翻訳|science
( 1 )文献上の初出として明治七年(一八七四)の西周の「知説‐四」〔「明六雑誌」二二号〕が挙げられることがあるが、文脈からいって「学科」の意味、あるいはその誤植とも考えられる。なお、同書「知説‐四」には「学(サイーンス)」が見えるので、西周は “science” に「学」を当てていたようである。
( 2 ) science の訳語として使用された確実な例は、挙例の「哲学字彙」が早く、以後 “science” の訳語として「科学」をあげることが一般化する。ただし、一般的に使用されるのは、明治の末になってからか。
人間は古代から、自分たちを包み込む宇宙や身近な自然のできごと、天変地異に強い関心を抱き続けてきた。また、人体の構造や機能、動植物の生育や行動、鉱物の特性や分布などにも注意を払っていた。さらには、物体の運動や力の作用、摩擦電気や磁石などの物理現象、そして燃焼など物質のさまざまな形態変化を引き起こす化学現象に対しても、独自の解釈を試みていた。
おのずと、そうした対象にかかわる知識が蓄積されるにつれ、それぞれの時代、文化圏に固有な自然観が形成され、自然学として体系化されていった。なかでも後世への影響の大きさを考えると、古代ギリシアで築かれたアリストテレスの自然学がその代表であろう。“万学の祖”とたたえられたアリストテレスの自然学は、その後の天動説(地球中心説)の基盤となった宇宙の構造についての考え方や、錬金術の理論的なよりどころとなった元素説、それらとも深くかかわりをもった運動論などを包含する壮大な体系を誇り、古代・中世を通じて、絶大な存在感を示し続けた。
しかし、たとえアリストテレス自然学が自然界の諸現象を関心の対象としていたとしても、また、いかにその体系が壮大であり権威が絶大であったとしても、それは現代のわれわれが認識する自然科学とは基本的に異質な知的営みであった。ただし、こう書くのは、近代に入り、やがて天動説が覆されたり、錬金術が壊滅させられたり、あるいはアリストテレスの運動論が完全に否定される運命にあったからではない。ある説や理論の正否が問題なのではなく、そもそも自然をとらえる基本的な姿勢や自然観をはぐくむ土壌が、古代・中世と近代以降では本質的に異なっていたのである。言い方をかえれば、古代・中世の自然学は、近代に入ってから確立された自然科学のもつべき要件を欠いていたといえる。そのありさまを、古代・中世の自然学の根幹をなす天動説を例にみてみよう。
[小山慶太]
天動説では宇宙の中心に地球を静止させ、その周りに月、太陽、惑星そして恒星の天球が回転するとした基本構造を有することはよく知られている。ところが、もうひとつ見落としてはならぬ、そして自然科学の誕生の大きな障壁となった特徴がある。それは宇宙全体を、月の天球を境として、それより内側の地上界と外側の天上界に二分してしまったことである。二分したのは単に空間的な区分けだけでなく、それぞれの世界を構成する元素からそこで生起する運動まで、すべてにおいて地上界と天上界は峻別(しゅんべつ)されていた。
具体的に述べると、地上界は土、水、空気、火の4元素からなるのに対し、天上界は第5元素のエーテルだけで形成されるとみなされていた。今日の視点でみれば、土、水、空気、火はいずれも元素(物質を構成する基本要素)ではもちろんないし、エーテルにいたってはそもそも存在などしなかったわけであるが、先ほど触れたように、ここで問題になるのは、個々の説の正否ではない。宇宙を二つの領域に截然(せつぜん)と色分けし、それぞれがまったく異なる元素で構成されているとすると、今日の自然科学の要諦(ようてい)ともいうべき、自然界を普遍的にとらえるという姿勢が初めから欠落していることになるのが重要な点である。
同様の指摘は、運動現象の記述についても当てはまる。天動説における天上界では、星々が地球の周りを等速円運動するのみであった(ただし時代とともに、惑星の複雑な動きを説明するために、複数の円運動の組み合わせが導入されていった)。そして、それはいかなる作用も必要とはせぬ、自然に営まれる運動とみなされた。一方、地上界ではそうではなく、物体の落下や煙の上昇など上下の直線運動が、自然に営まれる運動であった。このように二つの領域では、自然運動の様態もまったく異なるものと考えられていた。
また、天上界では自然運動(等速円運動)しか生じえないが、地上界では物体を投げたり押したりなどして、自然運動から強制的に逸脱させる現象も可能であった。つまり、月の天球より外側では、外的な要因によって運動に変化がおきる余地はまったくないが、人間が住む世界では、強制運動による変化があまた見られるというわけである。これは前者(天上界)が完全な世界であるのに対し、後者(地上界)は不完全であるため、変化を重ねてその修正を行っていると解釈されていた。このような自然観のもとでは、宇宙全体で成り立つ普遍的な運動法則を確立しようとする気運は生まれにくい。ことほどさように、天動説は自然科学とは相いれない二元論的な宇宙像に立脚していたのである。
