翻訳|Korean War
韓国と北朝鮮の間で1950年6月25日に勃発。旧ソ連の文書などで北朝鮮が侵攻したとの見方が90年代に固まったが北朝鮮は米韓の侵略だと主張している。米国など16カ国が戦闘部隊を送った国連軍が韓国を、中国人民志願軍が北朝鮮を、それぞれ支援し参戦、53年7月27日に国連軍と中朝の間で休戦協定が締結された。韓国は、自国と国連軍の軍民合わせた死傷・不明者は176万人超と発表。中朝側については327万人超と推計している。北朝鮮は人的被害の規模を明らかにせず、中国は人民志願軍の約19万8千人が死亡したと公表している。(共同)
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大韓民国(韓国),朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)間の武力衝突に起因する国際的紛争。朝鮮戦争は1950年6月25日未明の北朝鮮軍の38度線を越えての南下によって開始された。この攻撃は,その準備,規模,作戦のいずれをとってみても,ソ連による事前の承認と援助なしには実行不可能なものであった。しかし,巨視的にみれば,北朝鮮軍南下の背後には,太平洋戦争末期からの朝鮮半島をめぐる米ソの勢力圏争いと統一朝鮮国家の指導権をめぐる国内的対立が存在し,それらが戦争の勃発に大きな役割を演じたことも否定できない。その意味で,朝鮮戦争は典型的な国際内戦の一つであったといえる。
金日成が戦争を北朝鮮の〈民主基地〉からの民族解放戦争とみなしていたことは明らかであるが,ソ連がそれを支援した理由についてはいまだに定説がない。もっとも説得力のある説明は,前年6月末に完了したアメリカ軍の韓国からの撤退と1950年初めまでに明確になった対日早期講和および日本の軍事基地化の動きがスターリンを朝鮮における軍事的冒険に駆り立てたとする極東戦略説である。しかし,どのような解釈をとるにせよ,それはヨーロッパにおいて失墜した威信(ベルリン封鎖の失敗)の回復,毛沢東に対する立場の強化などの理由と密接に関連していたものと思われる。また,当時のソ連がアメリカとの全面的対決を望んでいなかったことも確実である。北朝鮮軍の南下に対して,トルーマンは従来の朝鮮への軍事的不介入の政策を放棄し,6月27日には海空軍部隊の投入を,また6月30日には地上軍の派遣を命令した。アメリカの参戦は,形式的には〈武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する〉という6月27日の国連安全保障理事会決議に基づくものであり,その軍隊も7月7日の同決議によって国連軍の一部を構成するものとなった。トルーマンはまた朝鮮以外でも,台湾海峡の中立化,フィリピンとインドシナへの軍事援助促進などの措置をとった。
アメリカが朝鮮戦争に介入した理由は軍事戦略的なものであったというよりは,政治戦略的なものであった。第1に,北朝鮮軍の奇襲攻撃がアメリカの最高指導者たちに〈ミュンヘンの教訓〉を想起させ,第3次世界大戦を抑止するためには朝鮮での宥和(ゆうわ)を拒否しなければならないと確信させたこと,第2に,攻撃が国連監視下の選挙で樹立された韓国政府に向けられたものであったために,北朝鮮軍を撃退することによって国際連合の権威を守護しなければならないと考えられたこと,第3に,中国革命の成功につづいて韓国の共産化を座視すれば,アジア地域においてだけでなく全世界的にアメリカの威信が大きく失墜すると判断されたこと,などがその重要なものである。
アメリカ軍の参戦後も,しばらくの間,戦争は圧倒的に北朝鮮軍の優勢のうちに進展し,8月初めには,米韓両軍は半島の南東端に釜山橋頭堡を維持するにすぎなかった。しかし,北朝鮮軍の補給線が伸びきった9月15日,アメリカ軍はマッカーサーの指揮のもとに仁川上陸作戦を敢行し,9月26日には首都ソウルの奪回に成功した。また,アメリカ軍は10月7日には38度線を北上した。アメリカ軍の北上は同日の国連総会決議に基づくものであったが,明らかに当初の戦争目的である〈北朝鮮軍の撃退〉を〈北朝鮮の占領〉へと拡大するものであった。9月初めには,限定戦争の概念を原理的に理解しようとしなかったマッカーサーや政治的な立場から朝鮮統一を強く要求した国務省極東関係者だけでなく,統合参謀本部や大統領までが,〈ソ連や中国の軍隊が介入する兆候または脅威が存在しないかぎり〉という条件のもとで,アメリカ軍の北進を承認していたのである。戦争目的の変更がもたらした事態は11月末の中国人民義勇軍の全面的介入であった。この結果,アメリカ軍は38度線以南への後退を余儀なくされ,1951年1月4日,ソウルはふたたび共産側の占領するところとなった。しかし,アメリカと同じく中国も朝鮮を軍事的に統一する力をもたなかった。これ以後,戦況は二転三転し,同年6月以後,戦線はほぼ38度線沿いに膠着(こうちやく)した。
