神宮寺村(読み)じんぐうじむら

日本歴史地名大系 「神宮寺村」の解説

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]神岡町神宮寺

東南は羽州街道のたま川の渡場を経て高関下郷たかぜきしもごう村(現大曲おおまがり花館はなだて)、東北は松倉まつくら(現大曲市松倉)、西は北流する雄物川を隔てて南楢岡みなみならおか村(現南外なんがい村南楢岡)、北は北楢岡きたならおか村に接する。村内の神宮寺嶽の麓で、玉川が雄物川に合流する。

「月の出羽路」に村名は「延喜式」記載の山本郡「副川そひかわ神社」の別当神宮寺華蔵院の所在地に由来するとあり、さらに「此神宮寺村は古来むかしは楢岡ノ荘副河ノさとと云ひし処也。添川といふは玉川の古名もとのなにして(中略)さて此をもの川、玉川に落副ひしかば、玉川に副河の名ぞありける。(中略)其玉川ををもの川の両瀬ふたせの水曲河隈に神座ば、其御神の号を副河ノ神とはまをし奉れり」と副川との関連を述べている。

貞治五年(一三六六)一一月の保阿譲状(新渡戸文書)によると、保阿が辰犬丸へ神宮寺・蒔田の両村を譲渡している。

<資料は省略されています>

中世末期は富樫氏の支配に属したと考えられる(月の出羽路)

天正一八年(一五九〇)の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)に、田方五四町三段余、その分米五九一石余、畑屋敷方三町、その分米二七石余で、計六一八石余とある。この村域は北楢岡村の東まで含まれていたようである。

奥羽永慶軍記」によれば、天正一六年に小野寺義通が、唐松野からまつの合戦ののち、神宮寺八幡宮に参拝したとあることや、久保田領郡邑記に、

<資料は省略されています>

と中世の館跡を伝えることから、かなりの集落が開けていたことが知られる。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]引佐町井伊谷いいのや

神宮寺川下流域に位置し、東は井伊谷村。南部の田園地帯に須賀町すがまち市場いちば地蔵寺じぞうじ・ミカドなどの地名が残る。地蔵寺はかつての地蔵寺(龍潭寺の前身という)の所在地といわれ、井伊氏始祖共保の誕生譚を伝える出生井がある。永禄三年(一五六〇)三月一日の井伊直盛・勝楽寺隆俊連署状(龍潭寺文書)に「神宮寺二屋敷之者」とみえる。村域は北部の神宮寺と南西部の正楽寺しようらくじ、南部の坂田さかだに分れているが、永禄期までは三地区は井伊谷村の枝郷で、慶長(一五九六―一六一五)初頭に神宮寺村が成立したと伝える(田中家文書)

元和元年(一六一五)には高四〇九石余、田方二一町六反余・畑方二〇町九反余、ほかに八幡(現渭伊神社)領一五石・正楽寺(勝楽寺、現廃寺)領一五石・正泉しようせん(現曹洞宗)領五石があった(龍潭寺文書)

神宮寺村
じぐじむら

[現在地名]諏訪市中洲なかす 神宮寺じんぐうじ

守屋もりや山の北東麓にあり、北西は大熊おおぐま村、南東は高部たかべ(現茅野市)に接する。諏訪大社上社本宮が鎮座するところで、集落は古くからあったと考えられる。「諏訪郡諸村旧蹟年代記」に「正中元年迄山本郷と云、御本社山林共ニ壱里四方寺町通鳥居内御朱印地」とあり、旧名を山本やまもと村といい、他の村と比べて特異な存在であった。この村の領域は戦国時代には本宮以南であったが、近世には西方のみやわき、北方の宮田渡みやたども含めて神宮寺村といった。宮田渡は近世初頭に上社大祝の居館がこの地に移ってから成立した村であるといわれる(「諏訪史蹟要項」中洲篇)

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]綾部市神宮寺町

四ッ尾よつお山の北麓にあり、北は本郷綾部村(町分)、東は坪内つぼのうち村、西は井倉いのくら村。綾部郷一二ヵ村の一。村域全体が傾斜地にあって畑地が六割以上を占める。灌漑用水寺前てらのまえ池・しん池・ため池・八幡はちまん池などによる。寛文修正検地では高八五石余、天保年間(一八三〇―四四)の家数二一(「田畑反別石高其他」沼田家文書)。当村の農作について「巡察記」は次のように述べる。

<資料は省略されています>

村内の加迫かさこ神社は天御中主神を祀り、神殿は元禄四年(一六九一)藩主九鬼氏の寄進である。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]旭市神宮寺

