桂太郎(読み)カツラタロウ

デジタル大辞泉 「桂太郎」の意味・読み・例文・類語

かつら‐たろう〔‐タラウ〕【桂太郎】

[1848~1913]軍人・政治家。陸軍大将。長州藩出身。陸軍にドイツ式兵制を取り入れ、陸相などを歴任。三度首相となり、日英同盟日露戦争韓国併合を断行。大逆事件を初め、社会運動を弾圧した。

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共同通信ニュース用語解説 「桂太郎」の解説

桂太郎

1848~1913年。山口県萩市出身の陸軍軍人・政治家で3度にわたり首相を務めた。日露戦争時の首相で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。通算在職日数2886日は故安倍晋三元首相に次ぎ2位。愛想がいいことから「ニコポン宰相」と呼ばれた。

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精選版 日本国語大辞典 「桂太郎」の意味・読み・例文・類語

かつら‐たろう【桂太郎】

  1. 政治家、陸軍大将。公爵。長州藩出身。山県有朋の直系として陸軍次官、各内閣の陸相を経る間にドイツ式兵制の確立、北清事変への出兵などにあたった。明治三四年(一九〇一)以後三回組閣。日英同盟を結び、日露戦争を断行。社会運動を弾圧し韓国併合を行なったが、第三次内閣は憲政擁護運動の攻撃をうけて崩壊。弘化四~大正二年(一八四七‐一九一三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂太郎」の意味・わかりやすい解説

桂太郎
かつらたろう
(1847―1913)

明治時代の軍人、政治家。弘化(こうか)4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争(ぼしんせんそう)に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖(おおやまいわお)陸軍卿(りくぐんきょう)に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋(やまがたありとも)を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六(かわかみそうろく)と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清(にっしん)戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信(おおくましげのぶ)、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望(さいおんじきんもち)と交互に政権を担当した(いわゆる桂園(けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨(いのうえかおる)ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬(はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗(てんぐ)」と評したという。

 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した。

山本四郎

『徳富蘇峰編著『公爵桂太郎伝 乾坤』(1917・桂太郎伝刊行会/復刻版・1967・原書房)』『升味準之輔著『日本政党史論 第2・3巻』(1966・東京大学出版会)』『桂太郎著、宇野俊一校注『桂太郎自伝』(1993・平凡社・東洋文庫)』『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書6 桂太郎』(2005・ゆまに書房)』『宇野俊一著『人物叢書 桂太郎』新装版(2006・吉川弘文館)』『千葉功編『桂太郎関係文書』(2010・東京大学出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「桂太郎」の意味・わかりやすい解説

桂太郎 (かつらたろう)
生没年:1847-1913(弘化4-大正2)

明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。維新後大阪兵学寮に学んだが中退して1870年(明治3)ドイツに留学,一時帰国し陸軍大尉として明治政府に出仕,75年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴きドイツ軍政を調査・研究する。78年帰国,山県有朋陸軍卿に参謀本部独立を建言。参謀本部が設置されると管西局長となり,プロイセン軍制を範として軍制改革を推進した。91年第3師団長となり,日清戦争に出陣,軍功により子爵を授けられる。日清戦後,台湾総督,東京防御総督を経て,98年第3次伊藤博文内閣に陸相として入閣。そのあと第1次大隈重信,第2次山県,第4次伊藤の各内閣に留任した。この間,政党内閣大隈内閣にたいしては閣僚として内部からの瓦解をはかり,また1900年の義和団事件では中国出兵を積極的にすすめ,列強の仲間入りを果たした。これらの活動を通じて桂は単なる軍人から長州閥の嫡子としての政治家に成長した。01年5月第4次伊藤内閣総辞職のあと後継首班におされ,山県系官僚を網羅して内閣を組織した。政綱に日英同盟締結の方針をかかげ,02年1月これを実現し,内閣の威信を高めた。その後日露関係の切迫するなかで,03年6月対露方針を決定,内閣を改造して開戦外交を展開,04年2月の日露開戦後は戦争遂行に全力を傾けた。戦争末期には政友会領袖の原敬と3度会談し,戦後には政友会総裁西園寺公望に政権を譲ることを条件に政府への協力をとりつけた。しかし日露講和条約に対する不満は日比谷焼打事件から全国的な非講和運動に発展し,その衝撃もあって05年12月には総辞職し,西園寺を後継首班に推薦した。以後いわゆる〈桂園時代〉と呼ばれる一時期が現出した。07年には日露戦争の功により侯爵となり,翌年には西園寺内閣のあとをうけて第2次桂内閣を組織し,対外的には10年に韓国を併合,その功により公爵に陞爵(しようしやく),対内的には社会主義・無政府主義者を徹底的に弾圧し,大逆事件では幸徳秋水ら12名を死刑に処した。11年首相を辞任し元勲優遇の詔勅をうけ元老となった。12年政党結成の構想をもって欧米視察に出発したがモスクワで明治天皇重病の報に接し急ぎ帰国。天皇の死後内大臣兼侍従長として宮中に入った。しかし同年12月二個師団増設問題で第2次西園寺内閣が倒れると,宮中を出て3度内閣を組織した。この行動は非立憲的であるとして護憲運動が全国に広がった。苦境に立った桂は政友会をきりくずし立憲同志会の組織を公表したが,結局13年2月民衆運動の革命化をおそれて総辞職した。その後政党組織化に力を尽くしたが,病をえて同年10月没した。