休戦交渉の直接的契機となったのは6月23日のソ連国連代表Ya.A.マリクの演説であった。しかし,それを可能にしたのは4月11日のマッカーサー解任であった。トルーマンは,鴨緑江(おうりよつこう)以北の爆撃,中国大陸沿岸の封鎖,国府軍の朝鮮への投入など戦争の拡大を主張するマッカーサーを国連軍司令官その他の職務から解任することによって,和平への意思を表明したのである。7月10日に開城で開始され,その後会場を板門店に移した休戦会談は,軍事境界線や捕虜交換の問題で難航し,戦闘が継続するなかで2度にわたって全面的に中断されたが,1953年7月27日に最終的な合意に到達した。しかし,休戦に反対する韓国の李承晩大統領は協定への署名を拒否し,反共捕虜を一方的に釈放することによってそれに抗議した。休戦協定への署名者は金日成,彭徳懐,M.W.クラークである。
朝鮮戦争の歴史的意義について付言するならば,その最大のものはそれが東西冷戦の軍事化と世界化をもたらしたことである。トルーマンは戦争を契機にNSC68(国家安全保障会議文書68号)を承認したが,それは当時130億ドルであったアメリカの年間軍事予算を一挙に350億ドルに増大させ,ヨーロッパからアジアにまたがる反共軍事包囲網の形成を企図するものであった。また,戦争は朝鮮の分断を固定化し,台湾の軍事的解放を不可能にし,その後20年に及ぶ米中対決の原型を形成した。アメリカのベトナムへの介入もその影のもとで実行に移されたのである。さらに,戦争が日本の戦後の歩みに与えた影響も大きかった。それは早期講和と日米安保体制を決定的なものにするとともに,さらにアメリカ軍の日本での緊急調達(特需)は急激な需要増大をもたらし,戦後経済復興の原点ともなったのである。また,自衛隊の前身たる警察予備隊は,朝鮮戦争の開戦直後の1950年8月に創設されている。
→冷戦
執筆者:小此木 政夫
この戦争が南北朝鮮にもたらした物的・人的被害は甚大であった。戦線が南は洛東江から北は鴨緑江まで,あたかもローラーをかけるように移動したため,軍事施設・戦略拠点のみならず,民間施設や民衆が蒙った直接の被害は大きい。正確な数量的推計は困難だが,当時の国民経済規模で計30億ドル,工業部門だけで1億1500万ドル,建造物の40%,生産設備の30~75%(部門によるばらつきがある)が破壊されたとの数字がある。人的被害はさらに深刻で,同族同士が相争った戦争は,朝鮮人だけで南北計126万人に及ぶ死者を出し,別離・死亡・孤児の大量発生などにより現在も1000万人(南北総人口の1/5)といわれる離散家族を生みだした。同時に戦争以前からおしすすめられた南北両国家の異質化は,この戦争をへて決定的なものとなった。南で非合法化されていた共産主義者や左派人士は越北し,北の地主やキリスト者は大量に越南したことも関連して,休戦ラインをはさんだ南北の不信・憎悪は増幅された。北朝鮮は南朝鮮を〈米帝の占領下〉にあるものとみなし,また李承晩政権下の韓国は朝鮮民主主義人民共和国を〈北傀〉とよんで中ソの傀儡とみなし,滅共・北進統一を叫ぶなど,相互不信はぬぐいがたいものとなった。戦争がもたらした南北分断体制の固定化をいかに克服するかが,以後の民族的課題となっている。
執筆者:鶴田 文夫
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1950年6月25日から53年7月27日まで、3年余にわたり朝鮮半島のほとんど全域を戦場化して戦われた大規模な国際紛争。朝鮮動乱あるいは韓国動乱ともいう。韓国(大韓民国)ではこれを「六・二五動乱」とよび、北朝鮮では「祖国解放戦争」と名づけている。
[川越敬三]