さて、先ほど述べた四元素説に従うと、各元素には本来それぞれが占めるべき固有の場所があり、それは地球の中心から土、水、空気、火の順で同心球状の層をなしていると考えられていた。そして、落下や上昇といった地上界での自然運動も、元素の階層構造に基づいて説明されていた。たとえば、石がストンと落ちるのは、石は土の元素を多く含むため、土の固有な場所である地球の中心に戻ろうとする指向性が強いからというわけである。逆に火が上を向くのは、地上界の最上層に戻ろうとする指向性の現れということになる。
要するに古代・中世の自然学は現象論的な記述と目的論的な解釈の域を出てはおらず、運動を引き起こす因果関係を解明しようとする姿勢はみられない。その結果、議論は定性的な範囲にとどまり、物理量の間に成り立つ関数関係(たとえば、落下時間に対する落下速度の変化)を求めようとする意識も弱い。これでは、自然科学の法則は生まれにくい。
こうした自然観が定着してしまったのは、見たままの現象をそのまま素朴に受け入れ、それを単に思弁的に論ずることに終始したからであろう。いま例にあげた落下運動でいえば、小石はストンと落ちるが、木の葉はヒラヒラとゆっくり落ちる。見たままに忠実であろうとすれば、アリストテレスが説くごとく、重い物のほうが軽い物よりも速く落下し、その原因は前述したような目的論に帰着させられる。
しかし現在の考え方では、小石と木の葉で落下の仕方に違いがあるのは、空気抵抗が働くからである。このような、よけいな要因を除去すれば、落下は物体の質量や形状に依存せず、一様に等加速度運動となる。換言すれば、落体の法則――これは17世紀、ガリレイによって発見されるが――という真理を自然のなかからつかみだすには、現象をあるがままに眺めているのではなく、よけいな要因の存在を見抜き、その影響を無視できる条件を人為的につくりだすくふうが必要になる。そして、そのくふうこそが実験にほかならない。
現代のわれわれは、自然に潜む真理を抽出する方法として、まずは実験を思い浮かべるが、意外なことに一部の例外を別にすれば、古代・中世を通じ、こうした目的意識をもって自然にアプローチする試みは、ほとんどなされていなかったといえる。その意味で、実験という自然を解明する方法そのものが“発見”されるのが、やっと17世紀に入ってからということになる。
実験と並んでもうひとつ重要な自然科学の方法が、数学を用いた解析とそれによる理論の構築である。しかし、すでに触れたように現象論的で定性的な記述に終始した自然学では、道具として数学を積極的に導入する動きはみられなかった。ギリシアで基礎が築かれた幾何学やアラビアで発展した代数学など、数学自体は独自の進歩を示したものの、なぜか自然学と数学の結びつきは希薄であった。
このように、自然科学を自然科学たらしめている二つの方法(実験と数学による解析)が、古代・中世の自然学にはまだ備わっていなかったことになる。この二つの方法が欠如していたのでは、いくら自然を眺めていても、そこから自然科学が生まれることはなかった。
ところで、学問一般にいえることではあるが、とりわけ自然科学は独創性を命とする営為である。未知の事実を発見し、未解決の問題を解き明かそうとする挑戦こそが、自然科学の真髄といえる。
ところが、アリストテレスの自然学に代表される古典が絶大の価値をもって連綿と受け継がれていくと、それを疑い、否定し、新しい体系を打ち立てようとする精神が育ちにくくなってしまう。いわばできあがったものを鵜呑(うの)みにするだけで、独創性を発揮する余地が初めから存在しないわけである。おのずと、発見のプライオリティ(先取権)を重視するという価値観も台頭してはこない。こうした知的風土は、自然科学の精神とは相反するものであった。
そういう状況であるから、学者に与えられた仕事は古典の受容と継承の枠を出ず、彼らが自ら道具を手にして、器械や装置を組み立てることなどほとんどなかった。手仕事は職人の領分とみなされ、一段低い地位に置かれていたのである。
大学における解剖学の授業においてすら、手仕事を忌避する学者は、学生の前で古典の文献を読み上げるだけであった。遺体を解剖するのは学者ではなく、身分の低い助手(彼らは理髪外科医とよばれた)に任されていた。したがって、文献の内容が実際の解剖の知見と食い違っても、そのまま看過されるだけであった。いわば、真理は人体のなかではなく、文献にあったのである。ちなみに、手ずからメスを握り、学生に講義した最初の学者ベサリウスが、その成果をまとめた『ファブリカ(人体の構造に関する七つの本)』を刊行するのは、1543年のことである。
以上、いくつかの視点に立って論じてきたように、古代・中世の自然学は自然科学とよぶには似つかわしくない、それとは異質な体系であった。そこにブレイクスルーがおき、自然学が自然科学へと脱皮していくのは、17世紀においてである。
