奈良市東部、奈良公園の北東部に位置する。華厳宗大本山。本尊は銅造盧舎那仏坐像(国宝)で、俗に「奈良の大仏」といわれている。東大寺の称号は、平城外京すなわち平城宮東方に建立された官大寺という意味から称せられ、まま東寺ともよばれた(天平勝宝二年一二月二三日「造東寺司解案」正倉院文書)。奈良時代の官大寺の筆頭、南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一つであった。平安時代以降、数度の火災で七堂伽藍などは焼亡したが、再興や新建されたものがあり、現在東方より法華堂(羂索堂・三月堂とも、国宝)、二月堂・法華三昧堂(四月堂、たんに三味堂とも)・法華堂北門・
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
当寺の起源は天平一七年(七四五)五月に近江
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺,恒説華厳寺,金光明(こんこうみよう)四天王護国寺,総国分寺などの別称がある。東大寺の寺号は748年(天平20)9月に初見し,ときに東寺とも称せられたが,平城京の東方に造建された大寺であることに由来する。南都七大寺,十三大寺,十五大寺の一つ。
743年(天平15)10月15日,聖武天皇は《華厳経》の教理に基づき動物,植物までも含む共栄の世界を具現するため,国家権力と国民の助援により,盧舎那(るしやな)大仏像の鋳造を発願し,光明皇后もこれをすすめたと伝える。最初は近江国(滋賀県)信楽(しがらき)の甲賀寺において工事が開始され,行基は弟子を率いて諸国に勧進を始めたが,745年5月紫香楽宮(信楽宮)からの平城還都にともない,平城京東山のもと金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り,のちに造東大寺司に発展した金光明寺造仏所の手により工事が進められ,747年9月から749年(天平勝宝1)10月に至る歳月と8度の鋳継ぎにより,像高5丈3尺5寸といわれる巨像が完成した(大仏)。大仏殿の建立も鋳造の進捗とともに始められたようで,殿内には尼信勝・善光発願の像高3丈の乾漆の両脇侍像や,六宗の仏典を納めた絵厨子6基も納置され,752年4月9日に盛大な開眼供養会が行われた。聖武上皇に代わって開眼師にはインド僧菩提僊那(ぼだいせんな),講師は隆尊,唐僧道璿(どうせん)が咒願師,物故していた行基に代わって高弟景静が都講に起用された(大仏開眼)。金鐘寺以来当寺の建立に尽力した良弁(ろうべん)は,同年5月に東大寺別当に補せられ,諸大寺の別当職の先例を開いた。中世には発願聖武天皇,開眼師菩提僊那,勧進行基と良弁を四聖と称し,4人の協力による創建とみて,四聖建立の伽藍ともいわれた。造営をつかさどった造東大寺司は四等官により構成され,工事に名を伝えた工匠として大仏師国中連公麻呂,大鋳師高市大国・真麻呂・柿本男玉,大工(おおいたくみ)猪名部百世・益田縄手や仏師李田次麿などが有名で,公民の力役による労働力と,信仰により自発的に奉仕した者も多かったことは《造寺材木知識記》で判明する。以後,789年(延暦8)3月造東大寺司が廃止されるまで諸伽藍の建立が行われた。当寺の造営は律令国家と古代天皇制の最盛期に国力を傾けて行われた大事業であったため,国民生活をおびやかし,律令制の衰退の一因ともなった半面,国際的な洗練された天平文化を創造した。
