牧野伸顕(読み)まきののぶあき

精選版 日本国語大辞典 「牧野伸顕」の意味・読み・例文・類語

まきの‐のぶあき【牧野伸顕】

政治家外交官。名は「しんけん」とも。大久保利通の次男。鹿児島県出身。イタリア公使、文相、農商務相、外相などを歴任。パリ講和会議全権委員となる。また、対英米協調外交を推進官僚・軍部・政党調整に努めた。二・二六事件では狙撃をうけたが、危うく難を逃れた。吉田茂は女婿。文久元~昭和二四年(一八六一‐一九四九

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デジタル大辞泉 「牧野伸顕」の意味・読み・例文・類語

まきの‐のぶあき【牧野伸顕】

[1861~1949]政治家。鹿児島の生まれ。名は「しんけん」とも。大久保利通の次男。文相・外相・内大臣などを歴任。二・二六事件で襲撃され、以後引退。

まきの‐しんけん【牧野伸顕】

まきののぶあき(牧野伸顕)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧野伸顕」の意味・わかりやすい解説

牧野伸顕
まきののぶあき
(1861―1949)

明治から昭和期の外交官、政治家。文久(ぶんきゅう)1年10月22日薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。大久保利通(おおくぼとしみち)の次男。牧野家を継ぎ、1871年(明治4)岩倉具視(いわくらともみ)らの遣外使節に父に同行してアメリカに留学。1880年外務省書記生としてロンドンに在勤中、伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を受け、帰国後、福井・茨城両県知事、文部次官、イタリア公使、オーストリア公使を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文相、1907年男爵となり、その後、枢密顧問官、第二次西園寺内閣の農商務相のち文相を兼任、第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の外相、臨時外交調査委員を歴任した。1919年(大正8)パリ講和会議全権、1920年子爵(1925年伯爵)、1921年宮内大臣、1925年から1935年(昭和10)まで内大臣を務めた。薩摩派の巨頭といわれ、元老西園寺と親しく、親英米派宮廷勢力の中心人物として活躍したため、二・二六事件の際襲撃されたが、難を免れた。吉田茂(よしだしげる)は女婿(じょせい)。昭和24年1月25日死去。

[木坂順一郎]

『牧野伸顕著『回顧録1~3』(1948~1949・文芸春秋新社)』『牧野伸顕著、伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顕日記』(1990・中央公論社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「牧野伸顕」の意味・わかりやすい解説

牧野伸顕
まきののぶあき

[生]文久1(1861).10.22. 鹿児島
[没]1949.1.25. 千葉
政治家,外交官。大久保利通の次男。大叔母の婚家を継ぐ。明治4 (1871) 年,西郷隆盛が勅命により上京したとき,ともに上京。同年岩倉遣欧使節団に留学生として随行,渡米。西郷の息子菊次郎,村田新八の息子十蔵らとともにフィラデルフィアで中学に通った。 1874年帰国。 79年,外務省見習いを経て翌年,公使森有礼のもとでロンドンの日本公使館アタッシェとなり渡英。 83年太政官制度取調局に出仕。のち黒田内閣の総理大臣秘書官,福井,茨城県知事などを歴任した。 92年文部次官となった。このとき学校樹栽日を提唱。 96年イタリア公使となり,日露戦争中オーストリア大使。 1906年第1次西園寺内閣のもとで文部大臣に就任し,開成学校以来の学友岡倉天心の協力を得て文展を創設。また東北,九州の2帝国大学を開設した。第2次西園寺内閣の農商務大臣,山本内閣の外務大臣を経て,19年パリ講和会議の全権委員。帰国後,宮内大臣,25年より平田東助の後任として内大臣についた。東亜同文書院会長,日本棋院総裁などをもつとめた。

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朝日日本歴史人物事典 「牧野伸顕」の解説

牧野伸顕

没年:昭和24.1.25(1949)
生年:文久3.10.22(1863.12.2)
明治から昭和前期の政治家,昭和天皇の側近。大久保利通と満寿子の次男で,牧野家を継いだ。明治4(1871)年岩倉使節団に実父と随行,アメリカで勉強した。7年帰国して東京開成学校に入学したが,12年中退し外務省に入り,ロンドン日本公使館勤務。伊藤博文に見いだされ,法制局参事官など歴任後,21年黒田清隆総理秘書官,内閣記録局長,福井,茨城県知事などを経て,26年から29年文部次官。30年駐伊公使,32年駐オーストリア公使に任ぜられ,約10年ヨーロッパにあった。帰国して,39年第1次西園寺公望内閣の文部大臣に就任,義務教育年限延長,文部省美術展覧会開催に尽力,この間男爵を授与される。42年枢密顧問官。44年第2次西園寺内閣に農商務大臣として入閣,大正2(1913)年第1次山本権兵衛内閣にも入閣,外相を務めた。6年臨時外交調査委員会委員。8年のパリ講和会議には西園寺らと日本全権として出席,日本側の実質的中心の役割を果たした。9年その功により子爵。10年宮内大臣,14年には内大臣に就任し,のちの昭和天皇の摂政就任,成婚などに心血を注ぎ,14年に伯爵を授けられた。昭和10(1935)年に辞職するまで,国際協調推進,立憲政治擁護の立場で西園寺元老と共に天皇を補佐し,深い信任を得た。そのため軍部,民間の「革新」派から「君側の奸」として攻撃され,暗殺の対象とされた。5・15,2・26事件の際襲撃されたが危うく難を逃れた。辞職後も同じ立場で陰で活動し,敗戦後病没。回顧録,日記が刊行されている。

