上海で《青年雑誌》として創刊,翌秋の第2巻1号から《新青年》と改名し,22年7月に9巻6号を出した(1巻は各6冊)。その後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉である。最初は陳独秀の個人雑誌の観があったが,やがて胡適,李大釗(りたいしよう),銭玄同らが編集に加わり,魯迅,呉虞らの紙価を高からしめた文章が続々と載るなど五・四運動前の進歩的論壇の中心となった。民主と科学の旗を高く掲げ,封建儒教倫理に反対して(打倒孔家店)自我・個性の確立をよびかけ,家族制度の打破,婦人の解放を訴えた。やがてロシア革命の影響をうけて6巻からはマルクス主義の宣伝に力を入れ,8巻からは上海の中国共産党臨時中央の機関誌,中共三全大会後には理論機関誌(季刊以後)とされた。《新青年》はこのような新思想を宣伝するばかりでなく,口語(白話)を提唱し,4巻からは誌面を口語にきりかえた。白話文運動は清末から存在したが,このときにいたって大勢は決した。《新青年》を中心とする運動が〈文学革命〉〈新文化運動〉とよばれるゆえんである。
執筆者:狭間 直樹
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1920年(大正9)1月より50年(昭和25)7月まで発刊された月刊娯楽雑誌。出発は森下雨村(うそん)を編集長とする、博文館発行の青少年向けの教養総合雑誌であったが、読み物としての海外探偵小説翻訳が人気をよび、その後、日本の新進探偵作家の作品も掲載し、江戸川乱歩、横溝正史(よこみぞせいし)、小栗虫太郎(おぐりむしたろう)ら、数多くの探偵作家を生んだ。探偵小説ばかりでなく、久生十蘭(ひさおじゅうらん)、獅子文六(ししぶんろく)、谷崎潤一郎(じゅんいちろう)らの一般小説も数多く掲載し、またコントや囲み記事、漫画なども大正、昭和初期のモダニズムやウイットにあふれたものであったので、「新青年趣味」などということばさえ生まれた。時局が逼迫(ひっぱく)するにつれて、戦時色を濃くし、探偵小説の色は希薄になった。第二次世界大戦後も、出版社を何度かかえて続刊されたが、その全盛期の特色は失われ、1950年7月で廃刊となった。通計400余冊。
[梶 龍雄]
『『新青年傑作選』全5巻(1969・立風書房)』
中国の新文化運動を推進した総合雑誌。1915年に陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)によって創刊され、のち北京(ペキン)大学教員を中心とする同人編集に改組。創刊時から民主、自由、人道、科学などヨーロッパ近代文明を理想として、国内の封建的な文化と政治を批判していたが、やがてその論調は倫理革命(儒教批判)と文学革命(口語文学)に集約され、革新を求める青年たちの圧倒的な支持を得るようになった。五・四運動(1919)以後はしだいに社会主義の傾向を強め、マルクス主義やロシア革命を精力的に紹介したが、この政治化をめぐって同人の間に対立が生じ、1922年に停刊、以後は共産党の理論機関誌として26年まで不定期に刊行された。おもな執筆者に陳のほか胡適(こてき/フーシー)、呉虞(ごぐ/ウーユイ)、銭玄同(せんげんどう/チエンシュワントン)、魯迅(ろじん/ルーシュン)、李大釗(りたいしょう/リーターチャオ)らがいる。
[丸山松幸]
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民国時代初期の啓蒙的総合雑誌(1915年9月~22年7月)。初め『青年雑誌』といい,月刊,季刊,不定期刊と変わった。内容的には旧道徳批判の啓蒙誌から,中国共産党機関誌へと移った。『新青年』が五・四運動時代前後を通じて,思想・文化の発展に果たした役割はきわめて大きい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… 1913‐15年,陳煥章,康有為ら保守派の学者の音頭によって,孔子の教えを国教にしようとする孔教運動がおこり,袁世凱の帝制がさけばれるなかで,新文化運動が開始される。〈民主と科学〉を旗じるしとする雑誌《新青年》を中心に,中国の社会と文化を改革するためには,中国の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。陳独秀は〈孔子の道と現代生活〉など多くの文章で,孔子の思想が封建的なものであって民主主義とは両立しえないと主張し,呉虞は〈儒教の害毒は洪水猛獣〉のごとくはなはだしいものだと痛烈に批判し,魯迅は,儒教は〈人が人を食う〉教えであるとのべて《狂人日記》のなかで,人を食ったことのない(儒教に毒されぬ)子供を救え,と書いた。…
…前者は辛亥革命後の軍閥支配に抗して中国の出路をもとめていたインテリたちである。もっとも有名なのは,《新青年》に拠って新文化運動を展開した陳独秀,李大釗(りたいしよう),胡適,魯迅らのグループである。彼らは,民主と科学の旗をかかげ,中国の封建倫理の中核である孔子の教えを根底から否定しようとした(打倒孔家店)。…
…小説にしろ映画にしろ(1913年に中国で製作された物語映画が初登場),封建的桎梏(しつこく)のもとでの悲劇を素材とするものが江湖の大歓迎をうけた。このような状況のもとで《新青年》が登場した。旧社会の儒教倫理に反対し,個性の確立をうったえる新文化運動の開始である。…
…青年時代には反清の革命家として新聞記者,愛国会,秘密結社岳王会等の組織者として活動したが,辛亥革命の失敗が明らかとなってからは,それまでの会党式の組織方法による革命への反省から,国民の文化思想面での革新へと方向を転じた。袁世凱の恐怖政治のさなか,上海租界で《青年雑誌》(のち《新青年》と改題)を刊行し,中国に伝統的な封建意識を打破しようと試み,〈民主と科学〉を旗幟(きし)に〈反孔教〉(憲法から宗教,家庭,婚姻問題までを含む),〈文学革命〉等の言論活動を行った。蔡元培の招請で北京大学文科学長となり,盟友に胡適,呉虞,銭玄同,李大釗(りたいしよう)等を得て儒教主義的な古い世界観や意識に大きな打撃を与えた。…
…さらに黄遵憲は俗語で詩を書くこと,新しい思想を詩の素材とすることを試みようとしたが,その実現をみなかった。 辛亥革命後の1915年,陳独秀を中心に,雑誌《新青年》が創刊された。この雑誌はのちに中国共産党の機関誌となったが,当初は自由主義を唱え,封建的重圧からの人間解放,とくに儒教倫理と家族制度の打倒を目標としていた。…
…これらの作家はもちろん推理小説的作品だけを書いたわけではないが,後に日本最初の推理小説作家と呼ばれた江戸川乱歩,横溝正史(1902‐81)らは,上記の作品によって大きな刺激を受け,とくに怪奇,幻想の特色を受け継いだのであった。 1920年1月に創刊された雑誌《新青年》は,編集長の森下雨村の好みもあって,はじめから海外探偵小説の翻訳・紹介をその特色としたが,同時に新人の創作を募集した。これに応じて投稿され,1923年4月号に掲載された江戸川乱歩の短編《二銭銅貨》は,日本推理小説史上画期的な作品で,以後彼は名作を次々と発表,日本において〈探偵小説作家〉と呼ばれることのできるものの第1号であると同時に,第一人者とも認められるようになった。…
※「新青年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
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