平安時代になると855年(斉衡2)5月の地震で大仏の頭部が墜落し,861年(貞観3)3月に修理完成して開眼供養が行われ,917年(延喜17)12月には僧坊,講堂が焼失し,講堂は935年(承平5)5月に再建,934年10月には西塔および回廊が雷火で焼けた。一方,821年(弘仁12)2月には灌頂道場として空海が真言院を創設したのをはじめ,聖宝による三論・真言兼学の東南院,光智による華厳・真言兼学の尊勝院や念仏院,良弁堂,知足院なども創建された。1180年(治承4)12月平重衡の兵火で奈良時代以降の諸堂,坊舎などはほとんど類焼し,重源(ちようげん),栄西,行勇など造東大寺大勧進上人によって復興が続けられた。ことに後白河上皇を中心とする院や宮廷・公卿の援助,源頼朝を頂点とする武家などの助力により造営が行われ,教学,法会などの復興が行われた。再興なった戒壇院は,1446年(文安3)1月に講堂,戒壇堂などすべてが焼亡したが,のち再興された。しかし1508年(永正5)3月に炎上した講堂,三面僧坊は復興できず,以後子院の建立を促すことになった。
1567年(永禄10)10月に三好・松永両氏の兵火で再度大仏殿をはじめ戒壇堂などを焼失し,その復興は1684年(貞享1)から竜松院公慶・公盛により行われた。1709年(宝永6)3月に大仏殿落慶供養,16年(享保1)9月には大仏殿中門,回廊がようやく造立された。現在の大仏殿,回廊などはこの時代のものであるが,1909年より大仏殿解体修理を行い,15年5月に落慶法要を,さらに74年6月から昭和大修理が行われ,80年10月に落慶供養が執行された。
六宗の学僧を教育育成した当寺は,平安時代に真言・天台二宗を加えて八宗兼学を目標としたが,なかでも平安時代では明一,法蔵,聖宝,光智,観理,奝然(ちようねん),永観,覚樹などがあり,鎌倉時代以降では弁暁,宗性,凝然(ぎようねん),志玉,英憲などが傑出している。
奈良時代にあっては最大限の庇護を受け,寺封5000戸,墾田4000町を経営の基礎としたが,平安時代に至って新薬師寺や東寺,西寺に封戸が割封され2700戸となり,漸次荘園に変質していった。しかし律令制の崩壊とともに荒廃するものが多く,998年(長徳4)の〈諸国諸庄田地目録案〉によると,越前国の9荘,730町余の田地は荒廃に任されていたし,摂関家を背景とした興福寺の侵略,平氏一門による寺領の押領などのほかに,別当・三綱が4年ごとに交替するため一貫した寺領経営が困難であったことや,国家機構の変質に対応しえない経営機構の欠陥により衰退を早めた。しかし一方では,伊賀国黒田荘の出作地について寺僧覚仁の国衙との論争は有名で,250町に及ぶ黒田荘が確保され,あるいは筑前国観世音寺,大和国崇敬寺の末寺化と並行して両寺の寺領を支配するなど,財源の確保を計った。鎌倉時代には周防国が当寺復興の造営料国とされ,ときに多少の変遷があったが1000石の年貢が寄せられ,幕末まで重要な財源の一つとなった。1214年(建保2)5月の〈寺領庄々近年田数所当注進状〉によると荘園は10ヵ国30荘に及び,室町時代に及んでその多くは退転崩壊,また堺,兵庫などの関銭の収入もとだえ,1595年(文禄4)9月の検地では大和国櫟本(いちのもと)村で2000石の朱印地,江戸時代に至って2210石余,1695年(元禄8)2月に500石の加増が認められ,長州藩からの1000石をあわせて3710石余が経済的基盤となり,明治に及んだ。
明治維新は当寺にも多大の影響を与え,廃絶した子院も多く,1872年(明治5)に東南院文書を,さらに尊勝院聖語蔵(経蔵)を皇室に献納したり,境内の一部を売却して経営維持に当たったりした。小宗派のため一時京都知恩院末となり,1886年独立,華厳宗総本山となる。
執筆者:堀池 春峰
8世紀に官の大寺として造立された東大寺は,1180年,1567年の2度の大きな兵火を受け,そのほか落雷や失火によっても貴重な建築や文化財が幾度か失われている。しかし今日なお多くの文化財を有し,とりわけ12世紀末と18世紀初めの復興もあって,創建時の奈良時代,復興時の鎌倉時代,江戸時代の優れた文化財を残している。
