深川(読み)ふかがわ

精選版 日本国語大辞典 「深川」の意味・読み・例文・類語

ふかがわ ふかがは【深川】

[一] 東京都江東区西部の地名。仙台堀川と堀川にはさまれた隅田川左岸の低湿地で、隣接する門前仲町・富岡とともに、明暦の大火(一六五七)以後、富岡八幡宮の門前町として発達。安永・天明年間(一七七二‐八九)には深川遊里が栄えた。慶長年間(一五九六‐一六一五)摂津国(大阪府)の人、深川八郎右衛門によって開発されたところから呼ばれる。
[二] 旧東京市三五区の一つ。明治一一年(一八七八)東京府一五区制の発足により成立。同二二年、東京市の市制施行とともに東京市に編入された。昭和二二年(一九四七)城東区と合併して江東区の一部となる。
[三] 北海道中央部の地名。石狩平野の北端部にある。石狩川が貫流。明治二八年(一八九五屯田兵村の開設によって発展。道有数の米作地で、リンゴの栽培も行なわれる。木材加工・窯業・食料品などの工場がある。昭和三八年(一九六三)市制。
[四] 俳諧撰集。一冊。洒堂(しゃどう)編。元祿六年(一六九三)刊。洒堂が深川の芭蕉庵に滞在した折の記念集。「軽み」を代表する一集として高い評価を得た。

しんせん【深川】

江戸の岡場所の一つである深川(ふかがわ)をしゃれて音読した語。

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デジタル大辞泉 「深川」の意味・読み・例文・類語

ふかがわ【深川】[東京都の地名]

東京都江東区北西部の地名。富岡八幡宮の門前町。江戸時代は木材の集散地、木場きばとして繁栄。もと東京市の区名で、江東区の西半分を占めていた。

ふかがわ【深川】[北海道の市]

北海道中部の市。石狩平野北部に位置する。函館本線などの通る交通の要地。屯田兵の開拓により発達。米・リンゴ栽培などが行われる。人口2.4万(2010)。

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日本歴史地名大系 「深川」の解説

深川
ふかがわ

現江東区の西側北部一帯の地域呼称。江戸時代は西が大川(隅田川)、南が海浜、東はほぼ十間じつけん(現横十間川)、北はおおむねたて川以南(一部本所と交わる)が範囲であった。

〔小名木川の開削〕

深川の地名は徳川家康の江戸入府の頃に当地域を開拓した深川八郎右衛門の名にちなむ。摂津国出身という八郎右衛門ほか六名の者が、隅田川沿岸に近い小名木おなぎ川以北の地を開拓して深川村が成立したのが慶長元年(一五九六)で、それまでは海浜の地で一面萱野であったという。村内には鎮守として深川神明宮が創建された。深川村成立に先立つ天正一八年(一五九〇)家康入国の頃より小名木川の開削が進められた。同川は隅田川と中川を結ぶ運河で、下総国行徳ぎようとく(現千葉県市川市)産の塩を江戸城に運送するための水路として開削された。この運河の成立によって沿岸は急速に町場となり、深川村周辺は西の隅田川から東の猿江さるえ村付近までが深川町と総称されるようになった。また南岸部には海岸線を埋立てた所に海辺大工うみべだいく町が成立した。当初は海辺新田と総称されたが、元和―寛永(一六一五―四四)頃沿岸が奥川船の湊町となり船稼の者や船大工が集住し、早くから町場となった。このように小名木川は江戸への入口ともなったことから、隅田川口に通航の物資と人を監督する船番所が置かれた(のち中川口へ移転)。小名木川以北の隅田川沿岸には幕府船舶を格納する御船蔵が立並び、上流の浅草御米蔵・本所御竹蔵などとともに幕府の倉庫施設が集中していた。