(伊藤隆)

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改訂新版 世界大百科事典 「牧野伸顕」の意味・わかりやすい解説

牧野伸顕 (まきののぶあき)
生没年:1861-1949(文久1-昭和24)

政治家,外交官。鹿児島出身。大久保利通の次男で,のち牧野家の養子となる。開成学校(東京帝国大学の前身)を中退し,1871年(明治4)岩倉使節団の大久保に従い渡米・留学する。80年外務省に入りロンドンに在勤し,伊藤博文に知られる。その後参事院議官補,法制局参事官,首相秘書官,内閣記録局長等を経て福井,茨城各県知事,文部次官に就任した。97年イタリア,99年オーストリア公使等を歴任して第1次西園寺公望内閣の文相となった。1909年枢密顧問官,第2次西園寺内閣の農商務相,第1次山本権兵衛内閣外相,臨時外交調査会委員となる。この間14年貴族院議員に勅選。19年パリ講和会議に次席全権として赴いた。21年宮内大臣,25年内大臣として元老西園寺を背景に宮廷の実権を握り,準元老的存在として官僚・政党・財閥・軍部間の利害を調整する役割を演じた。しかし軍部の台頭とともに親英米派,現状維持派の非難を受け,二・二六事件で襲撃されたが難を逃れ,以後,帝室経済顧問,東亜同文会会長等を務めた。25年伯爵。のちの首相吉田茂はその女婿。《回顧録》(全3巻)がある。
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百科事典マイペディア 「牧野伸顕」の意味・わかりやすい解説

牧野伸顕【まきののぶあき】

政治家,外交官。大久保利通の子。1880年外務省に入り伊藤博文の知遇を得た。第1次西園寺公望内閣の文相をつとめ,その後農商務・外務各相などを歴任。1919年パリ平和会議の全権委員。政治的には西園寺に近く,また薩摩閥の中心として活動。軍部からはその親英米,自由主義を批難され,二・二六事件では危うく難を免れた。吉田茂は女婿。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「牧野伸顕」の解説

牧野伸顕
まきののぶあき

1861.10.22~1949.1.25

明治~昭和期の政治家。伯爵。大久保利通(としみち)の次男。薩摩国鹿児島に生まれ,牧野家の養子となる。岩倉遣外使節団に同行してアメリカに留学。開成学校(のち東大)中退後,外務省出仕。黒田首相秘書官・文部次官・駐伊公使・駐オーストリア公使などをへて,1906~08年(明治39~41)第1次西園寺内閣の文相。のち枢密顧問官・農商務相・外相。19年(大正8)パリ講和会議全権委員。21年宮内相,25~35年(大正14~昭和10)内大臣。国際協調・立憲政治擁護の立場から摂政宮(のち昭和天皇)を補佐したが,急進派青年将校からは親英米派・自由主義者と目され,5・15事件,2・26事件で襲撃目標とされた。吉田茂は女婿。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「牧野伸顕」の解説

牧野伸顕 まきの-のぶあき

1861-1949 明治-昭和時代前期の政治家。
文久元年10月22日生まれ。大久保利通(としみち)の次男。吉田茂の岳父。遠縁の牧野家をつぐ。外務省にはいり,駐イタリア公使などをつとめる。明治39年第1次西園寺(さいおんじ)内閣の文相となり,義務教育の4年から6年への延長などに尽力。のち枢密顧問官,農商務相,外相,パリ講和会議全権,宮内相,内大臣を歴任。伯爵。昭和24年1月25日死去。89歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。著作に「回顧録」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「牧野伸顕」の解説

牧野伸顕
まきののぶあき

1861〜1949
大正・昭和期の政治家
大久保利通の2男。薩摩(鹿児島県)の生まれ。ロンドン日本大使館在任中,伊藤博文の知遇を得て外交官から政界に入り,文部大臣・枢密顧問官・パリ講和会議全権・宮内大臣・内大臣などを歴任。親英米派の重鎮であったため,二・二六事件(1936)で襲撃され難を逃れたが,引退した。

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世界大百科事典(旧版)内の牧野伸顕の言及

【ヒューズ】より

…ベルサイユ講和会議では賠償問題委員会副委員長となり,ドイツ領ニューギニアを自国の委任統治領として獲得した。また日本代表牧野伸顕と白豪主義問題で渡り合った。さらに国際連盟憲章への人種平等条項挿入に反対し,これを葬り去った。…

※「牧野伸顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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