潮津村(読み)うしおづむら

日本歴史地名大系 「潮津村」の解説

潮津村
うしおづむら

[現在地名]青谷町青谷

青屋あおや村の東、勝部かちべ(青屋川)の右岸、同川支流日置ひおき(芦崎川)との合流点付近に位置する。北西は蘆崎あしざき村、南は大平田おおひらた村。北東の枝郷夏泊なつどまりは日本海に臨む漁村で、亀井茲矩統治の時代に開かれ、江戸後期には庄屋も本村とは別に置かれていた。伯耆街道が通る。集落は家並続きの蘆崎、勝部川対岸青屋のそれと一続きの街区を形成しており、この町場を称して青屋(青谷)ともよぶ。当地は町場の中心をなし、上青屋ともいわれた(「因幡志」など)。伯耆街道の青屋宿が置かれ、集落東部、王子権現(現潮津神社)の辺りに制札場が設けられていたと伝える。また青屋御山奉行の居住地で(藩史)、「勝見名跡誌」は商家が多く農民は少ないと当地の様子を記す。拝領高は七七三石余、本免は六ツ一分。「因幡志」によると本村の家数一一〇余、夏泊は三六。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高八八四石余、竈数一九〇。「因幡民談記」は産物として蚫・栄螺・和布をあげる。

寛政四年(一七九二)・同八年・文政一二年(一八二九)などに青屋御蔵の蔵米払下げを願出て許可されている。文政一二年の願書では、飯米買食者が多く、前年は作柄も悪く売米などもなく難渋していると申立てている(在方諸事控)。天保一四年(一八四三)当村・青屋村蘆崎村の酒屋から自家用肥料にした残りの酒粕一千貫目余を伯州河村かわむら久米くめ二郡の灘村々へ積出願が提出され許可された。自家用肥料にした残りの酒粕の積出願は、その後も何回か提出され、いずれも許可されている。「在方諸事控」では同一五年には上記三ヵ村の酒屋で一千五〇〇貫目を久米郡の灘へ、弘化三年(一八四六)には当村・蘆崎村の二ヵ村で一千五〇〇貫目を同所へ、翌四年にも上記二ヵ村の酒屋で一千五〇〇貫目を同所へ積出しているのがおもなものである。

潮津村
うしおづむら

[現在地名]加賀市潮津町・片山津温泉かたやまづおんせん

柴山しばやま潟の西岸、片山津村の北に位置し、縄文時代の潮津上出うしおづかみで遺跡がある。かつてはこの遺跡付近まで海が入り込んで「やしわの湊」とよばれていたという憩紀聞。「延喜式」神名帳の潮津神社鎮座地で、同書兵部省諸国駅伝馬条にみえる北陸道の潮津駅があったと推定されている。時衆過去帳(清浄光寺蔵)に永和四年(一三七八)一二月九日の潮津の作阿を初見として、潮津在住の僧・尼衆が遊行一八代如象(在位一四六七―七一)に結縁した其阿まで七人確認できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報