(1)奈良時代 建築では法華堂(三月堂),北西の門にあたる転害(てがい)門,正倉院ほか数棟の校倉(あぜくら)がある。法華堂は古く羂索堂とも呼ばれ,正堂と礼堂(らいどう)を並べる双堂(ならびどう)であったが,南側の礼堂は鎌倉中期に再建され,両堂をつないで一棟とされた。このため正堂部分は和様,礼堂部分は天竺様によるが,両堂はきわめて自然に連絡されている。彫刻では法華堂に本尊不空羂索観音をはじめ,梵天・帝釈天,四天王,金剛力士の乾漆像群,また執金剛神,日光・月光菩薩,吉祥天・弁才天の塑像群がある。戒壇院の塑像四天王も,近世に法華堂から移されたもの。盧舎那仏座像すなわち大仏は,数度の災害で大部分が中世のものであるが,台座蓮弁は奈良時代で,毛彫によって蓮華蔵世界を表す(華厳経美術)。このほか灌仏会に用いた誕生釈迦立像および灌仏盤,大仏殿(金堂)前庭に立つ金銅八角灯籠,梵鐘などがある。このうち八角灯籠は火舎(ほや)の八面に宝相華文の透彫と,半肉彫の唐獅子,音声菩薩を刻む。また梵鐘は752年(天平勝宝4)の鋳製で,高さ386cm,径271cmの巨鐘。工芸では〈金光明四天王護国之寺〉と刻まれた西大門勅額,金堂鎮壇具,開眼供養会所用の伎楽面,花鳥彩絵油色(ゆうしよく)箱,葡萄唐草文染韋(そめかわ)などがある。書では聖武天皇宸筆と伝え〈大聖武〉と称される〈賢愚経〉や〈紺紙銀字華厳経〉断簡(〈二月堂焼経〉とも呼ぶ)などがこの時代のもの。現在,宮内庁所管となっている正倉院の工芸品,聖経,文書類も,本来東大寺のものだが,これらについては〈正倉院〉の項目を参照されたい。また流出して現在はボストン美術館蔵となっている《法華堂根本曼荼羅》は,奈良時代仏画の貴重な遺品である。
(2)平安時代 平安時代は東大寺が国家の後ろだてを失って独自の活動を始める時代だが,残された文化財は多くない。そのなかでも開山堂の良弁僧正座像は優品で,1019年(寛仁3)に始まる良弁忌日の法要と関連がある。このほか彫刻では三昧堂(四月堂)の千手観音像,〈試みの大仏〉とも呼ばれ良弁念持仏と伝える弥勒菩薩座像(奈良国立博物館寄託),二月堂食堂の訶梨帝母(かりていも)座像,明治初期の廃仏毀釈の際,天理の永久寺より移された持国天・多聞天立像がある。絵画では平安後期の作ながら復古的作風の《俱舎曼荼羅図》があり,また《善財童子絵巻》とも称される《華厳五十五所絵巻》,額装の《華厳五十五所絵》はともに12世紀後半といわれる。工芸では聖宝が所持し,その没後,維摩会の必需品となった五獅子如意があり,東大寺における教学の展開を示す遺品となっている。この時代の《東大寺文書》は東南院文書,百巻文書,未成巻文書などからなり,僧侶,法会,荘園経営など寺院社会の様相を物語る。
(3)鎌倉時代 重源を中心に復興が果たされた鎌倉期は遺品も多い。建築では重源によって導入された天竺様(大仏様)の典型である南大門(1199)が代表的。ほかに前述の法華堂礼堂,開山堂,鐘楼,法華堂北門,同手水舎,二月堂閼伽井(あかい)屋,同仏餉(ぶつしよう)屋,同参籠宿所,三昧堂,念仏堂がある。彫刻では南大門に,重源指揮下で運慶,快慶らが造像した金剛力士,宋の工人によると考えられる石像獅子があり,豪壮な門の構成にふさわしい。快慶作では,手向山(たむけやま)八幡旧御神体の僧形八幡神座像,公慶堂の地蔵菩薩立像が残る。このほか俊乗堂の阿弥陀如来などが著名。また俊乗堂の俊乗(重源)上人座像は,重源晩年の姿を写実的に表す鎌倉肖像彫刻の代表作。舞楽面では承元1年(1207)仏師院賢作,正元1年(1259)仏師承順作などの銘をもつものが残る。絵画では《華厳海会善知識曼荼羅》や,1256年(康元1)作の《四聖御影》(行基,良弁,菩提僊那,聖武天皇を描く),嘉祥大師,浄影大師らの祖師像,《東大寺縁起》などがある。これらの絵画は,尊勝院や東南院,戒壇院などを中心として興った教学復興運動と多くの講学活動を反映している。工芸では法華堂前の石灯籠が特筆されよう。これは1254年(建長6)宋人石工の伊行末施入になる。また二月堂修二会(しゆにえ)所用の法具は13~14世紀の銘をもつ。文書は《重源上人勧進状》をはじめとする《東大寺文書》や,宗性の《日本高僧伝要文抄》,凝然の《五十要文答加塵章》など数多く,中世東大寺の教学,経済のみならず,その荘園や社会を知るうえにも貴重な史料が残されている。
