日像(読み)ニチゾウ

デジタル大辞泉 「日像」の意味・読み・例文・類語

にちぞう〔ニチザウ〕【日像】

[1269~1342]鎌倉後期の日蓮宗の僧。下総しもうさの人。通称、肥後阿闍梨あじゃり日蓮日朗にちろうに師事。京都に入り三度追放されたが、妙顕寺を創建し京都布教の基盤をつくった。著「秘蔵集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「日像」の意味・読み・例文・類語

にち‐ぞう‥ザウ【日像】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 日にかたどったもの。⇔月像
    1. [初出の実例]「その東に日像の幢」(出典:御代始鈔(1461頃)御即位の事)
  2. [ 2 ] 鎌倉末・南北朝時代の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開創者。別名は経一麿、号は龍華院、通称は肥後阿闍梨下総千葉県)の豪族平賀忠晴の子。日朗の弟。日蓮、日朗に従い、永仁二年(一二九四)に入洛後は、たびたび京都を追われながら大いに宗義を広めた。著書に「三秘蔵集」「宗旨弘通鈔」など。文永六~康永元年(一二六九‐一三四二

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改訂新版 世界大百科事典 「日像」の意味・わかりやすい解説

日像 (にちぞう)
生没年:1269-1342(文永6-興国3・康永1)

鎌倉・南北朝期の日蓮宗の僧。肥後阿闍梨(あじやり),肥後房ともいう。日蓮宗を最初に京都にひろめ,京都妙顕寺開山。下総国平賀の豪族平賀忠晴の子。1275年(建治1)日朗の門に入り,のち身延に登って晩年の日蓮に師事して行学に励んだ。日蓮臨終のとき,京都弘通(ぐづう)と宗義の天奏を委嘱され,ついに94年(永仁2)宿願の上洛弘通を開始した。しかし,その初期は山門などの反発が激しく,朝廷から3度も洛外追放の処分を受けた。この迫害にもめげず,洛中の商工人層にしだいに信者を得,1321年(元亨1)弘通の勅許を受けて妙顕寺を開創した。建武新政とその後の政局激動も巧みに生き抜き,妙顕寺は1334年(建武1)後醍醐天皇から勅願寺に指定され,また一乗円頓の宗旨の公認,すなわち独立した一宗として日蓮宗の公認を受けた。ここに,日蓮の段階では東国だけの地方小教団にすぎなかった日蓮宗は,中央政府公認の独立宗派となり,全国に教線をのばす契機が開かれ,日像の功績は大きかった。妙顕寺は1336年足利将軍家祈禱所,翌年北朝光厳院祈願所となり,公武政権の間に確固たる寺基を占めた。洛中・洛外で弘通すること半世紀,妙顕寺を四条櫛笥(くしげ)の1町四方の地に移転させた翌年の1342年(興国3・康永1),日像は同寺を弟子大覚に譲って入滅した。後年,宗内でその功をたたえて〈洛陽開山〉と尊称し,また1358年(正平13・延文3)菩薩号を勅許され,〈日像菩薩〉と呼ぶ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日像」の意味・わかりやすい解説

日像
にちぞう
(1269―1342)

鎌倉末~南北朝時代の日蓮(にちれん)宗の僧。下総(しもうさ)国(千葉県)の人。日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨(ひごあじゃり)と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。7歳のとき日朗(にちろう)に従って出家し、身延(みのぶ)に隠棲(いんせい)した日蓮のもとで修学する。1293年(永仁1)に日蓮の遺志を継いで京都伝道を志して出発し、北陸を経由して入洛(にゅうらく)。京都では、柳酒屋仲興(やなぎざかやなかおき)らをはじめとする新興の商工業者に教えを広めたが、三度にわたって追放の憂き目にあう。しかし、建武(けんむ)新政の動乱の渦中にあって、洛中に構えた妙顕寺は、後醍醐(ごだいご)天皇の綸旨(りんじ)によって勅願所となり、さらに足利(あしかが)将軍家の祈願所となる。弟子の大覚(1297―1364)が山陽地方に伝道したのをはじめ、教線は畿内(きない)と周辺部に広がり、京都日蓮宗の発展の礎(いしずえ)を築いた。

