出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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江戸前期の幕臣、島原の乱の幕軍主将。駿府(すんぷ)(静岡市)に生まれる。江戸幕府初期の高名な京都所司代勝重(かつしげ)の二男(三男とも)。内膳正(ないぜんのしょう)。駿府大御所時代における徳川家康の近習(きんじゅ)出頭人の一人で、大坂の陣では軍使となる。三河国(愛知県)深溝(ふこうず)領主で1万1000石余を知行(ちぎょう)。島原の乱の勃発(ぼっぱつ)で幕府の征討軍の総大将となった。キリシタン一揆(いっき)軍の抵抗は予想外に強く、幕軍の統率の乱れもあって戦線は膠着(こうちゃく)した。事態を重視した幕府は、老中松平信綱(のぶつな)の派遣を決定。これを知った重昌は、寛永(かんえい)15年(1638)正月1日総攻撃を決行したが、幕軍の士気あがらず玉砕的な戦死を遂げた。
[煎本増夫]
(大森映子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代の譜代大名。下野国足利郡板倉におこり,のち三河国額田郡小美村に住し,松平氏に仕えたという。徳川家康に仕えた勝重は,駿府町奉行・江戸町奉行を経て,京都所司代となり,1609年(慶長14)には,山城で1万6600石を領した。勝重の子重宗も,勝重を継いで所司代となり,退任後の1656年(明暦2)下総国関宿で5万4000石を領した。その後板倉氏は,61年(寛文1)伊勢亀山,1710年(宝永7)志摩鳥羽,17年(享保2)に再び亀山,44年(延享1)備中松山へと転じ,廃藩を迎えた(松山藩(備中))。…
…27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。…
※「板倉重昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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