(4)室町時代 建築では大湯屋があり,他の文化財も法華堂の大黒天立像,不動明王像,戒壇院の地蔵菩薩,また南都絵所の絵師による《大仏縁起絵巻》《二月堂曼荼羅図》など遺品は数多いが,時代相,地域相はよく表すが目だった作品はない。
(5)江戸時代 松永久秀による焼亡から立ち直るには長い歳月を要したが,17世紀後半から18世紀にかけての復興で,二月堂,大仏殿などが再建され,大仏もよみがえった。復興に大きな足跡を残した公慶上人座像,大仏殿上棟式所用の工匠具,《大仏開眼図》《大仏殿落慶供養図》など再興にかかわる優品が多い。
執筆者:山岸 常人
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奈良市雑司(ぞうし)町にある華厳(けごん)宗の大本山。大華厳寺、金光明四天王護国寺(こんこうみょうしてんのうごこくじ)などとも称する。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)で、奈良の大仏として有名。奈良時代の創建。『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の思想を根幹とした、741年(天平13)3月24日の詔(みことのり)に基づいて設置された全国国分寺の中心となって、総国分寺とも称された。大仏造顕(ぞうけん)の目的は、『華厳経』で説く理想の世界、すなわち蓮華蔵(れんげぞう)世界をこの世に実現しようとしたものであり、さらに日本の文化を世界に示そうとするものであった。東大寺の名称は、平城京の東にある大寺(おおてら)という意味に由来する。南都七大寺の一つ。
[平岡定海]
この寺は聖武(しょうむ)天皇の発願で、光明(こうみょう)皇后の勧めによって創建されたといわれている。743年10月15日に盧舎那仏造顕の詔が発せられ、詔に、「大山を削りて、以(もっ)て堂を構え、広く法界に及ぼして、朕(ちん)が知識となす」とあり、盧舎那仏造像の本願に基づいて東大寺が創建されたのであった。最初は近江(おうみ)国(滋賀県)の紫香楽宮(しがらきのみや)の近くで大仏を鋳造しようと計画したが、目的を果たせず、平城京の東の山麓(さんろく)に移して747年造像を始めた。大仏造営の詔が発せられた年、行基(ぎょうき)は大仏造営勧進(かんじん)の大役を命ぜられ、すでに76歳の高齢であったが、弟子らを率い勧進に奔走した。大仏は前後8回にわたって流し込みを行い、749年(天平勝宝1)についに完成した。大仏鋳造の方法は、おそらく当時盛んに行われていた蝋(ろう)型だといわれている。大仏鋳造に用いた資財は、銅13万3110貫、錫(すず)2271貫、練金117貫、水銀660貫、炭1万6656石といわれており、まったくの国家的大事業であった。
この巨大な大仏の開眼供養(かいげんくよう)は752年4月9日に聖武太上(だじょう)天皇、孝謙(こうけん)天皇、光明皇太后、橘諸兄(たちばなのもろえ)らが参加し、はるばるインドから訪れた菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼導師として盛大に行われた。現在の大仏は二度の兵火による炎上で青銅色となっているが、もとは仏身が金色に輝き、頭の螺髪(らほつ)は紺青(こんじょう)、唇は赤色などで、大理石の二重の蓮台(れんだい)の上に5丈3尺5寸(約16メートル)の坐高(ざこう)をもって安置されていた。現在もこの蓮台の蓮弁に『華厳経』の「蓮華蔵世界海図」を描いた毛彫りが残っている。
