江辺庄(読み)えべのしよう

日本歴史地名大系 「江辺庄」の解説

江辺庄
えべのしよう

日野川南西岸、東山道(近世の中山道)の北西方に比定され、庄域は近世の永原ながはら村・きた村・中北なかきた村一帯にあたると考えられる。史料上は江部ともみえ、現在も大字永原の北西に江部の名が残る。立庄の時期などは不明。当庄を灌漑する祇王ぎおう井は平清盛の寵愛する白拍子妓王が故郷の江辺庄のために願い、清盛によって開かれたものという(万治元年成立「義王堂縁起」大谷家蔵)

「民経記」寛喜三年(一二三一)九月三日条に京都尊勝そんしよう(跡地は現京都市左京区)領江辺庄とみえ、大飢饉のため伊勢神宮に派遣される奉幣使役が免除されている。ただし尊勝寺は南北朝の内乱で焼失し当庄の領家職は移動したとみられる。文和三年(一三五四)には佐々木美作前司跡の当庄下司職が、足利尊氏から京極導誉に勲功の賞として宛行われた(同年四月八日「足利尊氏袖判御教書案」佐々木文書)。応永二六年(一四一九)一一月、当庄の総鎮守天神社(現菅原神社)の造替えが行われた際の棟札銘文(同社蔵)に領家藤原雅行、地頭源信清の名がみえ、願人の沙弥正光は永原正光とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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