[中尾 尭 2017年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「日像」の解説

日像

没年:康永1/興国3.11.13(1342.12.11)
生年:文永6(1269)
鎌倉後期の日蓮宗の僧。日蓮宗最初の京都弘通(布教)を行い,妙顕寺を拠点に教団発展の礎を築いた。京都妙顕寺開山,肥後房,肥後阿闍梨と号す。下総国(千葉県)平賀氏の出自。7歳で日朗に師事。のち身延の日蓮の弟子となり経一丸を賜り本尊を授与される。日蓮の滅後,肥後房日像と名乗り日朗のもとで研鑽。永仁1(1293)年,日蓮の遺命を奉じて京都布教を決行,日蓮の遺跡を巡拝しつつ北陸を経て同2年に上洛した。その途次,能登の真言僧を帰伏させ日乗と名乗らせた。上洛後,京都の有力町衆を信徒と化したが,叡山などの圧力も強まり,徳治2(1307)年の土佐配流をはじめとし翌3年の紀伊流罪,元亨1(1321)年の洛内追放に至る3度の弾圧を受けた。これを三黜三赦と呼んでいる。 その間,迫害にめげず延慶4(1311)年に綾小路大宮に造営していた法華堂を元亨1年に今小路に移して妙顕寺を開創。元弘3(1333)年,護良親王の令旨により後醍醐天皇の京都還幸を祈り,翌建武1年に妙顕寺を勅願寺とするという後醍醐天皇の綸旨を得た。東国だけの小教団は,ここで,中央政府の公認を受けた。次いで建武3(1336)年には,室町将軍家・北朝光厳院の祈祷所となるなど,妙顕寺は公武社会に不動の地位を占めた。暦応4(1341)年,光厳院の院宣を受け寺地を四条櫛笥西頬に賜って,妙顕寺をそこに移転。妙顕寺の流れを四条門流と呼ぶゆえんである。康永1(1342)年後事を弟子大覚に託し入寂。延文3(1358)年大覚の祈雨により,日蓮に大菩薩,日朗,日像に菩薩号を賜った。<参考文献>立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上

(佐々木馨)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日像」の意味・わかりやすい解説

日像
にちぞう

[生]文永6(1269)
[没]興国3=康永1(1342).11.
鎌倉時代の日蓮宗の僧。7歳で出家。兄の日朗に従って身延山に登り,日蓮から経一麿の名を授かった。日蓮の没後剃髪して日像と称し日朗に仕えていたが,のち日蓮の遺跡を巡拝。永仁2 (1294) 年京都に出て法華宗を宣揚した。諸宗の僧徒に憎まれ3度京都を追われたがそのたびに許され,嘉暦1 (1326) 年京都における日蓮宗の最初の寺院妙顕寺を創設,のち後醍醐天皇から寺領を賜わり,勅願寺に列した。著書は『秘蔵集』『宗旨弘通鈔』『法華講式』『本尊相承』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日像」の解説

日像
にちぞう

1269~1342.11.13

鎌倉後期の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開祖。肥後房・肥後阿闍梨(あじゃり)と号す。四条門流派祖。出自は下総国の平賀氏。日朗に師事,のち日蓮の弟子となり経一丸の名を得て,本尊を授けられる。1293年(永仁元)日蓮の遺命により京都布教を決行。上洛後,京都の有力町衆を信徒としたが,比叡山などの圧力をうける。その間,1321年(元亨元)妙顕寺を今小路に開創。以後,後醍醐天皇の京都還幸を祈り,北朝光厳(こうごん)上皇の祈祷も行い,公武の信仰を集めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日像」の解説

日像 にちぞう

1269-1342 鎌倉-南北朝時代の僧。
文永6年生まれ。日蓮宗。四条門流の祖。下総(しもうさ)平賀(千葉県)の人。日朗,日蓮に師事。日蓮の遺命により京都布教につとめたが,他宗の圧迫により3度京都を追放される。元亨(げんこう)元年京都に妙顕寺をひらき,建武(けんむ)元年同寺は勅願寺となった。康永元=興国3年11月13日死去。74歳。俗姓は平賀。通称は肥後阿闍梨(あじゃり)。号は竜華寿院。著作に「法華宗旨問答抄」「本尊相承」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日像」の解説

日像
にちぞう

1269〜1342
鎌倉末期・南北朝時代の日蓮宗の僧
竜華院と号す。下総(千葉県)の人。1293年日蓮宗で初めて京都に布教し,町衆の帰依を得たが,比叡山の迫害をうけ追放された。のち許され京都に妙顕寺を建立した。

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367日誕生日大事典 「日像」の解説

日像 (にちぞう)

生年月日:1269年8月10日
鎌倉時代後期;南北朝時代の日蓮宗の僧
1342年没

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