なお、社会科学や人文科学など、科学という呼称を広く学問、研究の意味で用いる場合がある。しかし、今日、とくに断りがなければ、それは自然科学をさすのが普通である。そこで、本項でも、自然科学に限定して話を進めていくことにする。
また、本項では西洋の自然科学の歩みについてのみ述べる。独自の発展をしたイスラム科学、中国科学、インド科学などについては、それぞれの項目を参照されたい。
[小山慶太]
古代・中世の自然学から脱皮して近代科学が形成されていく歴史を考えるとき、その端緒として位置づけられているのが、1543年、コペルニクスが地動説(太陽中心説)を世に問うた『天球の回転について』であろう。後にカントが“コペルニクス的転回”という表現を用いて評価したように、地動説の提唱は確かに旧来の宇宙体系を転覆させるエポック・メーキングなできごとではあった。
しかし、かといって、コペルニクスの説が他より優れた精確な観測データに基づいて打ち立てられたわけでもなく、また、天体の運動や回転する地球上での運動を説明できる力学理論に依拠していたわけでもなかった。そもそも、そうしたものは当時まだ存在しなかったのである。したがって、地動説は天動説のもつ二元論的な宇宙構造を壊しはしたものの、やはり、科学たりうる要件は欠いていた。惑星が見かけ上示す不規則な運動を、太陽の周りを回るとした地球との相対運動で解釈しようと試みただけで、定性的な議論の枠を出ることはなかったといえる。そして、天動説と同様、コペルニクスが描いた宇宙体系でも、惑星は等速円運動を行うとみなされていた。
速度には変化がなく、円という対称性のもっとも高い図形で惑星の運動を表すと、落ち着きがよく、話はそこで止まってしまう。つまり、それはごく自然な姿に感じられ、なぜそうなるのかという、もう一歩踏み込んだ問題意識が生じにくくなる。したがって、このままでは、運動を記述する力学も生まれにくいことになる。
[小山慶太]
そこに突破口を開いたのは、ケプラーである。16世紀末に蓄積された、当時としては精度の高いティコ・ブラーエの観測データをもとに、計算と試行錯誤を重ねたケプラーは、惑星の運動に三つの法則が成り立つことを発見したのである。それによると、すべての惑星は太陽を焦点の一つとする楕円(だえん)軌道上を運動し、太陽と惑星を結ぶ線分が同じ時間に描く扇形の面積は一定となる。つまり、惑星は太陽に近づくと速くなり、遠ざかると遅くなるのである(『新天文学』1609年)。また、惑星の公転周期の2乗と楕円軌道の長径の3乗の比は一定になることも示された(『世界の調和』1619年)。
ここに初めて、古代・中世を通じ固定観念のごとく宇宙観に温存されてきた等速性と円軌道が否定されたのである。そして、観測に基づく惑星運動の定量的な規則性が明らかにされた。近代科学たるべき重要な条件がひとつ、確立されたわけである。
さて、円が否定され、かわりに楕円軌道が提唱される段階になって初めて、“なぜ”ほかの図形ではなく、よりによって楕円なのかという疑問が生じてくる。円よりも低い対称性であるべき理由を問いたくなるわけである。また、等速性も否定され、太陽からの遠近に応じて惑星の速度に遅速がみられ、同時にすべての惑星について、公転周期と軌道長径の間に一定の関係が成り立つという事実は、太陽からのなんらかの影響、作用が、惑星の運動を支配していることを示唆する。それはけっして自然運動などとよぶべきものではないわけである。そうなると必然的に、惑星と太陽の間に働く作用に関心が向けられるようになる。
こうして、惑星運動から等速性と円軌道を葬り去ったケプラーの法則は、“なぜ”という問いを投げかけ、それに応えるべき力学を構築するきっかけをつくったのである。力学の構築は17世紀末、ニュートンが登場するまで待たねばならないが、近代科学の歴史のなかで“コペルニクス的転回”の表現は、いま述べた意味からして、むしろ、ケプラーに与えるべきかもしれない。
このケプラーと同時代に活躍したのが、ガリレイである。ガリレイは当時、発明されたばかりの望遠鏡を用い、精力的に天体観測を行っている。その成果は1610年、『星界からの報告』と題して発表された。文明の利器はそれまで肉眼でしかとらえられなかった宇宙に対する視野を一気に拡大したが、そこに出現した天空は、天動説が思い描いていた姿とは大きく異なるものであった。
たとえば、手描きのスケッチをのせて、ガリレイは月の表面の形状を詳しく報告している。それによると、月はエーテルで形づくられた滑らかな球体ではなく、表面には起伏に富んだ山脈や谷が広がり、その地形には地球との共通点がみられた。この事実は、天動説に基づく二元論的な宇宙像の否定であり、地球もあまた存在する天体の一つに過ぎないことを暗示していた。また、ガリレイは望遠鏡を通し、木星に4個の衛星(月)が存在することを発見している。ここにも衛星を有するという地球と木星の共通点がみてとれる。さらに、地球以外にも回転の中心となる天体があるのなら、太陽の周りを諸惑星が回転しているとするモデルも受け入れやすくなる。
