日本仏教の一宗派で、真言密教、真言陀羅尼宗(だらにしゅう)ともいう。開祖は空海(弘法大師(こうぼうだいし))。中国の唐代における密教を、平安初期に空海がわが国に伝えて一宗として開いたもの。真言はマントラmantraの訳で、教主大日如来(だいにちにょらい)が説いた真実のことば。類語に陀羅尼、明呪(みょうしゅ)、呪(しゅ)、密言(みつごん)などがある。真言の教えを中核とする意味で宗名としたもの。
[宮坂宥勝]
インドでは4世紀ころから除災招福のいわゆる雑部密教(ぞうぶみっきょう)の経典が盛んに行われ、4~6世紀のグプタ朝全期を通じて、仏教における儀礼儀式、真言、印契(いんげい)、曼荼羅(まんだら)などが発達し、7世紀ころ『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』の両部の経典が相次いで成立し、組織的、体系的な密教が完成した。
この両部の密教は8世紀なかばころ、善無畏(ぜんむい)(シュバカラシンハ)、金剛智(こんごうち)(バジラボディ)、不空(ふくう)(アモーガバジュラ)によって唐へ伝えられ、密教の最盛期を迎えた。9世紀の初め、空海が入唐(にっとう)して、長安(現在の西安)の青龍寺(せいりゅうじ)東塔院の恵果(けいか)から大日・金剛頂両部の密教を授かり、帰国後に独自の立場から真言宗を開いた。密教の相承(そうじょう)は二つある。一つは付法の八祖で、大日如来→金剛薩た→竜猛(りゅうみょう)→竜智→金剛智→不空→恵果→空海、他は伝持の八祖で、竜猛→竜智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海と伝承された。空海は帰国後、京都・高雄山寺(たかおさんじ)に住し、その後、高野山(こうやさん)を修行の道場として開創し、また根本道場として嵯峨(さが)帝から東寺(教王護国寺)を給預(きゅうよ)された。彼は真言宗の宣揚に努め、幅広く社会的、文化的活動を多方面にわたって展開した。空海の十大弟子のうち実慧(じちえ)は東寺の、真然(しんぜん)は高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の発展に努めた。その後、益信(やくしん)(本覚大師(ほんがくだいし))と聖宝(しょうぼう)(理源大師(りげんだいし))によって密教の法流は継承され、益信の弟子の宇多法皇(うだほうおう)は仁和寺(にんなじ)を開山した。聖宝は醍醐寺(だいごじ)を開山し、また大和(やまと)(奈良県)金峯山(きんぷせん)に登って修行し、修験道(しゅげんどう)の中興の祖と仰がれる。聖宝の弟子観賢(かんげん)は醍醐帝に奏上し、空海に弘法大師の諡号(しごう)を賜った。皇室・貴顕の帰依(きえ)が多くなり、造寺・造像・写経などとともに修法(しゅほう)も盛んに行われ、実修面(事相(じそう)。東密)の分派が始まった。益信の流れをくみ京都・広沢(ひろさわ)に遍照寺(へんじょうじ)を建てた寛朝(かんちょう)の広沢流、聖宝の流れをくみ京都・小野に曼荼羅寺(まんだらじ)を建てた仁海(にんがい)の小野流に分かれ、それらを野沢二流(やたくにりゅう)という。のちにそれぞれ6流に分かれたので、野沢十二流、その後さらに分派して鎌倉時代には東密三十六流を称した。
高野山は大師入定(にゅうじょう)の聖地、高野山浄土の信仰の山として栄えたが、一時衰微した。1016年(長和5)定誉(じょうよ)が復興し、このころ藤原道長・頼通(よりみち)父子が登山し、また院政期には白河(しらかわ)、鳥羽(とば)両上皇の登山、帰依を受けた。覚鑁(かくばん)(興教大師(こうぎょうだいし)、1095―1143)は高野山に大伝法院(だいでんぽういん)を建て、空海の教学の復興に努めたが、金剛峯寺側と相いれず、紀州(和歌山県)根来山(ねごろさん)に退いた。140年後、頼瑜(らいゆ)、聖憲(しょうけん)らが根来寺大伝法院の教学を確立したので、のちに覚鑁系を新義派、伝統的な教学を古義派というに至った。覚鑁は高野山教学の中興の祖、新義派の祖師と仰がれる。鎌倉初期、高野山に覚海(かくかい)が出、門下の道範(どうはん)、法性(ほっしょう)らは高野の八傑といわれた。また、栄西(えいさい)の高弟の行勇(ぎょうゆう)は高野山に金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を建てて禅風を伝え、法然(ほうねん)(源空)の高弟明遍(みょうへん)は蓮華三昧院(れんげさんまいいん)を建てて称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を広めた。また重源(ちょうげん)は新別所を開いて浄土念仏の拠点とした。