この本尊を中心に東大寺が創建され、当寺の建立に尽力した良弁僧正(ろうべんそうじょう)は752年初代別当職に補せられ、彼の師の審祥(しんじょう)によって『華厳経』がこの寺で初めて講ぜられたのである。東大寺では創建に力を尽くした4人、すなわち聖武天皇、行基、菩提僊那、良弁を四聖(ししょう)と称して尊んでいる。757年(天平宝字1)ころまでに南大門、東西両塔院、講堂、三面僧房などが完成して伽藍(がらん)が整ったが、良弁のあと東大寺伽藍の整備と維持にとくに力を尽くしたのは良弁の弟子実忠(じっちゅう)である。また、彼は753年に二月堂修二会(しゅにえ)を初めて修した。
奈良時代の仏教は六宗(華厳・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・三論・成実(じょうじつ)・律)兼学の学派仏教で、東大寺は華厳・三論・倶舎の中心道場であった。773年(宝亀4)良弁の示寂(じじゃく)後、華厳宗の盛大さは、都が平安京へ移されるとともに衰え、810年(弘仁1)空海が第14代東大寺別当に任ぜられてより真言(しんごん)宗の勢力が浸透した。彼は、822年2月、東大寺に灌頂(かんじょう)道場を建立し、鎮護国家のため息災増益(そくさいぞうやく)の法を修した。これが東大寺真言院の始まりである。しかし、この寺は八宗兼学の寺院であったから、平安時代には華厳宗を学ぶための尊勝(そんしょう)院、三論宗・真言宗を学ぶために聖宝(しょうぼう)(醍醐(だいご)寺開山)が開いた東南院、法相宗の道場の知足(ちそく)院、律宗のための戒壇(かいだん)院などがあり、東大寺は仏教教学研究のための南都での中心道場であった。
東大寺は奈良時代には越前(えちぜん)国(福井県)や伊賀国(三重県)などに多くの荘園(しょうえん)を保有し、中世では伊賀国黒田荘(しょう)、美濃(みの)国(岐阜県)茜部(あかなべ)荘・大井荘などが有名であった。
平安時代になると、855年(斉衡2)大地震で大仏の頭部が落ちるなど損傷がみられる。伽藍についても、917年(延喜17)に僧坊と講堂を炎上、934年(承平4)には西塔を雷火によって焼失、962年(応和2)には南大門が倒壊した。さらに1180年(治承4)平重衡(しげひら)の南都焼打ちによって東大寺も諸堂のほとんどを焼失した。翌1181年、東大寺再興の詔が発せられ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が造東大寺大勧進職に起用されて再興を図り、源頼朝(よりとも)に願って周防(すおう)国(山口県)を造営料国として用材調達を図った。また、用材運送の必要から備前(びぜん)国(岡山県)野田荘をはじめ、瀬戸内海地域に寺領を拡大していった。また、重源は、宋(そう)の陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、落下した大仏頭部を鋳造し、1185年(文治1)開眼供養が行われた。
鎌倉時代には、伽藍が再興されるに伴って、華厳教学もおこり、尊勝院を中心として、弁暁(べんぎょう)、宗性(そうしょう)、凝然(ぎょうねん)らが輩出して教学復興の機運が高まった。また、別に明恵上人高弁(みょうえしょうにんこうべん)は京都栂尾(とがのお)に高山寺を開いて華厳・真言の道場とした。しかし、南北朝の争乱のとき東大寺は公家(くげ)(東南院門跡(もんぜき)系)と武家(尊勝院系)の2派に分かれて争ったために、寺内も荒廃し、さらに1567年(永禄10)には松永久秀(ひさひで)と三好(みよし)三人衆との争いに巻き込まれて大仏殿が炎上し、江戸中期まで露座の大仏と化した。1688年(元禄1)に公慶上人(こうけいしょうにん)が大勧進職となり、江戸幕府の援助のもとに諸国に勧進を始め、5代将軍徳川綱吉(つなよし)、その生母桂昌院(けいしょういん)らの援助を得て大仏殿再建が進められ、1692年に現在の大仏殿が落成した。
