1941年(昭和16)4月にモスクワで調印された日本と旧ソ連との中立条約。日本は、1939年のノモンハン事件でソ連軍に敗れて以来、さしあたり北方への進出をあきらめ、南方へ進むことにした。外務大臣松岡洋右(ようすけ)は、まず独伊と三国同盟を結び、ついでこれを、ソ連を含む四国協商に発展させ、この力を借りて英米を牽制(けんせい)し、この間に南進するという構想をたてた。この構想を実現するため、日本は40年9月に日独伊三国同盟を締結し、ソ連に中立条約の締結を提案した。ソ連も1939年8月に独ソ不可侵条約を締結していたが、同年9月にはヨーロッパで戦争が始まっていたので、ヨーロッパとアジアでの二正面戦争を避けるために日本の提案に応じた。しかし、日本のほうがより強く同条約を必要としていたから、条約調印にあたり、日本は、1925年(大正14)の日ソ基本条約で許与された北樺太(からふと)(サハリン)の利権を整理する問題を数か月内に解決するよう努力するとソ連に約束せざるをえなかった。かくて、日ソ両国は、41年4月13日、有効期間5年の本条約を成立させ、一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他方は当該紛争の全期間にわたって中立を守ることを約した。
ところが、この条約を結んで2か月余しかたたない1941年6月に独ソ戦が始まった。松岡外相は南進を一時延期して対ソ戦を開始するよう強く主張した。御前会議はこの主張を排し、南進を確認し、さしあたり独ソ戦への不介入を決めたが、同時に、独ソ戦の推移が日本に有利に進展するならば、武力を行使して北方問題を解決することを決めた。このために実施されたのが関東軍特別大演習である。しかし、日本が南進を開始し、日米関係が悪化したので、対ソ開戦には至らなかった。同年12月に日本が米英などと戦争状態に入ったのちも日ソ間の中立は維持されたが、45年4月5日にソ連は同条約の有効期限が満了後延長しないことを通告。同年8月9日には連合国間の協定に基づき、日本に宣戦を布告して攻撃を開始した。日ソ中立条約は、法的には有効期間中にソ連によって破棄された。
[中西 治]
『日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第五巻 三国同盟・日ソ中立条約』(1963・朝日新聞社)』▽『鹿島平和研究所編『日本外交史 第21巻 日独伊同盟・日ソ中立条約』(1971・鹿島研究所出版会)』▽『クタコフ著、ソビエト外交研究会訳『日ソ外交関係史 第二巻』(1967・刀江書院)』
1941年4月13日に調印された日本とソビエト間の中立条約。外相松岡洋右,駐ソ特命全権大使建川美次とソビエト外務人民委員V.M.モロトフとがモスクワで調印した。1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣の松岡外相は,第2次世界大戦が独伊の枢軸側に有利に展開しているうちに日独伊三国同盟を結び,ついでドイツのあっせんによって日独伊ソ四国協商を成立させ,四国協商の圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し,同時に南進政策を有利にすすめるという独特の構想をいだいていた。この松岡構想にもとづき,同年9月27日日本は日独伊三国同盟に調印し,10月30日には不可侵条約の締結をソビエトに申し入れたが,日本が当時保有していた北部サハリン(樺太)の石油・石炭利権解消問題をめぐって交渉は難航した。しかし41年になると軍部を中心に北守南進政策推進の声が一段と強まり,ソビエト側でもドイツの侵略に対抗するため日本との関係を安定させる必要性が高まり,松岡外相が2回モスクワを訪問し,日ソ中立条約の調印にこぎつけた。この条約は4ヵ条から成り,内容は両国間の平和友好関係の維持,相互の領土不可侵,締結国の一方が第三国から軍事攻撃を受けたとき他方は中立を守る,有効期間は5年で,調印と同時に日本はモンゴル人民共和国の,ソビエトは満州国の領土保全と不可侵を尊重するとの声明が発表された。しかしこの条約は,独ソ戦争が起こったときには矛盾する性格をもち,しかもドイツは40年12月18日秘密のうちに対ソ攻撃を決定していたから,松岡構想は破綻した。その後41年6月に独ソ戦が,12月に太平洋戦争が勃発したが,日ソ間の中立関係は維持された。ところがソビエトは,45年2月のヤルタ会談でドイツ降伏後〈2月又は3月を経て〉対日参戦することを米英両国に約束し,4月5日有効期限(1946年4月24日)以後の中立条約の不延長を通告してきた。日本はソビエトのあっせんによる和平工作を行ったが失敗し,ソビエトは8月8日対日参戦を行い,ここに日ソ中立条約は失効した。
執筆者:木坂 順一郎
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1941年4月13日に日本とソ連の間に調印された条約。1940年に成立した第2次近衛内閣の外相松岡洋右(ようすけ)は日独伊三国同盟を結び,これにソ連を加えるという構想を抱いた。初め松岡はソ連に不可侵条約を提案したが,ソ連はこれを拒み,41年に入って5年間有効の中立条約締結に応じた。この条約調印の2カ月後ドイツはソ連に攻め込み,日本にも参戦を求めた。松岡は一転して参戦を主張したが,政府は南進論に固まり,中立条約は維持された。ソ連は1945年4月5日中立条約の不延長を予告したが,条約有効中に対日参戦した。
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1941年(昭和16)4月13日,日本・ソ連間に調印された中立条約。松岡洋右(ようすけ)外相は,日独伊三国同盟にソ連を加える構想をもってこの年3~4月に訪欧した。交渉はソ連側の消極姿勢の前に難航したが,最終段階でスターリン首相が介入し,中立条約締結にこぎつけた。内容は第1条で平和友好関係の維持,領土の保全・不可侵,第2条で両国の一方が第三国の軍事行動の対象となった場合,他方が中立を守ること,など。有効期限は5年(満了期限は46年4月)とされたが,ソ連側が45年4月に不延長を通告し,同年8月8日の対日宣戦布告によって失効した。
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…スターリンはソ連の国益のためにこの挙に出たのだが,ドイツがポーランドに侵入すると,ポーランド領の東半分を占領し,ドイツとの間に友好境界条約を結んだ。ドイツとの接近から得た最大の獲得物は,混乱した日本との間に日ソ中立条約を40年に結んだことであったろう。この間フィンランドとの戦争で国境地帯を割譲させ,40年には,旧ロシア帝国領であったバルト海沿岸の3国をソ連邦に併合するなど,強引な安全保障策を追求した。…
…30年代には満州国に駐留する関東軍とソ連軍とのあいだに何回か武力衝突が繰り返された。第2次大戦前夜の41年,それぞれ正面に敵をかかえた両国は日ソ中立条約を結んだものの,大戦末期の45年にソ連は日本に宣戦を布告して数日間兵戈をまじえた。南サハリンと千島列島はソ連軍によって占領された。…
※「日ソ中立条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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