 政治家としての桂は,人心収攬にたけ,いわゆる〈ニコポン主義〉によって政敵を懐柔し,妥協によって難局をきりぬけたが,同時に長州藩閥を背景とする力の政治家でもあった。
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百科事典マイペディア 「桂太郎」の意味・わかりやすい解説

桂太郎【かつらたろう】

明治の軍人,政治家,陸軍大将,公爵。長州藩士の出。戊辰戦争では奥羽を転戦。維新後は再度ドイツに渡り,軍政を調査。帰国後は陸軍で長州軍閥の大御所山県有朋の直系として昇進を重ね,陸軍の兵制をドイツ式に改革,師団の設立,参謀本部軍令部の分離などを行う。台湾総督などを経て1898年陸相。1901年以降3度組閣(桂園時代)。1911年以降元老。〈ニコポン〉と呼ばれた妥協政治家であったが,憲政擁護運動盛上りに直面して御用政党の必要を感じ,立憲同志会設立を準備中に死去。→桂太郎内閣
→関連項目桂=タフト協定桂=ハリマン協定川上操六元老護憲運動西園寺公望内閣大正政変拓殖大学日露協商論民友社メッケル

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朝日日本歴史人物事典 「桂太郎」の解説

桂太郎

没年:大正2.10.10(1913)
生年:弘化4.11.28(1848.1.4)
明治大正期の陸軍軍人,政治家。長州(萩)藩士桂与一右衛門信繁と喜代子の子。長男。長州萩(萩市)生まれ。戊辰戦争では奥州各地を転戦し,維新後の明治3(1870)年ドイツに留学。帰国後,陸軍大尉に任官し,8年再びドイツ公使館付武官となりドイツの軍制を学び同11年帰国。陸軍卿山県有朋のもとで同年12月の参謀本部設置など軍制の改革に貢献した。同18~24年陸軍次官。以後累進し,日清戦争(1894~95)では第3師団長として出征。台湾総督などを歴任し,明治31年の第3次伊藤博文内閣で陸軍大臣に就任。同年大将に進む。軍備拡張政策を推進,藩閥の一員として政党勢力と対立した。34年首相となり日露戦争(1904~05)を指導した。その際,原敬と5度会談,戦後の西園寺公望への政権委譲を条件に立憲政友会の支持を得た。しかし,ポーツマス講和条約に対する国民の不満が日比谷焼き打ち事件という形で顕在化するなかで退陣,西園寺と交代した。桂,西園寺,山本権兵衛など維新第2世代による「桂園時代」が始まる。明治41年成立の第2次桂内閣では,日露戦争後の困難な財政再建を図るとともに,満州(中国東北部)での勢力範囲を第2次日露協約により確定し,43年韓国を併合した。また,社会政策である工場法を制定する一方,大逆事件に代表される社会主義者への弾圧を行った。この第2次内閣の後半以降,山県有朋らの自立を図り首相退陣後元老となるも,明治天皇の死後,内大臣として宮中に封じられた。大正1(1912)年2個師団増設問題で第2次西園寺内閣が崩壊したのち,詔勅によって3度内閣を組織したが,詔勅を乱発したため非立憲との批判が高まった(第1次護憲運動)。自らも政党を作るべく立憲同志会創設を宣言したが,護憲運動が民衆暴動化し,大正2(1913)年2月にわずか53日で総辞職した。のち新政党の勢力拡大を図るなか病死。国立国会図書館憲政資料「桂太郎関係文書」がある。<参考文献>徳富猪一郎編『公爵桂太郎伝』

(小池聖一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「桂太郎」の解説

桂 太郎
カツラ タロウ


肩書
第11・13・15代首相,陸相,元老

別名
号=海城

生年月日
弘化4年11月28日(1848年)

出生地
長門国萩城下平安古町(現・山口県萩市)

