Yahoo!辞書

kotobank > 有間皇子とは

 

有間皇子 【ありまのみこ】

  • 7件の用語解説(有間皇子で検索)

朝日日本歴史人物事典の解説

生年: 舒明12 (640)
没年: 斉明4.11.11 (658.12.11)
7世紀中ごろの皇族孝徳天皇と妃の小足媛(阿倍倉梯麻呂の娘)の皇子。名は父が有間温湯(神戸市)で療養していたときに生まれたからという。大化1(645)年孝徳天皇が即位し,そのただひとりの皇子として皇位継承の可能性が生まれた。しかし皇太子である中大兄皇子(のちの天智天皇)が政治の実権を握り,同5年外祖父左大臣倉梯麻呂が死去し,父も中大兄皇子と不和となって白雉5(654)年死去すると,有間皇子の立場は危ういものとなった。危険を察知し,斉明3(657)年9月,狂気を装い療養と称して牟婁温湯(和歌山県白浜町湯崎温泉)へ行き,帰京後この地の風光をほめて斉明天皇に推奨した。同4年10月天皇一行は同所に行幸,その留守中に有間皇子の謀反事件が起こった。『日本書紀』本文によると,11月3日京の留守官の蘇我赤兄が皇子に,天皇の失政3カ条をあげて謀反を勧めた。皇子は挙兵に応じたが,5日謀議最中脇息が壊れ,それを不吉として,実行延期した。その夜赤兄は皇子の市経の家を囲む一方,天皇に皇子の謀反を報告した。9日皇子と4人の側近は牟婁温湯に送られ,中大兄皇子が謀反の理由を問うと,「天と赤兄が知っているだろう。私は全く知らない」と答えた。11日皇子は藤白坂(海南市藤白)で絞首刑に処され,ふたりの側近は斬刑に処せられた。赤兄は処罰されないで,天智天皇時代(662~671)の左大臣となった。『日本書紀』の注に引用されているある書物は,皇子が謀反計画を立てたとする。しかし,『日本書紀』はこの事件を赤兄の謀略として描いている。『万葉集』は皇子が牟婁に護送される途中磐代(和歌山県南部町岩代)で詠んだという「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」ほか1首を載せる。奈良時代この地は歌の名所となり,結び松に寄せて長意吉麻呂,山上憶良らが歌を詠んでいる(『万葉集』巻2)。
(今泉隆雄)


それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

有間皇子 ありまのおうじ
 
640-658 飛鳥(あすか)時代,孝徳天皇の皇子。
舒明(じょめい)天皇12年生まれ。母は阿倍小足媛(あべの-おたらしひめ)。斉明天皇4年蘇我赤兄(そがの-あかえ)の勧めで謀反を決意。のち中止するが,赤兄の裏切りで捕らえられる。皇太子中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)の尋問をうけたのち,同年11月11日紀伊(きい)藤白坂(ふじしろさか)で処刑された。19歳。この事件は中大兄皇子の謀略とする説がある。護送されるときの歌2首が「万葉集」巻2におさめられている。
格言など】天(あめ)と赤兄(あかえ)と知らん。吾(おのれ)全(もは)ら解(し)らず(中大兄皇子の尋問に答えて)

この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ありまのみこ【有間皇子】  640‐658(舒明12‐斉明4)

孝徳天皇の皇子。658年,謀反の罪により年19歳で処刑され,その事件にさいしてよんだ歌2首が《万葉集》に残されている。母は左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘小足媛(おたらしひめ)で,有間の名は父の皇子時代,有間の湯(有馬温泉)にいたおりに生まれたことによるらしい。父帝孝徳は大化改新時に即位したが,政治的実権を握るのは皇太子の中大兄(なかのおおえ)皇子(のちの天智天皇)であり,天皇との間に軋轢(あつれき)も生じていた。


All Rights Reserved. Copyright(C)2013, Hitachi Solutions Business, Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

有間皇子
ありまのおうじ

[生]舒明12(640)
[没]斉明4(658).10.15. 紀伊
孝徳天皇の皇子。母は左大臣阿倍内麻呂 (倉梯麻呂) の娘小足媛 (おたらしひめ) 。父孝徳天皇のあとをうけた斉明天皇は,宮殿造営など盛ん土木を興して時人の不満を買った。皇子は狂気を装って無関係の立場にいようとしたが,斉明4 (658) 年蘇我赤兄 (あかえ) にはかられて謀反を企てて捕えられ紀伊の藤白坂で殺された。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。


Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

大辞林 第三版の解説

ありまのみこ【有間皇子】
 
(640~658) 七世紀中葉の皇族・歌人。孝徳天皇の皇子。斉明天皇の時,謀反の嫌疑を受け,紀伊国藤白坂で刑死。万葉集巻二所載の短歌二首はその護送途中の作と伝えられる。ありまのおうじ。


(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

有間皇子 【ありまのおうじ】

孝徳天皇の皇子。斉明天皇の失政世人反感を買っていたので,658年蘇我赤兄(そがのあかえ)とともに天皇行幸(ぎょうこう)の留守反乱を計画したが,赤兄のために逆に捕らえられて紀伊国の藤白坂(ふじしろのさか)で絞殺された。 (640-658)
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。


All Rights Reserved,Copyright(C)2013,Hitachi Solutions Business, Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル大辞泉の解説

ありま‐の‐みこ 【有間皇子】
 
[640~658]孝徳天皇の皇子。謀反をはかったとされて処刑された。このときの哀歌2首が万葉集にある。

この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

有間皇子に近い言葉→有間皇子事件|皇子|有馬山・有間山|新潟県上越市有間川|愛知県豊田市有間町|高知県土佐郡土佐町有間|志貴皇子・施基皇子|広島県山県郡北広島町有間|厩戸皇子・廐戸皇子|忍壁皇子

有間皇子の関連情報

ニュース検索

ショッピング検索

「有間皇子」のスポンサー検索

スポンサードリンク

 

ページの先頭へ戻る

キーワード情報キーワード情報

関連キーワード関連キーワード

  • アクセスランキングアクセスランキング

  • 08月20日更新
  • rssrss

  • 今日のキーワード今日のキーワード

  • rssrss

お知らせお知らせ