鎌倉・南北朝期の日蓮宗の僧。肥後阿闍梨(あじやり),肥後房ともいう。日蓮宗を最初に京都にひろめ,京都妙顕寺開山。下総国平賀の豪族平賀忠晴の子。1275年(建治1)日朗の門に入り,のち身延に登って晩年の日蓮に師事して行学に励んだ。日蓮臨終のとき,京都弘通(ぐづう)と宗義の天奏を委嘱され,ついに94年(永仁2)宿願の上洛弘通を開始した。しかし,その初期は山門などの反発が激しく,朝廷から3度も洛外追放の処分を受けた。この迫害にもめげず,洛中の商工人層にしだいに信者を得,1321年(元亨1)弘通の勅許を受けて妙顕寺を開創した。建武新政とその後の政局の激動も巧みに生き抜き,妙顕寺は1334年(建武1)後醍醐天皇から勅願寺に指定され,また一乗円頓の宗旨の公認,すなわち独立した一宗として日蓮宗の公認を受けた。ここに,日蓮の段階では東国だけの地方小教団にすぎなかった日蓮宗は,中央政府公認の独立宗派となり,全国に教線をのばす契機が開かれ,日像の功績は大きかった。妙顕寺は1336年足利将軍家祈禱所,翌年北朝光厳院祈願所となり,公武政権の間に確固たる寺基を占めた。洛中・洛外で弘通すること半世紀,妙顕寺を四条櫛笥(くしげ)の1町四方の地に移転させた翌年の1342年(興国3・康永1),日像は同寺を弟子大覚に譲って入滅した。後年,宗内でその功をたたえて〈洛陽開山〉と尊称し,また1358年(正平13・延文3)菩薩号を勅許され,〈日像菩薩〉と呼ぶ。
執筆者:藤井 学
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鎌倉末~南北朝時代の日蓮(にちれん)宗の僧。下総(しもうさ)国(千葉県)の人。日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨(ひごあじゃり)と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。7歳のとき日朗(にちろう)に従って出家し、身延(みのぶ)に隠棲(いんせい)した日蓮のもとで修学する。1293年(永仁1)に日蓮の遺志を継いで京都伝道を志して出発し、北陸を経由して入洛(にゅうらく)。京都では、柳酒屋仲興(やなぎざかやなかおき)らをはじめとする新興の商工業者に教えを広めたが、三度にわたって追放の憂き目にあう。しかし、建武(けんむ)新政の動乱の渦中にあって、洛中に構えた妙顕寺は、後醍醐(ごだいご)天皇の綸旨(りんじ)によって勅願所となり、さらに足利(あしかが)将軍家の祈願所となる。弟子の大覚(1297―1364)が山陽地方に伝道したのをはじめ、教線は畿内(きない)と周辺部に広がり、京都日蓮宗の発展の礎(いしずえ)を築いた。
[中尾 尭 2017年9月19日]
(佐々木馨)
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1269~1342.11.13
鎌倉後期の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開祖。肥後房・肥後阿闍梨(あじゃり)と号す。四条門流派祖。出自は下総国の平賀氏。日朗に師事,のち日蓮の弟子となり経一丸の名を得て,本尊を授けられる。1293年(永仁元)日蓮の遺命により京都布教を決行。上洛後,京都の有力町衆を信徒としたが,比叡山などの圧力をうける。その間,1321年(元亨元)妙顕寺を今小路に開創。以後,後醍醐天皇の京都還幸を祈り,北朝光厳(こうごん)上皇の祈祷も行い,公武の信仰を集めた。
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