交戦当事国の一方は北朝鮮およびそれを支援して人民志願軍(義勇軍)を派遣した中華人民共和国、他方は韓国およびそれを支援して国連軍を編成したアメリカ中心の西側16か国。ソ連は朝・中側に武器弾薬その他の支援物資を提供したほか、軍事顧問、パイロット、医療部隊などを派遣した。戦場に投入された兵力は朝・中側が約300万人(朝・中各約150万人)、国連・韓国軍側が約260万~270万人(うち韓国軍約200万人)と推定された。国連軍兵力の90%以上は米軍である。国連軍に実戦部隊を派遣した西側16か国は以下のとおり。アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ギリシア、トルコ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、コロンビア、タイ、フィリピン、エチオピアおよび南アフリカ連邦。このほかインド、イタリア、デンマーク、ノルウェーおよびスウェーデンの五か国が医療部隊ないし医療施設を国連軍に提供した。
[川越敬三]
第二次世界大戦直後から急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、朝鮮は南北に分裂し反目しあうことになった。それが遠因となったことは明らかだが、この戦争の直接の原因と戦争の性格については、いまなお多くの議論がある。韓国、アメリカなど西側諸国では一般に、韓国に対する北からの武力侵攻が発端になったとする見解がとられている。北朝鮮ではそれと反対に、同国の打倒をねらったアメリカが韓国政府を唆して引き起こしたと主張している。近年の日本の研究では、北側からの攻撃先行説が有力視されるようになった。すなわち、韓国をアメリカの事実上の植民地とみなした北朝鮮が、南北朝鮮の武力統一を呼号する李承晩(りしょうばん/イスンマン)韓国大統領の先手をとって「南半部解放」の軍事行動を起こし、その限りでは戦争は朝鮮半島における一種の内戦として始まったが、アメリカがこれに軍事介入したことから、大規模な国際紛争に発展したとする見方である。アメリカの軍事介入が、アジアにおける社会主義といわゆる民族解放運動の勢力拡大阻止を目的にして行われたことは確かである。
[川越敬三]
1950年6月25日早朝、北緯38度線を挟んで対峙(たいじ)中の朝鮮人民軍(北)と韓国軍(南)の間に数か所で衝突が起こり、朝鮮人民軍は敗走する韓国軍を追って南下した。トルーマン米大統領はただちに軍事介入を決定して在日米海・空軍、ついで陸軍に出動を命令する一方、国際連合にも介入を働きかけた。ソ連代表不在のまま招集された国連安保理事会は北朝鮮を「平和の破壊者」と非難する決議を採択し(ニューヨーク時間6月25日)、国連加盟諸国に韓国への軍事支援を勧告し(6月27日)、日本駐留米軍のダグラス・マッカーサー元帥を司令官とする国連軍総司令部の設置を決定した(7月7日)。この国連軍は国連憲章第7章に規定された正規の国連軍とは異質のものである。韓国軍は統帥権をマッカーサー総司令官に委譲してその指揮下に入った。トルーマン大統領はまた6月27日、共産勢力の台湾攻撃阻止を理由に米第7艦隊を台湾海峡へ出動させ、同時に左翼ゲリラ鎮圧に手を焼くフィリピン政府と、第一次インドシナ戦争遂行中の南ベトナム駐留フランス軍に対する軍事援助増強を決定した。
朝鮮戦争の戦局にはほぼ四つの段階があった。
(1)戦争勃発(ぼっぱつ)直後の70日間は朝鮮人民軍の圧倒的優勢のうちに進展した。1950年6月28日には韓国の首都ソウルが陥落、国連・韓国軍は9月初めには大邱(たいきゅう/テグ)、釜山(ふざん/プサン)を含む半島南端の狭い一角に追い詰められた。
(2)国連軍は9月15、16両日仁川(じんせん/インチョン)で大部隊の奇襲上陸作戦を行い、大邱地区でも反攻に転じた。国連・韓国軍は10月初めに38度線を突破し、同月19日平壌を占領、一部の部隊は鴨緑江(おうりょくこう)岸まで到達した。
(3)10月25日、中国人民志願軍の大部隊が鴨緑江を越えて参戦し、朝鮮人民軍とともに反撃した。12月4日には平壌を奪回し、翌51年1月4日、ソウルを再占領した。第5回国連総会は2月1日、中国を「侵略者」と非難する決議を採択した。国連・韓国軍は3月14日ソウルを再奪回したが、38度線付近では激闘が続いた。マッカーサー総司令官は中国本土爆撃を独断で主張、4月11日トルーマン大統領によって罷免された。