九十九里浜付の村で、海岸線に沿って幾筋かの砂丘列がある。西を椿つばき海干拓の排水路しん川が南流する。「伊能忠敬測量日記」に「ヂグチ」の訓がある。天正一八年(一五九〇)木曾義昌領になったと考えられ、慶長一八年(一六一三)の木曾氏旧領書上(岩井家文書)に神宮内村として高三五三石余が記される。元和九年(一六二三)から幕府領、元禄一〇年(一六九七)高一八九石余が旗本佐々木領になり、ほか一九二石余は幕府領のまま(同一一年「高反別覚帳」林家文書)

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]小浜市神宮寺

北は竜前りゆうぜん村、西は多田ただヶ岳の山裾、東は遠敷おにゆう川。当地の神宮寺所蔵の延徳三年(一四九一)一〇月二五日付神宮寺政所掟書に、

<資料は省略されています>

とあり、寺家百姓のいた当村は神宮寺の門前村であったと思われる。さらに「手振市夫」の記載は、神宮寺東側に残る内街道うちかいどう外街道そとかいどうの小字とともに中世、街道筋であったことを示している。

「信長公記」は天正三年(一五七五)七月一二日のこととして「去程に江州勢田の橋、山岡美作守・木村次郎左衛門両人に仰付けられ、若州神宮寺山・朽木山中より材木を取り」と記す。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]桜川村神宮寺

阿波あば村の西に続く台地上にある。建武五年(一三三八)一〇月日の烟田時幹軍忠状案(烟田文書)に「神宮寺城」とあり、同年九月に伊勢を発した北畠親房が台風のため東条とうじよう庄に漂着し、神宮寺城に拠ったが、同年一〇月に北朝方に攻められ落城している。慶長七年(一六〇二)に幕府の検地が行われ、同年四月二四日の常陸国河内郡東条庄神宮寺村御縄打水帳など多数の検地帳大杉おおすぎ神社に残り、延享四年(一七四七)六月には新田検地が行われた(「常陸国河内郡神宮寺村新田検地帳」大杉神社蔵)

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]亘理町逢隈神宮寺おうくまじんぐうじ

南は鹿島かしま村、北は上郡かみごおり村、東は鷺屋さぎや村・榎袋えのきぶくろ村、西は標高二〇四・九メートルの三門みつもん山南の箕輪みのわ峠をもって伊具いぐ小坂おさか(現角田市)へ至る。本村西方にはどうまえの字地がある。正保郷帳では田七三貫五〇文・畑八貫七八八文で旱損の村の注記がある。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]八尾市神宮寺一―五丁目・神宮寺

大県おおがた郡に属し、高安郡恩智おんぢ村の南、生駒山地西山麓に立地。村は山麓から恩智川・玉串たまくし川沿いの低地まで、東西に長く延びる。産土神の常世岐姫とこよきひめ神社(江戸時代には八王寺社とよんだ)は「延喜式」神名帳に載る同名神社とされる。常世氏の氏神であった。「続日本紀」天平一九年(七四七)八月二三日条および天平勝宝二年(七五〇)九月一日条によると、赤染造が常世連姓を授けられている。赤染、つまり茜染などの染色の技術をもった人々であった。中世には当地の豪族神宮寺氏が楠木一族として活躍する。「太平記」巻一六(正成兄弟討死事)には、延元元年(一三三六)五月二五日、湊川の戦で、正成兄弟とともに戦死した一族一六人のなかに神宮寺太郎兵衛正師がみえる。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]金沢市神宮寺町・神宮寺一―三丁目・鳴和なるわ二丁目・小金町こがねまち

山上やまのうえ村の北、金腐かなくさり川中流左岸に位置。村名は小坂こさか春日大明神(現小坂神社)の神宮寺があったことに由来する。正保郷帳によれば高四五六石余、田方二七町九反余・畑方二町五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四七七石、免六ツ九歩、小物成は山役九九匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]福光町神宮寺

小林こばやし村の東、大井おおい川東岸にある。元和三年(一六一七)喜右衛門が北の下野したの村とともに開発した村という(「郡事韻要」高田家文書)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五石、免五ツ(三箇国高物成帳)

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]日置川町神宮寺

集落は日置川に沿う山麓に散在し、北と西は向平むかいだいら村、東は小川こがわ村、南は中島なかじま村。慶長検地高目録によると村高一七石余、小物成一斗八升六合。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領であったが、正保三年(一六四六)今高制施行により上知となったため、嘉永六年(一八五三)に返還されるまで和歌山藩口熊野代官所(現すさみ町)の支配下に置かれ、周参見組に属した。

神宮寺村
じんぐうじむら

[現在地名]新井市神宮寺

青田南葉あおたなんば山の東山麓、うち川西岸に位置し、籠町かごまち村・宮内みやうち村に接する。宮内村に延喜式内社斐太ひだ神社が鎮座することから斐太神社に関連する村名と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報