地動説の特徴は断るまでもなく、地球を動かした点にあるが、その結果、必然的に地球はそれまで置かれていた特別な地位(宇宙の中心に静止)を追われ、他の天体と同じ扱いを受けることになる。したがって、ガリレイの天体観測の成果は、ケプラーとは別の側面から、地動説の正当性を支持する有力な根拠となったのである。
こうして、望遠鏡の発明と性能の向上は天文学に革命的な飛躍をもたらすが、これと並行し、地動説を支える運動理論も展開され始める。なかでも重要なのが、慣性の法則の確立である。その萌芽(ほうが)的な概念はガリレイによって提唱され(『天文対話』1632)、その後、デカルトの『哲学原理』(1644)において完成をみるにいたった。デカルトは、外的原因がなければ、運動している物体はそのまま同じ速度で直線的に動き続けると明言したのである。
アリストテレスの運動論に従えば、物体が運動を持続するのは、外から作用が働くとき、つまり強制運動においてとされていた。確かに、身の周りの現象を眺めると、作用を断てば運動状態は維持されず、物体はやがて停止してしまう場合が多い。しかし、これは摩擦や抵抗といった、運動を阻止する要因が働くからであり、物体の運動の本性ではない。ただ単に観察を続けるだけで、現象論的、定性的な説明を試みても、真理は抽出できないことをすでに述べたが、近代に入るまで慣性の概念が生まれなかったのも、その一例といえる。
[小山慶太]
前に触れた落下運動に対するアリストテレス流の解釈についても、同様の指摘ができる。ガリレイは『新科学対話』(1638)のなかでまず、論理的にアリストテレスの矛盾を突き、質量に関係なく、物体の落下は等加速度運動を行うという仮説を立てている。当時、微積分法はまだ発見されていなかったので、ガリレイは幾何学を使い、落下距離は落下時間の2乗に比例するという定量的な関係を導き出している。
さらにガリレイはこの仮説を検証するため、斜面に掘った滑らかな溝に沿って真鍮の球を転がし、落下距離と落下時間の関係を測定している。垂直に落下させず斜面を利用したのは、落下速度を遅くして測定しやすくするためである。また、滑らかな溝と金属球を組み合わせたのは、摩擦と空気抵抗を弱める目的である。このようなくふうを施すことにより、落下運動を攪乱(かくらん)する余分な要因を排除し、測定しやすい条件をつくりだせるわけである。これこそが実験である。アリストテレス流に現象をあるがままに眺めるのではなく、自然に手を加え、現象の本質を見抜こうとする積極的な姿勢がそこにはみてとれる。
ガリレイは数学を用いて理論(仮説)をつくり、実験によってその正しさを実証しようとしたわけである。この意味で、落体の法則の発見は同時に、自然を解明する科学の方法そのものの発見でもあったといえる。
実験という方法の有用性は近代科学の発展とともにその認識が深まっていくが、ニュートンが1672年に発表した論文「光と色の新理論」のなかで述べた、光の分散実験もその好例である。ニュートンは太陽光(白色光)をガラスのプリズムを通して、赤から紫までの色の帯に分解してみせた。それまで、白色光は混じり気のない純粋なもので、色は光と闇の混ざり具合で決まるとする、アリストテレスの「光の変容説」が広く受け入れられていた。ニュートンは実験によってその旧説を否定し、「白色光は屈折性の異なる射線からなり、各射線がそれぞれの色をもっている」ことを証明したのである。ここにも、対象をあるがまま眺めるのではなく、プリズムという道具を用いて光を強引に分解し、色の本質を明らかにした積極性が現れている。
さて、そのニュートンの最大の業績といえば、1687年に刊行した『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』であろう。同書のなかでは、運動の三つの基本法則と重力の法則(万有引力の法則)が導入されている。前者の第一法則は、デカルトが提唱した慣性の法則である。また、第二法則は運動の変化と力の関係を与えるもので、今日では微分方程式で表現されるニュートンの運動方程式にあたり、第三法則は作用反作用の法則になる。そして、これらの法則に基づいて、力学の基礎が築かれたのである。
ニュートンといえばリンゴにまつわるエピソードが有名であるが、『プリンキピア』はこのエピソードに象徴されるように、地上の運動から天体の運動まですべてを、同一の法則と重力の作用によって説明できることを示した。ティコ・ブラーエの観測データを駆使して、ケプラーが導き出した惑星運動に関する法則も、ニュートンによって力学的に証明されたのである。ここに、天動説にみられた二元論的宇宙観は払拭(ふっしょく)され、宇宙全体で普遍的に成り立つ演繹(えんえき)性、汎用(はんよう)性の高い理論体系が提示されるにいたった。
