猪尻村(読み)いのしりむら

日本歴史地名大系 「猪尻村」の解説

猪尻村
いのしりむら

[現在地名]脇町猪尻

東流する吉野川の左岸(北岸)、南流する同川支流大谷おおたに川を挟んで脇町の東に位置し、吉野川沿いに撫養むや街道が横断する。北は北庄きたのしよう村、東は拝原はいばら村、吉野川の対岸南方は舞中島まいなかしま(現穴吹町)など。村域の北西部を占める大谷川左岸扇状地と、その南東方に展開する吉野川氾濫原の平野部からなり、氾濫原(猪尻島とも)に水田が広がっていた。井尻とも書き、地名は洪積台地崖下の湧水に由来するといわれる。寛永一四年(一六三七)の脇城廃城後、同城代であった稲田氏は脇町の屋敷を当地に移し、また郷役所(猪尻役所)を併設した(「脇町成行之記録」脇家文書など)。この役所は稲田氏の阿波国の所領(美馬郡を中心とし、麻植郡・三好・板野などの諸郡に点在)の支配拠点となり、屋敷周辺には家臣団や稲田家用人の各種職人が居住していた。なお天保郷帳には「古ハ井之尻村・上野村弐ケ村」の注記がある。この上野村は村の北部、北庄村との境界付近の呼称と思われ、近世前期の郷村帳類などでは上野村を本村とは別筆の一村として扱う場合もあった。


猪尻村
いのしりむら

[現在地名]上石津町上多良かみたら

牧田まきだ川左岸にある山間村。対岸は小山瀬こやませ村。元禄郷帳に村名がみえ、高二四一石余で旗本青木右門領。天保六年(一八三五)一二月、小倉おぐら山などの山境をめぐって起こった争論の裁許にほかの六村の庄屋などと連署して評定所へ請書を差出している(「多良郷小山瀬村・欠ノ脇村他五ヶ村山境争裁定請書」福長文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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