経歴
長州(萩)藩士の子。文久3年馬関戦争に参戦、戊辰戦争では奥羽各地を転戦。明治3年ドイツ留学。5年帰国、6年陸軍歩兵大尉。8年ドイツ駐在武官。11年帰国後、参謀本部入り。15年大佐。参謀本部管西局長を経て、19年陸軍次官となり、軍制改革を推進。日清戦争に第三師団長で出征、戦後子爵。29年台湾総督。31年第3次伊藤内閣の陸相。同年大将に昇進。次いで大隈内閣、第2次山県内閣、第4次伊藤内閣で陸相留任。34年首相となり、日露戦争では強硬論を唱え、日英同盟締結。38年ポーツマス条約締結後の日比谷焼打ち事件で桂内閣瓦解。戦後は西園寺公望と交互に政権担当。41年第2次内閣を組織、労働運動強圧政策を進め、43年の大逆事件後、社会主義が抹殺された。同年韓国併合。翌44年総辞職、内大臣兼侍従長。同年公爵。大正元年3度首相となったが2カ月で辞職。2年立憲同志会を結成。首相在任7年9カ月の記録を立てた。

没年月日
大正2年10月10日

家族
二男=井上 三郎(陸軍少将・侯爵) 孫=桂 広太郎(貴院議員)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「桂太郎」の解説

桂 太郎
カツラ タロウ

明治期の政治家,陸軍大将,公爵 首相;陸相;元老。



生年
弘化4年11月28日(1848年)

没年
大正2(1913)年10月10日

出生地
長門国萩城下平安古町(現・山口県萩市)

別名
号=海城

経歴
長州(萩)藩士の子。文久3年馬関戦争に参戦、戊辰戦争では奥羽各地を転戦。明治3年ドイツ留学。5年帰国、6年陸軍歩兵大尉。8年ドイツ駐在武官。11年帰国後、参謀本部入り。15年大佐。参謀本部管西局長を経て、19年陸軍次官となり、軍制改革を推進。日清戦争に第三師団長で出征、戦後子爵。29年台湾総督。31年第3次伊藤内閣の陸相。同年大将に昇進。次いで大隈内閣、第2次山県内閣、第4次伊藤内閣で陸相留任。34年首相となり、日露戦争では強硬論を唱え、日英同盟締結。38年ポーツマス条約締結後の日比谷焼打ち事件で桂内閣瓦解。戦後は西園寺公望と交互に政権担当。41年第2次内閣を組織、労働運動強圧政策を進め、43年の大逆事件後、社会主義が抹殺された。同年韓国併合。翌44年総辞職、内大臣兼侍従長。同年公爵。大正元年3度首相となったが2カ月で辞職。2年立憲同志会を結成。首相在任7年9カ月の記録を立てた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「桂太郎」の解説

桂太郎
かつらたろう

1847.11.28~1913.10.10

明治・大正期の藩閥政治家・陸軍軍人。萩藩士の家に生まれる。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,維新後陸軍に入りドイツに学ぶ。兵制改革に貢献し陸軍次官・台湾総督などをへて,第3次伊藤・第1次大隈・第2次山県の3内閣の陸相。1901年(明治34)首相となり日英同盟・日露戦争などを処理した。山県系の後継者格となり当初対立していた政友会と妥協,政権の交互担当,第三者の政権からの排除を基軸とする桂園(けいえん)体制を築いた。06年西園寺公望(きんもち)に政権を譲ったが,08年再び政権を担当,戊申(ぼしん)詔書発布・韓国併合・大逆事件などを処理し,11年に退いた。12年(大正元)内大臣。まもなく上原勇作陸相の帷幄(いあく)上奏による第2次西園寺内閣崩壊をうけて組閣。第1次護憲運動に直面し,新党結成で危機突破を図るが程なく退陣。陸軍大将・公爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂太郎」の意味・わかりやすい解説

桂太郎
かつらたろう

[生]弘化4(1847).11.28. 長門,萩
[没]1913.10.10. 東京
軍人,政治家。 1886年陸軍次官となり,陸軍軍制をドイツ式に改革,1888年鎮台を廃し,師団を置いた。 1901~06,1908~11,1912~13年と3度組閣,この間首相として日英同盟締結,日露戦争日韓併合大逆事件に際会した。このうち朝鮮半島については伊藤博文の政策に比べ積極的な併合政策を主張。山県有朋の支持を得て日韓併合を導いている。 1898年陸軍大将,1911年公爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桂太郎」の解説