このように高野山は諸宗を包容し、真言宗の教学を豊かなものにした。鎌倉時代には新義派は関東方面に広まり、また奈良・西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)は真言律宗の一派を開いた。彼は社会活動を進め、多くの人々に救済の手を差し伸べたことでも知られる。室町時代に長覚、宥快(ゆうかい)が高野山の教学を大成した。東寺では頼宝(らいほう)とその弟子の杲宝(ごうほう)、また賢宝(けんぽう)が出て、大いに教学を盛んにした。しかし1585年(天正13)3月、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は根来寺を攻撃して壊滅させた。時の学頭の専誉(せんよ)は難を避けて大和(やまと)(奈良県)長谷寺(はせでら)に移り、同じく玄宥(げんゆう)は京都(後の東山七条智積院(ちしゃくいん))に移って、それぞれ新義真言宗を再興した。これが新義真言宗の豊山派(ぶざんは)と同智山派(ちさんは)の始まりで、専誉、玄宥はそれぞれその派祖と仰がれる。秀吉は木食応其(もくじきおうご)の説得で高野山攻撃を中止し、かえって高野山の再興を援助したので、木食は復興に努め、青巌寺(せいがんじ)と興山寺(こうざんじ)を建てた。江戸初期には頼慶(らいけい)が高野山諸法度の制定に協力した。江戸時代全期を通じて高野山には山史の編集でみるべきものが多く、多くの学匠を輩出したが、とくに京都・智積院に運敞(うんしょう)、長谷寺に亮汰(りょうたい)が出て並び称された。豊山派の法住(ほうじゅう)・快道(かいどう)・戒定(かいじょう)を天明(てんめい)の三哲という。このほか、江戸霊雲寺(れいうんじ)の浄厳(じょうごん)、河内(かわち)(大阪府)高貴寺(こうきじ)の飲光(おんこう)(慈雲尊者(じうんそんじゃ))のように梵学(ぼんがく)を研究し、戒律復興に努めた人々もいる。契沖(けいちゅう)は真言僧で国学研究に先鞭(せんべん)をつけた。なお、鎌倉初期以来、高野聖(こうやひじり)が高野山の信仰を広め、堂塔伽藍(がらん)の復興のため全国を勧進(かんじん)して歩いたことも特記すべきであろう。
[宮坂宥勝]
『大日経』『金剛頂経』を根本所依の経典とし、これに『蘇悉地経(そしつじきょう)』『瑜祇経(ゆぎきょう)』『要略念誦経(ようりゃくねんじゅきょう)』を加えて五部秘経という。常用経典は『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』。また『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』『菩提心論(ぼだいしんろん)』『大日経疏(しょ)』『金剛頂経義訣(ぎけつ)』などの論書、空海著作の『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』『吽字義(うんじぎ)』『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』を依用する。空海密教の立場では顕教と密教とを弁別し、また心の発達段階、修行の向上過程を十住心体系で明らかにする。
教理的な面を教相(きょうそう)、儀式・作法などの実修的な面を事相(じそう)といい、両者は不可分の関係にある。教相は、本体論(六大)、様相論(四曼(しまん))、活動論(三密)に分けられる。本体論では万有一切(いっさい)は地・水・火・風・空・識の六つの粗大な要素(六大)からなり、これらによって象徴された仏身を六大法身(ほっしん)といい、すなわち大日如来の存在である。全宇宙は六大から構成されているので、個別的な存在はすべて大日如来と本質的には同一であるとする。様相論の立場からはすべてを曼荼羅maalaとする。曼荼羅は輪円具足(りんねんぐそく)の意味があり、大日如来を中心とし、その顕現としての仏菩薩(ぶつぼさつ)など諸尊の集合した宇宙的統合体として表現される。曼荼羅は全体的世界像として諸尊を表現したもの(大曼荼羅)、象徴的世界像として諸尊の持物を表現したもの(三昧耶曼荼羅(さんまやまんだら))、言語的世界像として諸尊を示す種子(しゅうじ)(梵字)を表現したもの(法曼荼羅)、活動的世界像として諸尊の動作または材質を表現したもの(羯磨曼荼羅(かつままんだら))があり、これを四種曼荼羅(ししゅまんだら)という。なお、曼荼羅には『大日経』による胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)と、『金剛頂経』による金剛界曼荼羅とがある。前者は理法・平等相、後者は智慧(ちえ)・差別相を表す。