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中国,北宋第6代皇帝。姓名は趙頊(ちようせん)。在位1067-85年。英宗の長子で母はのちの宣仁太后高氏。気鋭の19歳で即位した当時,国初以来100年の諸問題が累積し,直接には西夏戦の軍事費の増大や冗官冗費による財政窮乏で社会不安も深刻になっていた。韓琦(かんき),文彦博ら既存の政治家たちに失望した神宗は,皇太子時代の師韓維の強い推薦で,中央官界の色に染まらず,清潔有能の誉れ高かった王安石を宰相に抜擢し,彼の理想にもとづく革新政治を採用した。1069年(煕寧2)の青苗法以後,免役,市易,保甲をはじめとした新法の実施で財政危機は回避された。しかし,王安石との君臣水魚の交りにも,神宗自身の皇帝の功名心がからんで亀裂が生じ,76年王安石が下野,煕寧の年号を元豊と改め(1078)親政時代に入る。政策の基本は新法においたが,黄河上流の青唐族や南方の交趾征伐を行い国威発揚につとめたが失敗。遼,西夏との紛争も加わり,失意のうちに没す。官制改革もその時代の注意すべき問題である。
執筆者:梅原 郁
→万暦帝(ばんれきてい)
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中国、北宋(ほくそう)第6代の皇帝(在位1067~85)。姓名は趙頊(ちょうぎょく)。廟(びょう)号で神宗という。彼が即位したとき、宋は開国100年にさしかかり、文治主義の政権が固まり、宋学がおこり、名臣が輩出し、2万の官僚、150万の常備軍、500万貫に近い鋳銭を誇る上昇のピークにあった。同時に内実では、宋初以来の現実主義政策の結果として、過大な軍事、行政負担、行政の複雑化、富の不均等な分配、巨商との癒着、軟弱外交、軍事劣勢、4代仁宗(じんそう)、5代英宗(えいそう)にみられる指導力の欠如が痛感されていた。神宗は即位とともに王安石を起用して新法(しんぽう)を急進的に進め、財政の再建、流通機構の整備、行政の効率化、軍隊の整備、学校や官吏養成の見直し、土地開発などを一挙に断行し、西北辺の拓境でもいちおうは成功した。改革は長期にみれば積弊をよく洞察していたが、すでに確立した官僚制のなかでこの変革は権力闘争の口火となり、本質をゆがめられ、失意のうちに神宗は38歳で没した。
[斯波義信]
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