こうして、17世紀、近代科学は誕生したのである。イギリスの歴史学者バターフィールドはこのできごとを「科学革命」と形容し、『近代科学の誕生』(1949)のなかで、科学革命は古代・中世の権威を覆し、アリストテレス自然学を壊滅させたと表現したほどである。
[小山慶太]
ニュートンは『プリンキピア』の執筆と並行して、微積分法の基礎も築いている。彼が扱った運動とは、時間に対する位置の変化であり、こうした変化を記述するためには、新しい数学が必要だったからである。時をほぼ同じくして、ライプニッツも独自に微積分法を発表しているから、機は熟していたのであろう。ただし、『プリンキピア』は微積分法ではなく、旧来の幾何学を用いて書かれている。それだけに、現在では説明がかなりまわりくどい印象を受けるが、ニュートンがあえてそうしたのは、新しい数学形式に馴染(なじ)みのない当時の人々に配慮したためと、一般に解釈されている。
さて、18世紀に入り、微積分法が浸透し始めると、微積分法と力学の発展が相互に連動、呼応し合って進んでいく。その結果、力学のなかから、読み解きにくい幾何学による記述は徐々に消えていく。そうした傾向を象徴するのが、1736年、オイラーが著した『力学もしくは解析学的に示された運動の科学』である。この著作を通じオイラーは、ニュートンの力学を微積分法(解析学)のスタイルに移し換えたのである。ちなみに、『プリンキピア』で提示された運動の第二法則(運動方程式)を微分形式で表現したのも、オイラーが最初であった。これによって、運動方程式は力学の基本方程式として位置づけられるようになっていく。
また、『プリンキピア』が主として、物体の形や大きさを無視しても運動が記述できる質点を扱っていたのに対し、オイラーは力学の対象を剛体(力を加えてもその変形が無視できる物体)まで拡張している。それによって、物体の形、大きさ、密度分布などを考慮に入れても、その運動が計算できるようになり、力学の守備範囲は一気に広がったのである(『固体あるいは剛体の運動理論』1760)。
このように、オイラーの手により力学は幾何学から解析学(微積分法)に基盤を置く体系へと変貌(へんぼう)していくが、その勢いをさらに押し進めたのがラグランジュである。その集大成は1788年、『解析力学』としてまとめられた。書名のとおり、そこでは力学が数学と一体化し、ニュートンが生み出した力学は解析学を武器に、きわめて汎用(はんよう)性の高い、洗練された理論体系へと進化したのである。そして、それは他の諸科学の規範とみなされるようになった。
規範を象徴する業績のひとつとして、1799年に刊行が始まったラプラスの『天体力学』が掲げられる(全5巻が完結するのは、1825年)。このなかでラプラスは摂動論(せつどうろん)とよばれる近似計算法を展開し、太陽系の安定性を証明したのである。一般に惑星は太陽からの引力を受け、ケプラーの法則に従って公転しているが、同時に微弱ながら、他の惑星からの引力も受けている。その結果、こうした影響が長い間に累積されると、惑星の軌道のずれが拡大し、太陽系が崩壊してしまうおそれがある。この危機は17世紀末、彗星に名前を刻んだことで知られるハリーによって、すでに指摘されていた。
ところが、たとえ微弱でも太陽のほかの引力の源を考慮に入れると、計算はとたんにやっかいとなり、厳密に解くことはできなくなる。そこで、ラプラスはケプラーの法則からのずれを求める近似法(摂動論)を確立し、惑星の軌道計算を試みたのである。計算の結果、各惑星は軌道の平均値の周りを周期的に変動するだけで、太陽系が崩壊の危機に瀕する心配はないことが力学的に証明された。ここに、100年来の難題が解決されたのである。
[小山慶太]
摂動(せつどう)論はその後さらに、力学の予知能力の高さを誇示することになる。1781年、ハーシェルによって、第7惑星となる天王星が発見された。ところが、19世紀に入ると、観測される天王星の軌道が計算結果と一致しないことが指摘されるようになり、その原因は、未知の惑星が天王星の運動に影響を及ぼしているためと考えられた。そこで、この仮定に基づき、観測と計算の食い違いを埋める第8惑星の質量と軌道を求める試みが、摂動論を用いて行われた。
この問題に独立に挑んだルベリエとアダムズは1846年、天王星の動きを攪乱(かくらん)する未知の惑星の存在を割り出した。そしてその直後、彼らが予測した位置に新しい惑星(海王星)が回っていることを、ガルレが望遠鏡のなかにとらえたのである。この発見は、力学の優れた予知能力を人々に印象づけるものとなった。
予知能力とは言葉をかえれば、物体に作用する力と初期条件(ある時刻における物体の位置、速度)が与えられさえすれば、運動方程式を解くことにより、過去から未来まで、すべての時間にわたって、物体の運動状態がわかることを意味している。天体運動についての成果は、まさにその象徴であった。