両者は二にして一者であるとみる。活動論によると、大日如来の身体(行為)・言葉・意(こころ)の秘密のはたらき(三密)は、そのまますべての生けるものが本来具有する。そこでこれを開発するためには、まず悟りを求める心をおこし、日常の生活倫理の実践を前提として、手に印契(いんげい)を結び、口に真言を唱え、心を仏の悟りの境地に置けば、如来と自己の三密は合一して、この身さながらに現世で悟りを得、自己がすなわち仏として実現されるとする。これを有相(うそう)の三密といい、日常生活の起居動作、言語、精神活動がすべて三密の実践にかなうとき、これを無相の三密という。有相の三密は事相の基本となり、具体的には受戒得度、四度加行(しどけぎょう)、護摩(ごま)、灌頂(かんじょう)をはじめ、諸尊の供養法、諸種の行法など多岐にわたる。
空海密教は、現世において悟りを得て宗教的な最高の人格を完成する即身成仏、すべての人々を導き救う済世利民(さいせいりみん)をもって眼目とする。
[宮坂宥勝]
明治初年以来、分立、併合を繰り返し、第二次世界大戦中に一時合同して大真言宗になったが、戦後ふたたび分派し、現在は、高野山真言宗(金剛峯寺)、真言宗御室派(おむろは)(仁和寺)、同醍醐派(醍醐寺)、同大覚寺派(だいかくじは)(大覚寺)、同東寺派(東寺系末寺)、東寺真言宗(東寺)、真言宗山階派(やましなは)(勧修寺(かじゅうじ))、同泉涌寺派(せんにゅうじは)(泉涌寺)、同善通寺派(善通寺)、同智山派(智積院)、同豊山派(長谷寺)をはじめ48派がある。
[宮坂宥勝]
『宮坂宥勝編『日本仏教基礎講座3 真言宗』(1980・雄山閣出版)』▽『高木訷元他編『弘法大師と真言宗』(『日本仏教史論集』所収・1985・吉川弘文館)』
日本の仏教宗派の一つ。真言陀羅尼(だらに)宗ともいい,また天台系の密教を台密というのに対して東密(東寺の密教)とも呼ばれる。宗祖は空海(弘法大師)。奈良時代,すでに密教は日本へ伝えられていたが,きわめて断片的なものであった。平安時代初期に至って,最澄,空海はあいついで入唐し,インド,中国で発展した組織的な密教を請来した。最澄は法華,戒律,禅,密教の四宗兼学をもって天台宗を開宗したが,空海は密教そのものを日本的に再構成・体系化して真言宗を開宗した。開宗は812-813年(弘仁3-4)ころとみられる。密教相承の信仰のうえから,大日如来を教主として金剛薩埵,竜猛(りようみよう),竜智,金剛智,不空,恵果,空海と次第相承したのを〈付法の八祖〉,また竜猛,竜智,金剛智,不空,善無畏(ぜんむい),一行(いちぎよう),恵果,空海と伝えたのを〈伝持の八祖〉といい,《大日経》《金剛頂経》《蘇悉地(そしつぢ)経》などを所依の経典として,金剛・胎蔵の両部を立て,真言呪法の加持力で即身成仏を期することを本旨とする。
空海は774年(宝亀5)讃岐国多度郡に生まれ,788年(延暦7)入京,791年大学寮明経科に入学したが学問に満足できず,阿波国大滝嶽,土佐国室戸崎,伊予国石鎚山などで厳しい修行をした。797年には,儒学,道教,仏教のうち仏教の最もすぐれていることを説いた《三教指帰(さんごうしいき)》を著している。その後,入唐までの消息は不明であるが,仏教のなかでもとくに密教に傾斜していったようである。大和国久米寺東塔の下から《大日経》を感得し,その経典の内容を理解するために入唐を志したと伝えられる。804年入唐,805年青竜寺東塔院の恵果から金剛・胎蔵の両部灌頂を,ついで伝法阿闍梨位灌頂を受け,密教の奥義を皆伝され,翌806年(大同1)帰朝した。その際,恵果から付嘱された両界曼荼羅,密教法具,新訳密教経典など多数を請来した。帰朝後,精力的な布教活動を行い,816年(弘仁7)には,紀伊国に高野山金剛峯寺を開いて修禅の道場とし,823年には京都の東寺を賜って一宗の根本道場とした。このほか空海は,高雄寺(神護寺),乙訓(おとくに)寺,東大寺など数多くの寺に足跡を残し,また讃岐国の満濃池,大和国益田池の修築や庶民の子弟の教育機関として綜芸種智(しゆげいしゆち)院を建立するなど,日本の文化発展に大きく寄与するとともに,のちの真言宗繁栄の礎を築いた。830年(天長7)には主著《十住心論》を撰述し,密教の最勝なることを明らかにしている。
