松山藩(読み)まつやまはん

改訂新版 世界大百科事典 「松山藩」の意味・わかりやすい解説

松山藩 (まつやまはん)

伊予国(愛媛県)の家門中藩。1602年(慶長7)伊予郡正木(松前)(まさき)城主20万石の加藤嘉明松山城を築城したことに始まる。27年(寛永4)嘉明の会津転封後,蒲生忠知が領主となるが,その急逝後,35年伊勢国桑名城主松平(久松)定行が15万石の領主となり,廃藩まで松平氏14代の支配が続いた。その領地は風早郡,和気郡,久米郡,温泉郡,伊予郡,浮穴(うけな)郡に及んだ。定行は松山城の改修,道後温泉の整備,緋の蕪(かぶら)の生産,タルトや五色そうめんの製造と関連して知られている。寛文年間(1661-73)藩財政の窮乏のなかで,延宝期(1673-81)に高内(たかない)又七による災害復旧と財政再建,農村では地坪(じならし)制と定免(じようめん)制の実施という改革がなされた。4代定直は文学愛好で知られ,みずから榎本其角,服部嵐雪らに教えを受け,元禄期(1688-1704)に松山文化の発達を見る。江戸中期には栗田樗堂,百済魚文らにより,伊予俳諧の全盛を迎える。1732年(享保17)享保の飢饉は松山藩にも大被害を与え,種麦を枕に餓死した筒井村(現,伊予郡松前町)義農作兵衛の話が生まれた。藩内の餓死者は3400人に達したという。このため,7代定喬はその責任者奥平藤左衛門を処分した。これは,1741年(寛保1)3000余人が大洲藩領へ逃散した久万山(くまやま)一揆と結合されて,講談〈松山騒動〉という御家騒動に創作された。定喬は藩士の減封による財政再建を策し,次の定功(さだなり),定静(さだきよ)へと続く宝暦・明和・安永期(1751-81)の改革となる。とくに定静は三津(みつ)に塩田を開発するが,さして成功はしていない。化政期(1804-30)以降もしきりに倹約令と減封を繰り返した。一方,この時期には国産品も増え,菊屋新助の考案した伊予縞が製造された。1852年(嘉永5)松山城の大改修,続く安政大地震の被害のなかで,親藩松山藩は多難な維新の政局を迎えた。長州再征では大島を攻撃して敗退し,68年(明治1)には朝廷から15万両の献納を命ぜられ,また土佐藩兵らに占領された。廃藩置県に際し久万山・久米騒動が発生している。
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松山藩 (まつやまはん)

備中国上房(じようぼう)郡松山(現,岡山県高梁(たかはし)市)に藩庁を置いた譜代小藩(初期は外様)。1617年(元和3)鳥取城主池田長幸が6万5000石で松山に入城し,松山藩政が始まる。その後,領主は水谷(みずのや)氏5万石,安藤氏6万5000石,石川氏6万石を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏が,備中国上房,川上,賀陽,下道,哲多,阿賀,浅口7郡の内で5万石を襲封して明治維新に及んだ。藩治で見るべきものには,水谷氏治下での新田開発,松山(高梁)川改修,城下町形成,維新時の藩主板倉勝静(かつきよ)による儒者山田方谷(ほうこく)を登用しての財政改革,産業奨励,文教刷新などがある。勝静は松平定信の孫で,1862-64年(文久2-元治1),65-68年(慶応1-明治1)老中を務めて朝敵とされた。このため岡山藩の鎮撫をうけ,69年2万石に減封されて高梁藩と改称した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松山藩」の意味・わかりやすい解説

