末崎村(読み)まつさきむら

日本歴史地名大系 「末崎村」の解説

末崎村
まつさきむら

[現在地名]大船渡市末崎町

東・北は大船渡湾、南は門之浜かどのはま湾などに面し、西は箱根はこね山・飛定地ひじようち山を越えて小友おとも村・勝木田かつぎだ(現陸前高田市)北西の一部が大船渡村に接する。天正一六年(一五八八)六月二日付鈴木彦太郎宛の葛西晴信知行宛行状(胆沢鈴木文書)には、浜田安房守の反乱の際、彦太郎は「気仙之勇者近藤法師」を打取る軍功を立てたとある。この近藤法師は当村細浦ほそうらの近藤家(屋号大屋)の出身と伝え、同家は元禄一二年(一六九九)頃と文化―文政(一八〇四―三〇)頃村肝入を務めていた(「近藤家家譜」近藤文書など)

寛永一九年(一六四二)の末崎村検地帳(末崎村誌)では田二三町五反余・代二六貫四〇七文、畑一六一町七反余・代三五貫五文、ほかに一四軒分畑七町二反余、本百姓四五、ほかに内の者六。正保郷帳では田二六貫四〇七文・畑三五貫一七文、松山と注記される。宝永二年(一七〇五)人数改によれば総人数一千四一八、鉄砲五(気仙史料)。「封内風土記」の家数約二八九、小川原・石浜いしはまとまりたいら・細浦の小名をあげる。元禄三年の本判一三枚一匁五分二厘八毛(気仙史料)。同八年の願書(吉田大肝入文書)によれば、石浜塩釜二勺があり、大船渡村の御塩方役人の支配を受けるとある。塩釜は石浜の二基のほか、小細浦こぼそうらのなぶりや釜場、門之浜釜の脇かまのわき釜場・白浜しらはま釜場、泊里とまり釜の脇釜場にもそれぞれ一基があり、いずれも素海水煎熬塩場であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android