空海没後は,その高弟真済,真雅,実慧などがよく師の志を継ぎ,高野山を発展させた。こののち事相(灌頂・修法などの具体的な儀式作法)面で,小野曼荼羅寺の仁海が大成した小野流と広沢遍照寺の寛朝が大成した広沢流に分かれ,さらに2流はおのおの6流ずつに分派して〈野沢(やたく)根本十二流〉とも称せられるほど,その分化ははなはだしくなった。平安時代末期に至って覚鑁(かくばん)(興教大師)があらわれ,高野山上に大伝法院などを建立して,真言教学の再興,全密教法流の統一をはかった。また覚鑁は当時流行していた浄土教に対抗して,秘密念仏を唱えた。しかし覚鑁のあまりにも急激な改革は,東寺や金剛峯寺側の鋭い反発をよび,覚鑁はついに紀伊国那賀郡の根来(ねごろ)の地に退隠した。さらに1288年(正応1),大伝法院方の頼瑜は高野山金剛峯寺と袂別(べいべつ)し,大伝法院などを根来の地に移し,根来寺として新たな出発を行った。これがのちの〈新義真言宗〉の成立であり,これに対して従来の系統をのちに〈古義真言宗〉と呼ぶようになる。頼瑜は,金剛峯寺の法性,道範らの教主本地身説に対して,教主加持身説を説いた。
鎌倉時代に至って真言宗は関東地方に広まり,また真言宗の教理に基づいて戒律を修学する〈真言律宗〉がおこった。鎌倉時代から室町時代初期にかけて真言宗の教学は大いに発展し,高野山には覚海,法性,道範,尚祚,真弁,宥快,長覚らが,東寺には三宝といわれる頼宝,杲宝(ごうほう),賢宝らが,大伝法院(根来寺)には頼瑜,聖憲らがでた。江戸時代の著名な僧侶としては,浄厳,慈雲などがいる。明治以降,金剛峯寺,東寺など多くの本山は合同したり分立したりしたが,現在は,高野山真言宗(本山は金剛峯寺),真言宗醍醐派(醍醐寺),同東寺派(東寺),同泉涌(せんにゆう)寺派(泉涌寺),同山階派(勧修(かんじゆ)寺),同御室(おむろ)派(仁和(にんな)寺),同大覚寺派(大覚寺),同善通寺派(善通寺),同智山派(智積院),同豊山(ぶざん)派(長谷寺),新義真言宗(根来寺),真言律宗(西大寺)など多くの派がある。
→空海 →密教
執筆者:山陰 加春夫+和多 秀乗
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日本仏教の八宗の一つ。弘法大師空海を開祖とする。密宗・陀羅尼(だらに)宗ともいい,また天台宗の台密に対して東密(とうみつ)ともよばれる。大日如来を教主とし,「大日経」「金剛頂経」(両部大経)を根本経典とする。入唐した空海が805年(延暦24)恵果(けいか)に師事して中国に伝来流布していた密教を学び,その正嫡となって帰国後に開宗した。823年(弘仁14)教王護国寺(東寺)を与えられ,高野山金剛峰寺とともに根本道場とした。空海没後,9世紀末に観賢が東寺を中心に体制を確立。10世紀には寛朝・仁海(にんがい)がでて広沢流・小野流の事相上の2大潮流(野沢(やたく)二流)を形成したが,のち36流にわかれた。教相上では覚鑁(かくばん)を祖とする新義真言宗と古義真言宗にわかれた。
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…安然は円仁,円珍によって進められてきた天台宗密教化のあとをうけて,課題となっていた天台宗における密教の位置を明確にし,新しい教学体系を完成させた。円珍が主張した密教優位の立場をさらに発展させ,密教の中に天台宗も包含されるとして,天台の伝統であった四教教判を否定し,四教の上に密教をおいて五教教判をうち立て,みずから天台宗を改めて真言宗と称する。すなわち,一仏,一時,一処,一教をたてて,三世十方一切の仏教を摂するもので,大日如来によって諸仏菩薩の説法の時処は包含され,いっさいの教法は真言の一教に摂取されると説く。…
…平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。…
…インドにおいてすでにそうだったから,そのインドの発音を漢字で音写して日本に伝わった密教経典が,日本人にわかりにくいのは当然である。日本で密教を真言宗といったのは,陀羅尼をマントラ(真言,密言,密呪)ともいうので,陀羅尼宗を真言宗と名づけたものである。それほどに密教の要素として陀羅尼は本質的なものなので,陀羅尼こそ仏の真言語とする思想が生まれ,仏の真の説法は陀羅尼で説かれたと考えられるようになった。…
…ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法(につとうぐほう)して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平安仏教も,前者は〈鎮護国家〉,後者は〈護国仏教〉を標榜し,目的語句こそ異なったが,ともに古代国家の隆盛期に形成された仏教として,所詮は国家仏教の性格を共通してもっていた。…
※「真言宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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