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「松尾芭蕉」の意味・読み・例文・類語
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松尾芭蕉
松尾芭蕉 江戸時代前期の俳人。伊賀国(三重県)生まれ。俳諧をたしなんだ藤堂藩の藤堂良忠に仕えたが、良忠没後に江戸へ下り、俳諧宗匠となる。深川に構えた「芭蕉庵」にちなみ、芭蕉と呼ばれるように。「不易流行」を説き、各地を旅して「更科紀行」「奥の細道」などの紀行文を残した。西国行脚の途上、大阪で病没した。
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まつお‐ばしょう【松尾芭蕉】
- 江戸前期の俳人。俳諧の革新を大成した蕉風の祖。名は宗房。幼名金作。通称甚七郎など。俳号ははじめ宗房、のち桃青・芭蕉。別号釣月軒・泊船堂・風羅坊など。伊賀国(三重県)上野の生まれ。藤堂良忠(俳号蝉吟)に仕えたが、良忠の病死とともに致仕。のち江戸に下り延宝八年(一六八〇)深川の芭蕉庵に入居。談林風の俳諧にあきたらず新風を求め、漢詩文調、破格調を経て蕉風を確立。以後没年まで各地を行脚、紀行文を残し、その間、ますます円熟の境地を示し、蕉風俳諧の頂点をきわめた。さらに「高悟帰俗」の理念のもと、晩年に至り「軽み」を提唱。元祿七年(一六九四)西国行脚を志したがその途次、五一歳で大坂で病没した。句は「冬の日」「曠野」「ひさご」「猿蓑」などに収められ、ほかに紀行文「笈の小文」「野ざらし紀行(甲子吟行)」「奥の細道」など。正保元~元祿七年(一六四四‐九四)
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松尾芭蕉
没年:元禄7.10.12(1694.11.28)
生年:寛永21(1644)
江戸前期の俳諧師。正しくは単に芭蕉。伊賀国上野(三重県上野市)の人。父は農作を業としながら正式に松尾の姓を有する家柄。幼名は金作。成長して通称を甚七郎,また忠右衛門,藤七郎とも伝え,名を宗房と名乗る。俳号ははじめ宗房,のち桃青。別号,坐興庵・栩々斎・花桃夭・華桃園・泊船堂・芭蕉洞・芭蕉庵・風羅坊など。「芭蕉」「はせを」の号は,はじめ庵号に由来する戯号であり,愛用したけれども,神社・仏閣に奉献するような改まった場合には,晩年に至るまで桃青・芭蕉桃青・武陵芭蕉散人桃青というような署名をした。 若年にして伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将(知行5000石)藤堂新七郎良精家に仕える。身分は料理人であったが,主君の若君藤堂良忠(俳号,蝉吟)と共に俳諧を嗜むことになった。寛文6(1666)年蝉吟の死とともに仕官を退き,俳諧に精進する。延宝初年,30歳代のはじめには江戸に出て上水道工事に携わったりするが,やがて職業的な俳諧師の道を歩む。延宝8(1680)年には『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するに至り,当代における代表的選者のひとりと目されるようになったが,同年冬に突然江戸市中から退き,深川に草庵を結んで隠逸の生活に入る。すなわち芭蕉庵主の誕生である。生活は,数人の気心の知れた門人・知友によって支えられたらしいが,その緊張感にみちた高雅な句風が,次第に支持層を強固にしていった。貞享1(1684)年以後は,『野ざらし紀行』(1685,86頃),『鹿島詣』(1687),『笈の小文』,『更科紀行』(1688),『奥の細道』などに描きとどめられた種々の旅行を繰り返し,その死もまた,上方旅行の途中の大坂においてであった。その足跡は,陸奥平泉(岩手県平泉町)・出羽象潟(秋田県象潟町)を北端とし,播磨明石(兵庫県明石市)を西端とするが,夢想としての旅はさらに西国筋まで思い描かれていたらしい。 一般に庵住(隠棲)と行脚(旅行)は,一対として出家修行の2形態であり,芭蕉が深川の芭蕉庵を基点としつつも,近江(滋賀県)の幻住庵・無名庵や,山城(京都府)嵯峨の落柿舎(門人去来の別邸),郷里上野の実家屋敷内の草庵など,各地で長期・短期の庵住を営み,そのあいだ,あいだを旅に過ごしたのは,修行者としての実践のかたちを踏んだといえる。「拙者,浮雲無住の境界大望ゆゑ,かくのごとく漂泊いたし候」と書いた芭蕉は,実際に「手に十八の珠」(『野ざらし紀行』)の黄檗禅の数珠をかけて歩いていたらしい。この実践を通じて,心境は鋭く研ぎすまされ,作品は,典雅・高踏を抜け出て,やがて自由闊達な,軽快・余裕の境地に至った。