力学のこうした威力は19世紀を通じ、思想、自然観全般にも強い影響を及ぼすようになる。そして、力学は森羅万象を説明する科学の基盤と目されるようになる。ところが、後述するように、20世紀に入ると、磐石(ばんじゃく)であると信じられていた力学にほころびが生じ、大きなドラマがおきるのである。
[小山慶太]
力学に次いで、18世紀の後半、近代科学の仲間入りを果たすのは、化学である。前述したように、かつて万物は土、水、空気、火の四元素からつくられていると考えられてきたが、この説は18世紀においても主流を占めていた。そして、適当な化学操作を施せば、四元素間の相互変換は可能と信じられ、錬金術の試みも連綿と続けられてきたのである。
こうした物質観に対し、ブレイクスルーの兆しが見え始めるのは、1760年代から1770年代にかけてである。このころ、水素、酸素、窒素といった新しい気体が発見されるようになる。さらに1784年、キャベンディッシュが、水素と酸素を混合して電気火花を当てると、水が合成されることを発見した。また逆に1785年、ラボアジエは赤熱(しゃくねつ)した鉄の銃身に水蒸気を通過させ、水素と酸素に分解している。この結果、水は水素と酸素の化合物であり、元素ではないことが示された。四元素説の一角が崩れたのである。
元素の相互変換を否定したのも、ラボアジエである。当時、たとえば水を沸騰、蒸発させると、容器の底に土状の残留物が生じる現象が知られており、これは水が土に変化する証拠と解釈されていた。ラボアジエは1770年、精密な秤量(ひょうりょう)によって、容器の質量の減少と底にたまった残留物の質量が一致することを示し、残留物は水が土に変化したものではなく、容器の内壁が長時間に及ぶ煮沸のため溶け出した結果であることを明らかにした。こうして、錬金術の根拠も崩され始めていった。
ここで重要な役割を果たしたのは精度の高い定量的な実験であったが、同様のことは、やはりラボアジエが成し遂げた燃焼理論の確立についてもいえる。18世紀の後半まで、可燃性の物質には「フロギストン」とよばれる原質が含まれており、燃焼とはフロギストンが物質から抜け出る現象と考えられていた。その抜け殻が燃え残った灰というわけである。ところが、空気中で金属を加熱したときに生じる金属灰の質量を量ると、フロギストンが抜け出したにもかかわらず、金属灰は元の金属よりも重くなっているのである。
この矛盾に注目したラボアジエは精密な測定を繰り返し、1777年、燃焼によって生じた金属灰の質量増加と、そこで消費された空気の量が一致することを明らかにした。また逆に、還元による金属灰の質量損失とその過程で放出された空気の量も一致したのである。こうして、燃焼とはフロギストンが物質から抜け出る現象ではなく(つまり、フロギストンなる原質など存在せず)、空気の一成分(酸素)と物質との結合であることが示された。あわせて、空気は元素ではないことも指摘されたのである。
さて、燃焼において成り立つことを一般化すると、「質量保存則」(化学反応の前後で、反応にあずかる物質全体の質量の総和は保存される)となる。この化学の基本法則は、1789年に出版されたラボアジエの『化学綱要』のなかで詳しく述べられている。
燃焼や強い酸による金属片の溶解などにみられるように、化学反応という現象は、物質を表面的、形態的に激しく、場合によっては跡形もなく変化させる。そこから、化学反応に対する解釈が現象論的、定性的なものに陥りがちであった。しかし、再三述べているとおり、この域でとどまっていたのでは、四元素説は温存され、錬金術が信じられる状況から脱却することはできない。ラボアジエが採り入れた定量的な実験という方法によって初めて、そのような脱却が可能となり、化学は近代科学の様相を身に着け始めたのである。
[小山慶太]
18世紀後半におきた、こうした一連の変革を、われわれは今日、「化学革命」とよんでいる。その礎となったのはラボアジエの『化学綱要』である。この中でラボアジエは、化学的分析によって究極的に到達できる物質の構成要素を元素と定義し、水素、酸素、窒素など当時知られていた33の元素を表にまとめている。そこには一部、後に元素でないことが判明したものも誤って含まれてはいたものの、このように定義された元素を基本単位にして、化学反応を定量的にとらえる新しい物質観が、ここに築かれたのである。
ところで『化学綱要』の出版以降、新元素の発見が続くが、そこには19世紀に入ってから確立された二つの実験技術(電気分解と分光学)が果たした役割が大きい。
1799年、ボルタによって電池が発明されると、電気と磁気の研究が急速に進むことになる。その一環として、1800年、カーライルAnthony Carlisle(1768―1840)とニコルソンが水を酸素と水素に電気分解することに成功した。この新しい実験方法を新元素の抽出に応用したのがデービーである。1807年から1808年にかけ、デービーは電気分解を用いて、ナトリウム、カリウムなど6種の元素を発見している。