〔掘割の開削〕

寛永年間には隅田川沿岸の砂洲状の地域が開発された。寛永六年の深川猟師ふかがわりようし町の成立である。現在の佐賀さが永代えいたい福住ふくずみ清澄きよすみ周辺の土地を整備して猟師町として居住したい旨の願出があり、開発者の名から付けられた猟師町八ヵ町が成立した。無年貢であったが将軍御成りの役船調達、月三回の御菜御肴の献上などが義務付けられていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「深川」の意味・わかりやすい解説

深川 (ふかがわ)

東京都江東区西部の地名。旧深川区にあたり,隅田川河口の東岸を占める。〈深川〉の名は慶長年間(1596-1615)に大坂から移住してこの付近を開発した深川八郎右衛門にちなむといわれる。江戸城の辰巳(たつみ)(南東)の地にあたるところから辰巳とも称した。1878年深川区が設置され,1947年城東区とともに江東区となった。そのほとんどの地域が江戸時代以来の埋立地であるうえ,第2次大戦後,地盤沈下が急速に進み,いわゆる0メートル地帯が広くみられる。浸水を防ぐため東京湾や隅田川沿いには防潮堤がめぐらされている。東京湾の埋立ての拡大によって,かつては海に面していた地域もしだいに内陸化し,縦横に走っていた水路や木場の貯木池もその多くは埋め立てられた。高度経済成長期以後,大気や河川水質の汚染,騒音公害により居住環境は急速に悪化し,一時は人口の減少をみたが,最近は汚染源の工場の移転,汚染防止対策の実施,公園緑地の設置などにより居住環境は改善されつつある。さらに営団地下鉄(現,東京地下鉄)東西線,都営地下鉄新宿線の開通により都心への交通が便利となり,多くの集合住宅が建てられるようになった。1627年(寛永4)創建の富岡八幡宮,1878年に岩崎弥太郎が全国の奇岩名石を集めて造成した清澄庭園などがある。
執筆者:

徳川家康は城下町としての江戸を整備する過程で,行徳の塩の輸送路として小名木(おなぎ)川を開き,ひきつづき海岸を埋め立てていった。1641年(寛永18)の江戸の大火後,幕府は市中に散在していた木置場を深川に集中した。この深川材木町は一時本所に移転したが,近年まで江戸・東京の木材供給地,木場として存続した。他方,深川の東地域は寛永期から隅田川河口付近の開発が進められ,明暦の大火(1657)後には多数の寺院や武家屋敷が設けられた。町人の移住も多くなったため,1713年(正徳3)には,一部が町奉行の支配に組みこまれ,さらに20年(享保5)には,深川全域の町々が町奉行の支配するところとなった。こうした発展の契機になったのは,1693年(元禄6)の新大橋,98年の永代橋の架橋であった。

 深川の地は水運の便がよく,大名などの蔵屋敷や,民間の倉庫が置かれた。とくに深川猟師町周辺には米問屋が多く,油や干鰯(ほしか)の集散地にもなった。さらに,深川十万坪などでは鋳銭も行われた。しかし,深川の地は江戸の焼土や塵芥によって埋め立てられた低湿地帯であったため,洪水や高潮の被害も大きかった。とくに1791年(寛政3)の被害は大きく,洲崎周辺の居住が禁止された。明治以後,清澄町の浅野セメント工業(1871設立)に代表されるように,近代工業の中心地帯となった。関東大震災では区域内の5万1900戸のうち4万9000戸が焼失,約20万人が焼け出された。震災後,土地区画整理が行われ,江戸時代以来の市街地も一新し,道路,運河が整備された。第2次大戦中,とくに1945年3月10日の東京大空襲により再び壊滅的な被害をこうむった。