明治維新の結果、いままでの3500石の知行(ちぎょう)も消滅し、大仏殿の修理が不可能となったが、1898年(明治31)には政府の援助で修理が完成した。また、神仏分離により手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を分離し、華厳宗大本山として独立した。1980年(昭和55)には、1973年から始められた昭和の大仏殿大屋根の大修理が完成した。
[平岡定海]
現在の境内は、大仏殿を中心に、南大門、鐘楼(しょうろう)、俊乗堂、開山堂、法華堂(三月堂)、二月堂、灌頂堂(勧学院)、戒壇院、転害(てがい)門などの建造物が建ち並んでいる。また、大仏殿の北方(裏手)には正倉院、東方には手向山八幡宮がある。諸堂内には、盧舎那仏をはじめとして多数の国宝・国重要文化財の彫刻を蔵している。また、絹本着色倶舎曼荼羅(ぐしゃまんだら)図、紙本着色華厳五十五所絵巻、『賢愚経(けんぐきょう)』1巻、葡萄唐草文染革(ぶどうからくさもんそめかわ)(以上、国宝)、絹本着色香象大師像、同華厳海会善知識曼荼羅図(ともに重文)、『東大寺要録』など絵画、工芸品、書跡などの文化財も多い。1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は興福(こうふく)寺など8社寺等が一括登録されている)。
東大寺の年中行事のなかでもっとも知られているのは二月堂修二会(しゅにえ)の「御水取(おみずとり)」の行法である。3月1日から二七日(にしちにち)(14日間)、二月堂で修二会の法要を営み、その間「御水取」「達陀(だったん)秘法」などが行われる。そのほか大仏殿で行われる正月7日の修正会(しゅしょうえ)、7月28日の解除会(けじょえ)なども代表的な行事である。
[平岡定海]
東大寺領は、
〔1〕墾田を中心とする奈良時代の古代北陸系荘園の形成
〔2〕平安時代から室町時代に至る
〔ア〕封戸(ふこ)の荘園化
〔イ〕中世的畿内(きない)型荘園の崩壊と近世的港湾収益の追求
〔3〕近世における石高(こくだか)制への移行
の諸段階を経て、変遷していった。奈良時代には、越前国(福井県)道守(ちもり)荘、桑原(くわばら)荘などの寺領が成立し、平安時代では、東大寺造営の材木搬出のために設定された伊賀国(三重県)の板蠅杣(いたばえのそま)、玉滝(たまたき)杣などを中心に発生した同国黒田荘、玉滝荘がある。ことに大和(やまと)国(奈良県)では、散在的な荘田の集積によって荘園が成立した。大仏御仏聖白米(ごぶつしょうはくまい)免田として櫟(いちい)荘、小東(こひがし)荘などがあり、大仏仏聖香菜(こうな)免田として和邇(わに)荘、大宅(おおえ)荘などがあり、また大仏灯油料を差し出す御油免田としての高殿(たかどの)荘、西喜殿(にしきどの)荘などがあった。
平安末期、1180年(治承4)の東大寺炎上後、寺領の減少は甚だしく、荘園の総面積は約2500町で、平安初期の4300余町に対して約半分となってしまった。そこで重源は平家の没官(もっかん)領の獲得と周防国の知行国(ちぎょうこく)化に成功し、瀬戸内地域の確保に努めた。安土(あづち)桃山時代の太閤(たいこう)検地の結果、寺領支配は減少して石高制が実施され、寺領は江戸時代には知行高3500石に定められた。もともと国家的寺院であったのが、時代の変遷とともに地方寺院として縮小していったのである。
[平岡定海]
『筒井英俊校訂『東大寺要録』(1982・国書刊行会)』▽『仏書刊行会編『東大寺叢書』全2巻(1978・第一書房)』▽『石田茂作著『東大寺』全2巻(1976・講談社)』▽『奈良六大寺大観刊行会編『東大寺』(『奈良六大寺大観9~11』1979・岩波書店)』▽『東大寺教学部編『東大寺』(1973・学生社)』▽『平岡定海著『東大寺辞典』(1980・東京堂出版)』▽『田中義恭著『東大寺』(1980・小学館)』