(4)6月以降戦線は膠着(こうちゃく)し、双方は互いに強固な陣地を構築して激しい消耗戦を繰り返した。国連・韓国軍は8月から11月にかけての「夏季・秋季攻勢」で戦線東・中部山岳地帯の制圧を試みたが、朝鮮人民軍の要塞(ようさい)「1211高地」が2か月余にわたる猛攻に耐えぬくなど頑強な抵抗にあって成功しなかった。翌52年10~11月の国連・韓国軍の大攻勢も同じような結果に終わった。中部の要衝である38度線北方の鉄原(てつげん/チョルウォン)―平康(へいこう/ピョンカン)―金化(きんか/クムホワ)を結ぶ三角地帯の攻防戦はとくに激烈で、「鉄の三角地帯」の激闘とよばれた。この間、北朝鮮各地は砲爆撃にさらされ、細菌弾、ガス弾にもみまわれた。1953年1月に発足したアイゼンハワー米政権は戦局打開のため原爆使用を検討したが、結局使用に踏み切ることは断念した。
[川越敬三]
1951年6月23日、ソ連の国連代表ヤコブ・マリクがラジオ放送で休戦を提案し、これを契機に同年7月10日から開城(かいじょう/ケーソン)で交戦双方による休戦会談が始まった。その後2年間、激しい戦闘が続くかたわらで交渉が断続的に行われ、1953年7月27日、ようやく板門店(はんもんてん/パンムンチョム)での休戦協定調印にこぎ着けた。協定調印者は、一方が朝鮮人民軍最高司令官金日成(きんにっせい/キムイルソン)と中国人民志願軍司令員彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)、他方が国連軍総司令官マーク・クラーク。韓国は休戦を不満として調印を拒否した。休戦にはなったものの、戦争の最終処理としての平和条約は締結されないまま今日に至っている。
この戦争での交戦双方の被害は甚大で、国連・韓国軍側の戦死者は韓国軍約42万人、米軍約5万人、その他の国連軍約3000人、ほかに韓国民間人106万余人といわれ、朝・中側は軍要員の死傷者だけで200万人以上と推定された。日本は参戦国ではなかったが、開戦当時まだ占領下にあったため、国土と産業をあげて国連軍の作戦遂行のために使われ、海上輸送や掃海業務に動員された船員のなかから死傷者も出た。また、この戦争に関連して実現した警察予備隊(自衛隊の前身)の発足、左翼運動規制の強化、「戦争特需」による経済活性化などは、戦後日本の政治、経済にとって一つの重大な転機となった。
[川越敬三]
『I・F・ストーン著、内山敏訳『秘史・朝鮮戦争』(1966・青木書店)』▽『D・W・コンデ著、陸井三郎監訳『朝鮮戦争の歴史』(1967・太平出版社)』▽『信夫清三郎著『朝鮮戦争の勃発』(1971・福村出版)』
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1950年6月25日未明,北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍の全面的な武力侵攻によって開始され,米中両軍の介入を招来した国際的内戦。近年公開された旧ソ連機密文書によれば,金日成(キム・イルソン)首相はスターリンの援助および毛沢東の同意を得て開戦に踏み切った。国連安全保障理事会の決議にもとづいてアメリカ軍が介入したため,9月までに戦局が逆転した。しかし,国連軍が鴨緑江に向けて進撃した11月末に中国軍が本格的に介入し,戦局は再逆転した。ソ連空軍も秘密裏に参戦した。51年6月以後,38度線付近で戦線が膠着し,7月には開城で休戦会談が開始され,やがて板門店(はんもんてん)に場所を移した。53年7月に調印された休戦協定には,国連軍司令官,中国・北朝鮮軍司令官が署名した。
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1950年6月から53年7月にかけて朝鮮半島を舞台に,国連軍と北朝鮮・中国軍との間で戦われた戦争。日本の第2次大戦敗戦後,アメリカに占領された北緯38度線以南の地域には48年8月に大韓民国(韓国)が成立,ソ連に占領された38度線以北の地域には48年9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立していた。北朝鮮は全半島の武力統一をはかって50年6月25日開戦。6月28日韓国の首都ソウル陥落。アメリカは国連軍を組織して同年9月15日仁川上陸,9月26日ソウル奪回に成功した。アメリカが38度線突破を企図して10月19日北朝鮮の首都平壌を陥落させると,中国人民義勇軍が参戦して国連軍を再び押しもどした。膠着状態の戦局になお積極方針で臨もうとしていた国連軍司令官マッカーサーは51年4月トルーマン大統領に解任され,代わって就任したリッジウェイのもとで53年7月休戦協定が調印された。戦争発生以来米軍による朝鮮戦争特需,警察予備隊創設,レッドパージなど日本国内の政治にも重要な影響を与えた。