松山藩(伊予国)
まつやまはん

伊予国中央部、温泉郡松山(愛媛県松山市)に置かれた藩。1602年(慶長7)加藤嘉明(よしあき)が関ヶ原の戦功によって20万石に加増され、松山平野の中枢勝山(かつやま)に築城、その周辺部に近世城下町を建設し、松山とよんだ。1627年(寛永4)嘉明は会津若松に転じ、かわって蒲生忠知(がもうただちか)が入封するが、7年後無嗣(むし)断絶となり、一時三侯の預り地となる。1635年(寛永12)松平(久松(ひさまつ))定行(さだゆき)が15万石の城主に封ぜられ、天守閣の大改造、道後(どうご)温泉浴槽施設および城下町の整備、久万山(くまやま)地区の茶の生産奨励を行った。領域は温泉・風早(かざはや)・久米(くめ)・桑村・野間(のま)・浮穴(うきあな)・伊予・周布(しゅふ)・越智(おち)9郡308村に及んだ。4代藩主定直の治世は元禄(げんろく)期(1688~1704)で、彼の好学によって儒教、俳諧(はいかい)が勃興(ぼっこう)した。奉行(ぶぎょう)高内親昌(たかないちかまさ)に定免(じょうめん)制、地坪(じならし)制を実施させ、農業の振興策に成功した。1732年(享保17)長雨によりイネが枯死し、またウンカが発生して大飢饉(ききん)となった。翌年藩主定喬(さだたか)は藩の要職を更迭したが、1741年(寛保1)久万山地区の農民が大洲(おおず)領に逃散(ちょうさん)する一揆(いっき)が起こり、結果は彼らの勝利となった。寛政(かんせい)(1789~1801)のころ俳人栗田樗堂(ちょどう)(加藤暁台(ぎょうだい)の高弟)が活躍し、彼一派の俳諧黄金時代をつくった。11代定通は厳重な節約、風紀の匡正(きょうせい)を行い、また国産品を奨励し、1828年(文政11)藩学明教館を創設して士風の高揚に努めた。1854年(安政1)かねてから待望の松山城郭の再建工事が完成した。第二次長州征伐に際し、周防(すおう)国(山口県)屋代(やしろ)島を襲撃し、孤軍奮闘したが、敗退。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いには朝敵の汚名のもとに追討を受け、土佐藩が一時松山を占領した。廃藩置県(1871)により松山県となり、石鐵(せきてつ)県を経て1873年(明治6)愛媛県に統合された。

[景浦 勉]

『久松家編『松山叢談』全4冊(『予陽叢書 第1~第4』1935・同叢書刊行会)』『景浦勉著『松山城史』増補版(1976・伊予史談会)』



松山藩(備中国)
まつやまはん

備中(びっちゅう)国松山(岡山県高梁(たかはし)市)に置かれた藩。1617年(元和3)因幡(いなば)国鳥取から池田長幸(いけだながゆき)が6万5000石で入封し松山藩が成立した。長幸の子長常(ながつね)に嗣子(しし)がなく池田松山藩は断絶し、1642年(寛永19)成羽(なりわ)藩水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石で入封。以後、勝宗(かつむね)、勝美(かつよし)と継承し、新田開発、高梁川改修、松山城・城下町の形成に力を注いだ。勝美は末期養子(まつごようし)の勝晴(かつはる)が承認されないうちに没したため、水谷松山藩は断絶した。1695年(元禄8)に上野(こうずけ)国(群馬県)高崎から安藤重博(あんどうしげひろ)が6万5000石で入封。1711年(正徳1)美濃(みの)国(岐阜県)加納に移封され、かわって山城(やましろ)国(京都府)淀(よど)から石川総慶(ふさよし)が6万石で入封。44年(延享1)総慶は伊勢(いせ)国(三重県)亀山に移封され、同所から板倉勝澄(かつずみ)が5万石で入封。その後、勝武(かつたけ)、勝従(かつより)、勝政(かつまさ)、勝晙(かつあき)、勝職(かつつね)、勝静(かつきよ)と継承され明治維新に至った。勝静は徳川幕府の老中職を務め、藩政面でも儒者山田方谷(やまだほうこく)を登用して藩政改革にあたらせたが、明治維新で朝敵とされ、領地は岡山藩の管理下に置かれたが、1869年(明治2)勝弼(かつすけ)が2万石に減封されて再興され、藩名を高梁藩とした。71年廃藩、高梁県、深津県、小田県を経て75年岡山県に編入された。

[人見彰彦]



松山藩(出羽国)
まつやまはん

出羽(でわ)国の飽海(あくみ)郡中山村(のち松山と改称、山形県酒田(さかた)市)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1647年(正保4)、庄内(しょうない)藩主酒井忠当(ただまさ)の弟忠恒(ただつね)が、庄内藩領の村山、飽海、田川3郡の新田をあわせて2万石を分与されて立藩した。忠恒のあと、忠予(ただやす)、忠休(ただよし)、忠崇(ただたか)、忠礼(ただのり)、忠方(ただみち)、忠良(ただよし)、忠匡(ただまさ)と続いて明治維新に至った。当酒井家は、藩主が幕府の奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(ぶぎょう)、若年寄(わかどしより)などの要職に就くことがあり、在府経費がかさんで財政難に陥るほどであった。1779年(安永8)忠休は若年寄の功労により、上野(こうずけ)国(群馬県)山田・勢多(せた)郡内に5000石を加増され、城主に列せられた。戊辰(ぼしん)戦争では、庄内藩と行動をともにしたため1868年(明治1)2500石に減封され、翌69年、松嶺(まつみね)藩と改称した。松嶺県、鶴岡県、酒田県を経て山形県に入る。

