1588年,スペイン王フェリペ2世がイギリス制圧のために派遣した艦隊。アルマダとも呼ばれる。〈無敵艦隊Armada Invencible〉の名は後世イギリス人が付けたもので,当のスペインでは単に〈大艦隊Gran Armada〉と呼ばれた。いずれにせよ,事件そのものとしては〈ドーバーの海戦〉と呼ぶべきものである。
16世紀後半,西ヨーロッパ情勢は宗教分裂に政治対立が重なり,複雑を極めた。その中にあってハプスブルク体制の筆頭国でありカトリック・ヨーロッパの覇者を自任するスペインにはおのずから周囲の嫉妬,警戒心,敵意が集中した。スペインとイギリスは16世紀前半までは良好な関係にあった。しかし,エリザベス1世が即位(1558)すると,やがてカリブ海域におけるそれまでのスペインの独占体制がイギリス船の進出によって破られ,加えてエリザベスはフランドルの反スペイン闘争を積極的に支援した。このために両国関係は一転して悪化の一途をたどり,その過程でエリザベスはフェリペ2世がスコットランドでのカトリック再興の希望を託していたメアリー・スチュアートを処刑した。ここに至ってフェリペはついに実力行使に踏み切った。
当時のスペイン王室の歳入額に相当する金額を投じてリスボン港で編成された〈大艦隊〉は戦艦68隻を含む合計130隻で,これに陸海合わせて約3万近くの将兵が乗り込んだ。艦隊の目的はフランドル駐留の陸軍をイギリスに輸送することにあり,海戦の場合は伝統的な衝角戦で臨む戦術だった。しかし,迎えるイギリス海軍は射程の長い軽砲を装備した動きの速い小型船を主力に据えていた。両軍の戦術と装備の違いは7月30日の緒戦からイギリス軍の有利となって現れ,スペイン軍は悪天候下の狭いドーバー海峡を北へ追われるはめに陥った。そしてカレー港で火船の奇襲を受けてからは統率と戦意を失って北海経由でひたすらスペインに帰着することだけを目ざした。船の3分の2以上は帰着を果たしたが,多くの下士官と水兵が死んだ。
従来,〈大艦隊〉の敗北はただちに両国海軍の地位の逆転をもたらしたとされてきたが,実際にはフェリペは2年間で海軍を再建・補強し,その結果,海戦後40年間はスペインの大西洋支配は不動だった。それでも遠征の失敗は,グラナダ征服戦以来自国の軍事行動を神への奉仕と確信してきたスペインの世論に,深刻な動揺を与えたことは確かである。
執筆者:小林 一宏
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アルマダともいう。1588年,オランダ独立を援助するイギリスに対して派遣されたスペインの大艦隊。「無敵艦隊」の名称は後世につけられた。船数は130隻,乗船兵は約3万人を数えた。旧式な接近戦を挑むスペイン軍に対し,軽砲装備の小型船で戦うイギリス軍は終始優勢を保ち,ドーヴァ海峡の悪天候もあって,スペイン軍は大敗北を喫した。この遠征の失敗は「太陽の沈まぬ国」スペインの威信失墜につながった。
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…ローマ植民市アルドビクム・コロニウムから発展した町で,5世紀にはスエビ王国の首都になった。1588年無敵艦隊がここから出港し,翌年イギリス艦隊の砲撃により町は破壊された。海岸通りは,白枠のガラス窓が鏡のように並び,〈ガラスの町〉と別称されている。…
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