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(2008年)
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…また軍事的措置にそなえて加盟国が提供する兵力や便益の内容を定めた取決めを結ぶ企ては,早くも放棄された。もっとも,1950年の朝鮮戦争の際には,安全保障理事会は第7章の下での平和の破壊と認定し,〈武力攻撃を撃退するために必要な援助〉を韓国に与えることを勧告する決議を採択し,これにもとづいてアメリカを中心とする〈国連軍〉が編制された。このように,安全保障理事会で軍事強制行動に関する決議が採択されたのは,当時ソビエトが,中国代表権問題にからんで,安全保障理事会をボイコットする戦術をとっていた偶然によるものであった。…
…これと同時に〈現代化された陸軍を強化するとともに,空軍および海軍を建設して国防を強固にしなければならない〉と,国を守るにふさわしい国防軍の建設がうたわれた。
[国防軍の建設]
この軍隊の整備・強化に着手した中国にとって,重大な影響を受けたのが朝鮮戦争であった。全中国の統一も完成せず,軍の基盤を整えるいとまもなく,50年10月,〈抗米援朝〉のスローガンのもとに〈中国人民義勇軍〉を朝鮮へ派遣する。…
…彭徳懐が指揮した。1950年6月朝鮮戦争が始まり,初め優勢であった朝鮮民主主義人民共和国軍は9月米軍の仁川上陸作戦で形勢逆転し,国連軍は10月8日,38度線を越え北上,20日には平壌を占領した。これに対し中国は国境に待機させていた第4野戦軍を中心とする精鋭を中国人民義勇(志願)軍として10月25日から国境を越えて進入させ,11月下旬西部戦線の清川江,東部戦線の長津湖の戦で米第8軍を中心とする国連軍主力を包囲し,得意の人海戦術で徹底的に撃滅した。…
…豊臣秀吉の侵略時には,これに対抗するため100城以上の山城が築城され,義兵の根拠地にもなった。近代の抗日義兵闘争や現代の朝鮮戦争でも,これらの山城が使用されていることは,注目すべきであろう。山城(さんじょう)
[言語と文字]
原始時代の朝鮮には多くの系統を異にする種族と言語があったが,《魏志》東夷伝によれば,3世紀の朝鮮には濊(わい),貊(はく),韓,倭の4民族がおり,その後しだいに南部の韓族が勢力を得,新羅の統一によって朝鮮民族の形成基盤ができた。…
…正式名称=朝鮮民主主義人民共和国Democratic People's Republic of Korea面積=約12万2300km2人口(1996)=約2390万人首都=平壌P‘yŏngyang(日本との時差なし)主要言語=朝鮮語通貨=ウォンWŏn1948年9月9日に北緯38度線以北に平壌で創建された社会主義国家。朝鮮戦争(1950‐53)後は休戦ライン以北を支配領域としており,9道19市144郡からなる。1930年代中国東北で展開された抗日武装闘争の革命伝統を受けつぎ,朝鮮労働党をひきいる金日成を建国以来の指導者として,自主独立の姿勢で一貫してきた。…
…特殊需要special procurementの略語。通常,1950年6月に勃発した朝鮮戦争に関連して発注された戦時の特殊な軍事需要(朝鮮特需)をいう。狭義には〈国連軍(主として在日米軍)が特需契約に基づいて調達する物資およびサービスの代金〉を呼び,広義には〈前記のほか日本に駐留する外国軍隊の消費(円セール)ならびに外国関係機関の支出に伴う受取り〉をも含む。…
…
[軍事的緊張]
米ソ間の,あるいは東西両ブロック間の対立は,厳しい軍事的緊張を伴うものであった。実際,朝鮮戦争のように軍事的対立が戦争に転化した場合もあったし,キューバ危機のような〈核戦争〉が勃発する危険をはらんだ国際危機がいく度となく存在した。その原因としては,次の三つをあげることができる。…
※「朝鮮戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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