19世紀後半になると、今度は分光学が確立される。各元素が放射する光は固有のスペクトルをもつことが徐々に知られるようになったことから、試料を熱して発光させ、分光器にかけると、そこに含まれる元素を識別できるようになったのである。この方法により、1860年代には、ブンゼンとキルヒホッフがセシウムとルビジウムを、また、クルックスがタリウムなどを発見している。さらに、この分野は天文学とも融合していく。星から届く光を、分光器を通してスペクトルに分ければ、その星がどのような元素で構成されているか知ることが可能になったからである。地球にいながらにして遠い星の元素を検出できるこの手段は、天文学の発展に大きく貢献することになる。
このように新元素が発見されていった結果、1860年代には、元素の種類は60を超えるまでに増加した。そこで1869年、メンデレーエフはここまで増えた元素を原子量の値に従って並べてみたところ、化学的に似た性質が周期的に現れる事実に気がついた。これをもとにその2年後、63種の元素を配列した周期律表が発表された。ただし、この時点ではまだ、周期律表には多くの空欄がみられた。しかし、空欄はそこに収まるべき未発見の元素の原子量と化学的性質を予言していたのである。実際それを手がかりに、その後、新元素が次々と見つかり、周期律表は完成されていくことになる。
[小山慶太]
ここで話を19世紀初めに戻すと、電池の発明は電気分解だけでなく、科学の前線を一気に広げることになる。1820年、エールステッドが発見した電流の磁気作用は、その予兆となった。磁石を用いずとも、導線に電流を通せば、磁針に力が働くことが示された。ここに初めて、それまで独立だと思われていた電気と磁気の間に相関があることが明らかにされたのである。逆に、磁気作用による電流の発生(電磁誘導)は1831年、ファラデーによって発見された。
ところで、電池を用いずとも定常電流が得られることを、1821年、ゼーベックが発見している。ゼーベックは2種類の金属の導線をループ状に接続し、接続点の一方を温め、もう一方を冷却すると、電流が生じることを示したのである。この現象を熱電効果とよぶ。逆に、異種の金属を接線してループをつくり、そこに電流を通すと、電流の方向に応じて、接続点で熱の発生または吸収がおきる効果が、1834年、ペルチエによって発見された。電流と熱は互いに変換可能であることが明らかにされたわけである。また、1840年にはジュールが電流の熱作用の法則を見い出している。導線に電流を流すと、発生する熱量は電流の強さの2乗と導線の抵抗に比例することが示されたのである。
さて、この時期、熱に関するもうひとつ重要な実験といえば、1840年代、ジュールが取り組んだ熱の仕事当量(熱と仕事量の変換率)の測定があげられる。ジュールは繰り返し精密な測定を試みているが、なかでも有名なのは、水槽に入れた羽根車で水を攪拌(かくはん)し、そこでみられる水の温度上昇によって、熱の仕事当量を求める実験であろう。
以上、概観したように、19世紀前半には、電気、磁気、化学反応、熱、力学的仕事といった、それまでは互いに無関係と思われていた諸現象の間に、相互変換性のあることが認められていった。また、ジュールによって、熱と力学的仕事との変換率が定量的に決定されたのである。そうなると、形態はさまざまに変換しても、その過程を通じ、総量は一定に保たれる新しい概念の導入が必要になる。それがエネルギーにほかならない。1847年、ヘルムホルツは『力の保存について』を著し、この問題を論じている(ただし、エネルギーという用語が今日のような意味で使われるようになるのは、1850年代に入ってからで、ヘルムホルツは力という言葉を用いている)。ヘルムホルツは、エネルギーはその形態が異なっても仕事を行う能力のうえでは等価であり、そこには保存則が成り立つことを論じた。
ただし、保存則は成り立っても、仕事に使える有効なエネルギーの量は徐々に減少することが、クラウジウス(1850)とケルビン(1851)によって指摘された。これは、エネルギーの一部がある過程を通して、周囲に熱となって拡散してしまうと、その熱をすべてもう一度、有効なエネルギーに戻すのは不可能であることを意味している。つまり、エネルギーの変換には、このような不可逆現象が含まれるというわけである。そこで、エネルギー保存則を熱力学第一法則、不可逆現象を熱力学第二法則とよぶようになる。
さて、1865年、クラウジウスは「エントロピー」と名づけた量を導入し、熱力学第二法則を数学的に表現している。人間が目にするマクロな現象は、そのほとんどが後戻りできない不可逆現象である。たとえば、お湯に氷を混ぜれば、氷は融け、お湯の温度は下がり、全体で均一の温度になる。外部と熱の出入りがない容器を想定すれば、初めと終わりの状態で熱量の総和に違いはない。しかし、だからといって、いくら時間をかけても、容器の中にふたたび、お湯と氷に分かれた状態がひとりでに出現することはありえない。こうした不可逆性をクラウジウスは、「エントロピー増大則」として定量的に表したのである。