金光明(こんこうみょう)四天王護国之寺・総国分寺・大華厳寺とも。奈良市雑司町にある華厳宗総本山。南都七大寺の一つ。前身は,聖武天皇の皇子基王(もといおう)のためにたてられたと伝える金鐘(こんしゅ)寺。744年(天平16)近江の紫香楽(しがらき)で着手された大仏造営が,翌年の平城還都にともない,金鐘寺の寺地で継続されることとなり,あわせて東大寺の造営が推進された。752年(天平勝宝4)大仏開眼供養が盛大に修され,当寺の創建に尽力した良弁(ろうべん)が別当に補任された。以後も造営は造東大寺司により継続された。754年には鑑真(がんじん)が当寺で聖武上皇や孝謙天皇らに授戒し,翌年には戒壇院(かいだんいん)が設置された。756年,聖武上皇が没すると,光明(こうみょう)皇太后が遺品を当寺に施入,その一部が正倉院に伝存する。東大寺は,皇室のあつい庇護をうけ,多数の田地などが施入され,また越前・越中などに多くの荘園をもった。寺内では華厳のみならず三論・法相(ほっそう)など南都六宗と称された教学が兼学されたが,平安時代になると真言宗が加わり,真言院や東南院などが寺内に設けられた。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の焼打をうけたが,重源(ちょうげん)が復興にあたった。また1567年(永禄10)にも兵火で大仏殿などが焼失したが,江戸前期に再建され,現在に至る。境内は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…元来仏聖灯油貯備の蔵であるが,歴史上有名な東大寺の油倉は,貯備蔵としてではなく広範な経済活動に従事する寺内機関として注目される。鎌倉前期の東大寺で,欠乏する灯油を旧来の担当者たる御油目代にかわり大仏殿等に供給したのは勧進聖西迎房蓮実であり,その執務所として嘉禎年間(1235‐38)に油倉は成立した。…
…律令制以前より大和南部の磯城,泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植(つげ)を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ,平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主(私領主)も出現したが,その没落後は平安末期にかけて,東大寺,興福寺,春日社,伊勢神宮,摂関家などの所領が数多く立てられた。【勝山 清次】
【中世】
伊賀国4ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は11世紀末以降,平正盛,忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり,平家の一族・郎等が勢力を築いていた。…
…日向大隅の乱の鎮定に協力し,また古くから対新羅政策などで朝廷の崇敬をうけたとみられ,奈良時代には鎮護国家の神として厚い崇敬をうけ,737年(天平9)新羅の無礼を奉告し,740年藤原広嗣の乱の鎮定を祈願した。東大寺大仏鋳造に際しては八幡神の神託により黄金を得たとされ,東大寺の守護神として神体は奈良に移され,749年(天平勝宝1)八幡大神は一品,比咩(ひめ)神は二品の神位をうけた。道鏡の事件(宇佐八幡宮神託事件)の際には,769年(神護景雲3)和気清麻呂が参宮して神託をうけた。…
…絵画における宅磨派はのちに仏師としてもこの地方を中心に活躍する。
[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。…
…伊賀国名張郡にあった東大寺領荘園。10世紀中葉,東大寺は寺領板蠅杣(いたばえのそま)の四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外の宇陀・名張両川左岸の山麓地域を領有。…
…当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。中央から除外された慶派の運命を変えたのは,治承の南都焼亡(1180)による興福寺,東大寺の復興造営と鎌倉武家政権の成立である。南都復興の最初に行われた興福寺の造営では,慶派は院派,円派に主要な堂塔の造仏をゆずらねばならず,慶派直系の康朝の子成朝は中央で閉ざされた道を鎌倉で開くべく下向している。…