[長谷川成一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松山藩」の意味・わかりやすい解説

松山藩
まつやまはん

(1) 江戸時代,伊予国 (愛媛県) 松山地方を領有した藩。天正 13 (1585) 年に加藤嘉明が6万 3000石で入封したのに始る。寛永4 (1627) 年に加藤氏は陸奥会津 (福島県) へ移封し,代って蒲生忠知が 20万石で入封。蒲生氏は同 11年除封され,翌年松平 (久松) 定行が伊勢 (三重県) 桑名から 15万石で入封。以後廃藩置県にいたった。松平氏は家門,江戸城溜間詰。 (2) 江戸時代,備中国 (岡山県) 松山地方を領有した藩。元和3 (1617) 年池田氏が6万 5000石で入封し立藩。寛永 19 (42) 年池田氏は除封され,のち水谷氏5万石,安藤氏6万 5000石,石川氏6万石を経て,延享1 (1744) 年板倉氏が5万石で入封。明治1 (1868) 年に2万石に減封,翌2年高梁藩と改称,廃藩置県にいたった。板倉氏は譜代,江戸城雁間詰。 (3) 松嶺藩ともいう。江戸時代,出羽国松山地方 (山形県) を領有した藩。同国庄内藩 (→鶴岡藩 ) 酒井忠恒が父忠勝から正保4 (1647) 年に新墾田2万石を分封されたのに始る。安永8 (1779) 年 5000石加封戊辰戦争で2万 2500石に減封されて廃藩置県にいたった。譜代,江戸城帝鑑間詰。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松山藩」の解説

松山藩
まつやまはん

伊予国松山(現,愛媛県松山市)を城地とする外様大藩のち家門中藩。1595年(文禄4)加藤嘉明(よしあき)が淡路国志智から伊予国正木(のち松前(まさき))に6万石で入封。関ケ原の戦後,20万石に加増されて城地を勝山に移し,松山と改称して立藩。1627年(寛永4)嘉明が陸奥国会津に転封となり,出羽国上山(かみのやま)から蒲生忠知が入ったが,34年無嗣断絶。35年に家門の松平(久松)定行が伊勢国桑名から入封,以後15代にわたる。藩領は伊予国10郡のうち15万石。初代定行は長崎異国船来航時の防衛責任者であった。4代定直は俳諧を好み,天明~文化期に松山俳壇は栗田樗堂(ちょどう)により隆盛を迎えた。14代定昭は1867年(慶応3)老中就任。詰席は溜間。藩校明教館。江戸中期に支藩松山新田藩があった。戊辰戦争後,朝敵として一時高知藩に軍事占領された。廃藩後は松山県となる。

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百科事典マイペディア 「松山藩」の意味・わかりやすい解説

松山藩【まつやまはん】

伊予(いよ)国松山城(1602年築城)に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の加藤氏・蒲生氏,1635年以降は親藩の松平(久松)氏。領知高は伊予国8郡で15万石〜24万石。
→関連項目伊予国

松山藩【まつやまはん】

松山

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デジタル大辞泉プラス 「松山藩」の解説

松山藩〔備中国〕

備中国、松山(現:岡山県高梁市(たかはしし))を本拠地とした藩。歴代藩主は池田氏、安藤氏、板倉氏など。明治維新の際、朝敵とされ一時期領地が岡山藩の管理下に置かれるが、1869年に再興、「高梁藩」を名乗る。その2年後には廃藩置県となった。

松山藩〔伊予国〕

伊予国、松山(現:愛媛県松山市)を本拠地とした藩。現存12天守のひとつである松山城(金亀城)は賤ヶ岳七本槍のひとり、加藤嘉明が起工したもの。外様の蒲生氏を経て、親藩の松平(久松)氏が15万石で入封。幕末まで同氏が藩主をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の松山藩の言及

【備中国】より

…まず,小堀正次は関ヶ原の戦では徳川氏に仕えたので,旧知行のほか備中国内で1万石加増され,備中代官として松山城に入って国務を沙汰することになり,その子政一(遠州)も備中代官として松山に在城したことがある。ついで鳥取城主池田長幸が1617年(元和3),6万5000石を領して松山に入城して松山藩を立藩した。その後,水谷(みずのや)氏(5万石),安藤氏(6.5万石),石川氏(6万石)を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏(5万石)が襲封し,維新時の藩主勝静(かつきよ)は老中の一人として活躍した。…

【伊予国】より

…とくに四国山脈ぞいの山地に多い。藩別では宇和島藩44件,松山藩件,大洲藩19件,吉田藩15件である。1741年(寛保1)松山藩の久万山(くまやま)騒動,50年(寛延3)大洲藩の内ノ子騒動,93年(寛政5)吉田藩の武左衛門一揆,1870年(明治3)宇和島藩の野村騒動などが有名である。…

※「松山藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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