金龍山と号し、聖観音宗総本山。本尊は聖観音(秘仏)。昭和二五年(一九五〇)までは天台宗に属していた。浅草観音とも称される。
室町時代末に作られたと思われる「浅草寺縁起」によれば、
中世には源頼朝が鎌倉に入る前に浅草寺で戦勝を祈願したことから鎌倉将軍家の祈願所となり(前掲縁起)、建久三年(一一九二)五月八日の鎌倉幕府による後白河法皇四十九日の法要には浅草寺の僧三口が招かれた。建長三年(一二五一)三月六日に浅草寺に牛のような怪物が出現した際には食堂に約五〇口の僧がいたという(吾妻鏡)。鎌倉時代後期には関東の天台教学の学問的中心として学僧を集め、また鎌倉時代に盛んとなった坂東三十三観音霊場の第一三番札所として庶民信仰の拠点となった。正応三年(一二九〇)八月、信濃からの帰途浅草寺に詣でた後深草院二条は「浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに(中略)観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに」と記しており(とはずがたり)、当時は堂周辺は一面野原で、宿などは建てられていなかったことをうかがわせる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都台東(たいとう)区浅草(あさくさ)にある聖観音宗(しょうかんのんしゅう)の総本山。金龍山(きんりゅうざん)伝法院と号する。本尊は聖観音菩薩(ぼさつ)で、浅草観音(あさくさかんのん)の名で有名。坂東三十三所(ばんどうさんじゅうさんしょ)の第13番札所。1950年(昭和25)に独立するまでは天台宗に属した。縁起によると、628年(推古天皇36)檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、宮戸川(隅田川)で漁をしていると1寸8分(約5.5センチメートル)の黄金の聖観音像がかかり、その観音に祈ると多くの魚がかかった。土師直中知(はじのあたいなかとも)が自宅を寺として安置したのが本寺の始まりという。645年(大化1)諸国巡遊の勝海が堂宇を建立し、開山となった。夢告により本尊は秘仏とされ、以後、開帳は厳禁されている。天台宗の円仁は、857年(天安1)本尊にかわる御前立(おまえだち)本尊(開帳本尊)と板木の観音像を刻したので、中興開山といわれる。平将門(たいらのまさかど)の乱で堂宇を焼失したが、安房守(あわのかみ)平公雅(たいらのきみまさ)が祈願成就して武蔵(むさし)国守になったことにより、諸堂宇を建て寺領数百町を寄せたという。のち、たびたび火災を受けたが、源義朝(みなもとのよしとも)・頼朝(よりとも)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、北条氏康(ほうじょううじやす)らの尊崇を受け再建された。江戸に徳川幕府が開かれると、幕府の祈願所となり、寺領500石を受け、江戸有数の大寺となった。また庶民の信仰を集め、行楽の地となり、明治期には境内の大部分は浅草公園となった。1945年(昭和20)戦災により二天門(1618建立、国重要文化財)と伝法院以外を焼失したが、戦後復興に努力し、1958年に再建、続いて1960年に雷門(かみなりもん)、1964年に宝蔵門、1973年に五重塔も再建された。五重塔にはスリランカより将来された仏舎利(ぶっしゃり)を納めている。宝物は多く、平安時代に書写された伝小野道風(おののとうふう)筆『法華経(ほけきょう)』10巻(開結とも)は国宝、もと鎌倉・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)所蔵の元版一切経(いっさいきょう)は国の重要文化財に指定されている。伝法院は浅草寺の本坊で、1777年(安永6)に建立、伝小堀遠州作の池泉回遊式庭園がある。雷門から宝蔵門に至る間は仲見世(なかみせ)で、86軒の店が並び、新仲見世とともに門前町をなしている。7月9、10日に参詣(さんけい)すると四万六千日(しまんろくせんにち)参詣の功徳があると信ぜられ、当日はほおずき市(いち)が立ち、にぎわう。2月8日の針供養会、3月18日の本尊示現会、12月31日~1月6日の修正会(しゅしょうえ)など多くの行事がある。創建にかかわる中知・浜成・竹成の3人を祀(まつ)る浅草神社(あさくさじんじゃ)は三社権現(さんじゃごんげん)といわれ、5月の第3日曜までの3日間に行われる三社祭は江戸三大祭の一つで名高い。
[田村晃祐]