桂太郎 かつら-たろう

1848*-1913 明治-大正時代の軍人,政治家。
弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清(にっしん)戦争に出征。第3次伊藤内閣などの陸相として軍拡政策を推進した。明治34年第1次桂内閣を組織,以後西園寺公望と交互に政権を担当。大正2年第3次桂内閣は護憲運動により2ヵ月で総辞職。陸軍大将。大正2年10月10日死去。67歳。長門(ながと)(山口県)出身。号は海城。
【格言など】天が私を試しているのだ(長男の訃報に接して)

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旺文社日本史事典 三訂版 「桂太郎」の解説

桂太郎
かつらたろう

1847〜1913
明治・大正初期の軍人・政治家
陸軍大将・元老。長州藩出身。1870年ドイツに留学し,帰国後ドイツ式軍制樹立に努力した。陸軍次官・台湾総督を経て,'98年第3次伊藤博文内閣の陸相となる。以後,第1次大隈重信・第2次山県有朋両内閣でも陸相をつとめる。山県の後継者として藩閥・軍閥を代表して政党勢力と対立し,社会運動を取り締まった。西園寺公望 (さいおんじきんもち) と交代で3度内閣を組織し,桂園時代を現出したが,第3次内閣は第1次護憲運動のため総辞職した。

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367日誕生日大事典 「桂太郎」の解説

桂 太郎 (かつら たろう)

生年月日:1848年11月28日
明治時代の政治家。陸軍大将
1913年没

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世界大百科事典(旧版)内の桂太郎の言及

【桂=タフト協定】より

…1905年,アメリカと日本の間にかわされた朝鮮(大韓帝国)およびフィリピンに関する秘密覚書。同年7月,フィリピン視察の帰途来日したアメリカ陸軍長官W.H.タフトは桂太郎首相と会談し,両者はつぎのような覚書を確認した。(1)日本はアメリカのフィリピン統治を承認する。…

【桂園時代】より

…日露戦争後,桂太郎と西園寺公望が首相として交互に政権を担当した政治形態の総称。明治維新以来,薩長藩閥政治家中の元勲層が政権を担当してきたが,1901年伊藤博文が第4次内閣を投げ出して以後,長州閥の桂太郎が政権を担当して新しい時代が始まった。…

【大正時代】より

… 1905年9月の非講和運動は〈外には帝国主義内には立憲主義〉の理念に指導される全国的都市民衆運動として,大正デモクラシー運動の起点となったが,〈外に帝国主義〉の色彩は,1907年から09年にかけて展開された全国商業会議所連合会を中心とする軍拡反対悪税廃止運動により弱められ,13年初めの護憲運動にいたる。政府が民衆の不満を押さえて軍拡を進めるには政党の力を借りざるを得ず,1906年1月には政友会総裁西園寺公望を首班とする内閣が,官僚派代表たる長州閥の桂太郎内閣に代わって登場し,08年7月第2次桂,11年8月第2次西園寺と,交互に政権を担当する〈桂園内閣〉時代を現出した。政友会は実力者原敬の領導のもと,鉄道敷設,港湾修築など,制限選挙下有権者の大半を占める農村地主層の利益をはかる〈積極政策〉を推進し,1908年,12年の総選挙に安定多数を獲得し,つねに政府与党の地位を確保し,政治的発言権を著しく増大させた。…

【大正政変】より

…1913年の憲政擁護の民衆運動で第3次桂太郎内閣が倒された政変。1912年陸軍の二個師団増設問題で第2次西園寺公望内閣が倒れると,元老会議での後継首班推薦は難航し,結局この年8月大正天皇即位にともない内大臣として宮中入りした桂太郎を推薦した。…

【ドイツ】より

…また日本人青年も明治初年から留学生となってドイツに渡った。青木周蔵(山県有朋内閣外相),品川弥二郎(松方正義内閣内相),平田東助(桂太郎内閣内相),森鷗外など,彼らの中には政府高官・文化人として活躍した者も少なくない。明治維新政府は〈富国強兵〉の名のもとに,近代国家の建設に努めたが,そのモデルとしては,はじめイギリスが考えられたが,明治14年(1881)の政変以後,伊藤博文らの主張するプロイセン・ドイツ型の国家がその模範となった。…

【同志会】より

…大正初年の政党,立憲同志会の通称。日露戦争後政友会と妥協し,西園寺公望と交代で内閣を組織してきた桂太郎は,その第2次内閣(1908‐11)のときから,自分の意のままに動かせる政党をつくることを意図してきた。第3次内閣が護憲運動に脅かされた桂は,新党結成に踏み切り,13年2月7日,みずから立憲同志会創立委員長となって宣言と綱領を発表した。…

※「桂太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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