…743年には大盧遮那仏(だいるしやなぶつ)をまつる大寺が発願され,745年平城京東郊で着工された。東大寺と呼ばれ,盧遮那仏が仏教世界の中心仏であるのになぞらえて,国分寺の中心とされた。大仏殿の桁行は86m,高さ44mの巨大なもので,前面東西に高さ98mの七重塔がある,規模も意義も空前絶後のものであった。…
…政府はこの動きにこたえつつ墾田に対する統制を強化すべく,723年(養老7)の三世一身法につづいて,743年(天平15)墾田永年私財法を発した。この法は位階に則した墾田制限額を定めているが,東大寺などの寺院には広大な墾田を認めており,寺院は造寺司,国司などの国家機関に依存しつつ各地に荘を設け,地方有力者の墾田を買得,さらに未墾地を占定して開墾を進めた。東大寺は越前国桑原荘,道守(ちもり)荘をはじめ,北陸を中心に多くの荘を設定,墾田を開いたが,その開墾は郡司などの地方有力者に依存しつつ周辺の農民を雇って進められ,開墾後は農民の賃租によって地子(じし)を徴収する方式で経営された。…
…東大寺の造営と付属物の製作,写経事業のために設けられた令外の律令官司,官営工房で,太政官に直轄された。金光明寺造物所が発展して748年(天平20)7月ごろ成立し,789年(延暦8)停廃された。…
…1176年(安元2)までに3度宋に渡航したと伝えるが,その事跡は定かでない。80年(治承4)平重衡の兵火により東大寺が炎上したが,翌81年(養和1)8月造東大寺大勧進の宣旨を受けると直ちに勧進を開始,宋の鋳物師陳和卿らの協力で84年(寿永3)6月には大仏の鋳造をほぼ終わり,85年(文治1)8月大仏開眼会を行った。86年周防国が東大寺造営料にあてられたため番匠を率いて下向,みずから良材を探して巨木を搬出した。…
…長渚とも書く。この地域は猪名川・神崎川の三角州=長洲で,北の東大寺領猪名荘に続き,古くから東大寺が住みついた漁民に屋敷地子を課していた。神崎川河口一帯の港津を管理する検非違使庁も,長洲住民に庁役を課していた。…
…そして741年,諸国に国分寺および国分尼寺建立の詔が出され,また大仏造立の詔が発せられた。造東大寺司の大機構のもとに大仏鋳造をはじめ,堂塔,仏像,荘厳具,仏器・仏具,壁画,大繡帳などが大規模に制作された。これらはその素材や技法が多岐にわたるばかりでなく,様式も唐や遠くシルクロードの国々の影響をうけ,同時代中国の美術と遜色ないほどの高度なものが制作された。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…禅宗寺院では交(校)割(こうかつ)帳と呼ぶ文書が作成されるが,これは引渡し時に私用と公用とを厳密に分けるために作成された。また,東大寺では毎年2月の年預五師(ねんよごし)の交替に際し,年預の保管する文書の一覧が書き上げられており,これは勘渡(かんと)帳と呼んでいる。ともに,什器・文書を事故なく次の代に引き渡していくための一種の目録といえよう。…
…国分寺と国分尼寺についても不明なところが多い。総国分寺である東大寺が大和の国分寺を,総国分尼寺である法華寺が大和の国分尼寺を兼ねていたとする考え方が存在する一方,それぞれ両者は別個であるとする説がある。後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。…
…奈良時代の華厳・法相(ほつそう)の僧。東大寺の開山。百済系渡来人の後裔。…
※「東大寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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