東京都台東区浅草2丁目にある寺で,俗に浅草(あさくさ)観音と称される。山号金竜山。天台宗に属していたが,1950年聖観音宗を立て支院25ヵ寺,末社18舎をひきいる総本山となった。縁起によれば628年(推古36)宮戸川(隅田川)で漁をしていた檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり,郷司土師(はじ)中知と3人でこれをまつったのが最初という。これが1寸8分(約5.45cm)で金無垢と伝える本尊であるが,645年(大化1)勝海上人が東国に巡歴して本堂を開山し,観音像を夢告により秘仏とした。857年(天安1)慈覚大師円仁が堂舎を増築し,秘仏を模刻して中興開山となった。また朱雀天皇の代(930-946)には安房守平公雅が上京のおり参詣して武蔵守たらんことを祈り,心願成就して堂塔伽藍を寄進したという。鎌倉時代以後は源頼朝以下将軍家の帰依を受けるなど武将や文人たちの尊崇を集め,東日本随一の観音霊場とされて坂東三十三所の13番目の札所となった。徳川家康は1590年(天正18)3ヵ条の禁制を下し,天海僧正の進言で幕府祈願所に定めるとともに,隣接する駒形,花川戸,千束の地500石を寺領として寄進した。しかし1685年(貞享2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから,上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制を受けた。当時一山は寺中34ヵ寺によって運営され,末寺17,門徒8,末寺の門徒2を従える大寺であった。
寺内町の仲見世は江戸きっての盛り場であり,網野宥俊《浅草寺史談抄》などによれば境内の奥山には芝居・見世物小屋が並んで,松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈,軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった。また三社権現(現,浅草神社。檜前兄弟と土師をまつる)の祭礼三社祭は江戸三大祭の一つとされ,四万六千日(ほおずき市),歳の市(羽子板市)などとともに今日も続く代表的祭礼となっている。堂塔は関東大震災にも無事で人々の観音信仰を集めたが,太平洋戦争による空襲で焼亡し,本堂は1958年,五重塔は73年再建された。寺宝に伝小野道風筆法華経(国宝),元版一切経(重要文化財),尊円法親王筆愛染法などがあり,伝法院には遠州流の回遊式庭園がある。江戸期を記録する《浅草寺日記》がある。
→浅草
執筆者:北原 進
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東京都台東区にある聖観音宗の総本山。金竜山と号す。坂東三十三所観音の13番で,浅草観音の名で知られる。628年(推古36)檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成兄弟が宮戸川(隅田川)から1寸8分の黄金の観音像を引きあげ,土師真中知(はじのまなかち)の自宅に祭ったのが始まりという。942年(天慶5)平公雅が再建,11世紀半ばに寂円が再興した。源頼朝や足利尊氏らが寺領を寄進し,徳川家康の江戸入府後はその保護を得て隆盛した。火災のたびに幕府の援助で再建された。同寺を中心に浅草は江戸の盛り場として繁栄,5代将軍綱吉のとき寛永寺の支配下におかれた。1945年(昭和20)戦災で焼失。50年天台宗から独立し,63年本堂再建。伝法院は同寺の本坊。所蔵の「法華経」は国宝。
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…東京都台東区東部,隅田川西岸にある地名。江戸時代より浅草(せんそう)寺の門前町として栄え,明治以降も繁華街として発展した。1878年東京市15区制によって寺を中心とする南北に長い地区が浅草区となり,1947年に下谷区と合併して台東区の一部となった。…
…むしろ縁日に立つ市は,香具師仲間によって運営される習慣が江戸時代末期には一般化しており,近代以降になお引き継がれた。さまざまの縁日の中で江戸(東京)の浅草寺の縁日は,なんといってもその代表的事例である。7月の四万六千日の縁日に,明治中期以後縁起物として売られるようになったホオズキがそのままホオズキ市の名称となっているが,そうした厄除けの縁起物は,江戸時代以来,赤玉蜀黍(とうもろこし),茶筌(ちやせん)と変化してきており,それぞれの時代の流行物となっている。…
…この4万6000日という数字の由来は不明である。東京浅草(せんそう)寺の7月10日(現在は8,9日)の縁日がとくに著名。この称は江戸時代になって浅草寺で用いられたもので,享保20年(1735)版の《続江戸砂子》に見えている。…
※「浅草寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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