 一方,富岡八幡宮の門前町を中心として発展した深川地区は,18世紀以後岡場所としても著名となった。門前仲町をはじめ越中島にも料亭などが軒を並べた。深川芸者辰巳芸者とも呼ばれ,独特の気風を生みだした。吉原の〈派手〉に対し〈粋〉を身上とし,また〈いなせ〉〈きゃん〉を誇りとする気質は江戸っ子に喜ばれ,洒落本や人情本などにも反映され,江戸文化の一特色ともなった。富岡八幡宮の相撲興行,霊岸寺,永代寺の開帳や富くじなども,盛場としての深川の発展の要素であった。さらに芭蕉庵に代表されるように,文人・学者で深川に居住した者も多かった。
執筆者:

深川[市] (ふかがわ)

北海道中部,石狩平野北部の市。1963年深川,一已(いつちやん),納内(おさむない)の3町と音江村が合体,市制。人口2万3709(2010)。神居古潭(かむいこたん)の峡谷を出た石狩川が西流し,雨竜川が南流する。中心の深川は1890年ころ華族農場の一つであった菊亭農場の事務所が置かれた地で,95年には一已と納内に入植した屯田兵500戸が本格的に開拓を進めた。1916年に大正用水,27年には神竜用水が完成して平野の水田化がさらに進んだ。米のほか小麦,ジャガイモ,リンゴの生産も多い。木材加工業,砂利採取業も立地する。石狩平野北部の交通の要地で,JR函館本線と留萌(るもい)本線の交点にあたる。また道央自動車道が通じ,国道12号,233号線の分岐点でもある。南部の音江山山麓には,環状に石をめぐらした音江遺跡(史),鳩の湯温泉(含重曹食塩泉,6℃),湯の花温泉(炭酸鉄泉,14℃)がある。
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百科事典マイペディア 「深川」の意味・わかりやすい解説

深川【ふかがわ】

東京都の旧区名。1947年城東区と合併,江東区となった。隅田川河口左岸の低湿地を占め,運河が縦横に通じる。江戸初期に開発され,富岡八幡宮,深川不動尊などの門前町や木場を中心に発達。明治時代洲崎に遊廓(ゆうかく)ができた。現在は中小工場が多い。清澄庭園がある。
→関連項目岡場所元禄の大火講武所菅野兼山干鰯問屋

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「深川」の意味・わかりやすい解説

深川
ふかがわ

東京都江東区西部の地区で,旧区名。隅田川のデルタ地帯にあたり,小工場,商店,住宅が混在している。江戸時代には材木業が集中し,深川木場として繁栄した。南西部は富岡八幡宮,深川不動尊のある古くからの繁華街

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世界大百科事典(旧版)内の深川の言及

【長門[市]】より

…人口2万5118(1995)。三方を山に囲まれ,中央を深川(ふかわ)川が北流して深川湾に注ぐ。北東端の仙崎の砂嘴の先に青海(おうみ)島が浮かぶ。…

【江戸】より

…1721年(享保6)に幕府評定所は〈無宿幷宿なし同然の者〉が集住するようになった地域として,根津権現,護国寺門前,越中島辺,麻布,本所辺の新町をあげ,以後こうした新町の設立を認めないとしたように,拡大しつつあった都市域には,下層民が定着する,いわゆるスプロール現象が進行していったのである。こうした山手の町々が無秩序にスプロール化していったのに対し,寛文~元禄期(1661‐1704)に造成された本所・深川の地域では,整然とした町並みで,武家地と町地が設定されていったが,その町々にも多くの下層民が定着していった。 つぎに江戸の都市的膨張を町数の面からみると,寛永期の古町中心の300町から,1713年(正徳3)には,代官所支配地の町も編入して933町に,ついで45年(延享2)には寺社門前町の町地編入も含めて1678町と増大している。…

【蓬萊山人帰橋】より

…本姓河野氏。上州高崎藩士で江戸深川に住む。1779年(安永8)《美地の蠣殻(かきから)》以後,《通仁枕言葉(つうじんまくらことば)》(1781),《富賀川(ふかがわ)拝見》(1782)など,深川の遊里に強い愛着を持ち,その風俗をうがち,深川女の意気地を描く。…

※「深川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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