俳諧が根本的に要求されるユーモアの精神を人格的な寛仁の中に位置づけたのである。ふつう芭蕉七部集と呼ぶ書物のうち,『ひさご』,『猿蓑』(1691)以降の集は,日本文学史の上での大きな転換点を具現している。その芸術的達成は,筆跡の上にも現れているが,また『野ざらし紀行画巻』や『旅路の画巻』などの長大な画作を残し,この方面でも素人離れのした才能を示した。<参考文献>大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』,上野洋三『芭蕉論』『芭蕉,旅へ』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
松尾芭蕉
まつおばしょう
[生]寛永21(1644).伊賀上野
[没]元禄7(1694).10.12. 大坂
江戸時代前期~中期の俳人。本名,宗房。幼名,金作。通称,甚七郎または忠右衛門。別号,桃青,釣月軒,泊船堂,夭々軒,芭蕉洞,風羅坊。一説に伊賀国柘植 (つげ) の出生という。士分待遇の農家の出身で,伊賀上野の藤堂良忠 (蝉吟) に仕え,良忠とともに北村季吟に俳諧を学んだ。寛文6 (1666) 年の良忠没後致仕し,一時京都に遊学したともいう。同 12年郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納,江戸に下った。延宝期は談林俳諧に傾倒したが,杉風,其角,嵐雪などの門人もでき宗匠として独立。延宝8 (80) 年深川の芭蕉庵に隠棲し,そこで従来の談林の俳風をこえて,蕉風俳諧を創始。また各地を旅行して『野ざらし紀行』をはじめ『更科紀行』 (88) ,『奥の細道』など多くの名句と紀行文を残した。句集は『俳諧七部集』に収められる。そのほか俳文『幻住庵記』 (90) ,日記『嵯峨日記』 (91) などがある。
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松尾芭蕉 まつお-ばしょう
1644-1694 江戸時代前期の俳人。
正保(しょうほ)元年生まれ。京都で北村季吟(きぎん)にまなぶ。江戸にでて宗匠となり,延宝8年深川に芭蕉庵をむすぶ。貞享(じょうきょう)元年の「甲子吟行(かっしぎんこう)」「野ざらし紀行」をはじめ「笈(おい)の小文」「おくのほそ道」などの旅をへて,不易流行の思想,わび・さび・軽みなどの蕉風にたどりつく。作句は没後,「冬の日」「猿蓑(さるみの)」「炭俵」などの七部集にまとめられた。元禄(げんろく)7年10月12日旅先の大坂で病死。51歳。命日を時雨忌という。伊賀(いが)(三重県)出身。名は宗房。通称は忠右衛門。別号に桃青(とうせい),坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃園など。
【格言など】春に百花あり秋に月あり,夏に涼風あり冬に雪あり。すなわちこれ人間の好時節
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松尾芭蕉
まつおばしょう
1644〜94
江戸前期の俳人
名は宗房 (むねふさ) ,別号は桃青・風羅坊など。伊賀(三重県)上野の生まれ。もと伊賀上野の藤堂藩士。武士身分を捨てて町人の世界に入った。江戸で談林派などの俳諧を学び,のち「さび」「しおり」「細み」などを根本理念とした蕉風を開拓。俳諧を芸術として確立した。蕉門十哲をはじめ,多くのすぐれた門弟を輩出させ,各地に旅し,名句と紀行文を残した。その句風は『猿蓑』など「芭蕉七部集」にうかがうことができる。紀行文では『奥の細道』が著名。
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世界大百科事典(旧版)内の松尾芭蕉の言及
【芭蕉】より
…江戸前期の俳人。姓名は松尾宗房。俳号は,はじめ宗房を用い,江戸に下って桃青(とうせい)と号した。別号は,立机(りつき)後に坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃夭(かとうよう),華桃園など,深川退隠後に泊船堂,芭蕉翁,芭蕉洞,芭蕉庵,風羅坊など。好んで,はせを,芭蕉とも署名した。伊賀上野(現,三重県上野市)の城東,赤坂の農人町に生まれ,元禄7年10月12日に大坂で客死,遺言によって近江の粟津義仲寺に葬られた。…
※「松尾芭蕉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」