19世紀の後半、熱力学の確立と並行して、統計力学とよばれる新しい分野が台頭してきた。熱、圧力などといったマクロな量は、それをミクロに分解すれば、多数の粒子(原子、分子)のふるまいの平均的な量といえる。こうした視点から、物理現象を確率論を用いて解析するのが、統計力学である。
この統計力学の発展のなかで、エントロピー増大則をさらに一般化したのが、ボルツマンである。熱が関与する現象に限らず、不可逆現象とはおしなべて、統計的に対象のあるべき確率が小さい状態から大きい状態へ推移していく過程である。そこで、ボルツマンは確率論を用いてエントロピーを簡潔な数式で表現し直したのである。
ところで、断るまでもなく、時間はつねに過去から未来へと流れる。その流れ自体が、不可逆現象である。したがって、エントロピー増大則はマクロな対象に関していえば、時間の流れと重なっているといえる。もちろん、この法則をもって時間の流れについての謎がすべて解決したわけではないが、それまでは主として哲学の領域で論ぜられていた問題が、物理学によって定量的に扱われるようになった意義は大きいといえる。
[小山慶太]
19世紀科学のもうひとつの特徴として、光の研究の著しい進歩があげられる。とりわけ、その本性をめぐる論争は重要である。長い間、光の正体は粒子か波動かという論争が続けられてきたが、19世紀に入ると徐々に、波動説を支持する実験結果が蓄積され始めた。
まず1807年、ヤングが、光の干渉作用により明暗の縞模様が生じる現象から、波動説を主張した。また、1818年には、フレネルが光を横波と仮定して回折現象を説明する理論を発表し、それが実験で確かめられるにいたった。そして、この論争に終止符を打つ決め手となったのは、光の速度の測定である。
それまでも、光速度の測定は試みられていたが、その値があまりにも大きいため、もっぱら天体観測を利用してのものであった(1675年のレーマー、1728年のブラッドリー)。地上の実験室で精密な測定が可能となるのは、19世紀なかばにおいてである、1849年、フィゾーが、高速回転する歯車で光の進路を開けたり閉じたりする方法により、光速度を秒速約31万5000キロメートルと算出した(これは現在、知られている値よりも、およそ5%ほど大きい)。
ところで、粒子説と波動説では、媒質中に入射したときの光速度の変化に対する解釈が完全に相反していた。たとえば水中での光速度は真空中のそれに比べ、粒子説に従うと速くなるが、波動説では逆に遅くなるのである。したがって、実際に水中における光速度を測ってみれば、どちらの説が正しいか決着が着くことになる。この意味で、実験室で光速度の測定が可能となった実績は重要であった。そこで1850年、フーコーが水中を通過する光を高速回転する鏡で反射させる方法を利用して、光速の変化を調べてみた。結果は波動説の予測どおり、光が水中では遅くなることを示していた。こうして、長年の論争にひとまずの決着をみたのである。
[小山慶太]
この決着はさらに、光学と電磁気学との融合を生み出すことになる。すでに触れたように、19世紀前半、電気と磁気の相関を示す実験事実が蓄積されてきた。そうした一連の成果に基づき、1864年、マクスウェルは「電磁場の動力学的理論」と題する論文のなかで、電気と磁気の作用を統一して表す一組の微分方程式(マクスウェルの方程式)を発表した。これは、力学におけるニュートンの運動方程式に相当するものとなった。
そして、マクスウェルの方程式を解くと、電場(電気的な作用が働く空間)と磁場(磁気的な作用が働く空間)が交互に相手を発生させながら、空間を波となって伝わっていくことが示された。これが「電磁波」である。その際、導出された電磁波の速度が、真空中の光の速度に一致した。つまり、波動説で説明されていた光の正体は、電磁波にほかならないことを、マクスウェルは理論的に予言したのである(この問題は、1871年から1873年にかけて出版された『電気磁気論』でさらに詳しく論証されている)。
マクスウェルの予言どおり、電磁波は1888年、ヘルツによって検出された。また、検出した電磁波の波長と振動数から速度を計算すると、それは光速に一致したのである。なおここまで、この分野の研究は純粋に理学的な側面が強かったが、ほどなく、それは人々の生活に不可欠となる応用技術に転用されることになる。無線通信の発明である。マルコーニがその実験に成功するのは、ヘルツによる電磁波の検出から7年後の1895年のことになる。
以上のように、光速はマクスウェルの方程式という電磁気学の基本法則のなかで重要な役割を果たしたわけであるが、さらにそれはアインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論とも、深くかかわってくる。この年に発表した論文「運動物体の電気力学について」のなかで、アインシュタインは「光は光源や観測者の運動状態によらず、真空中をつねに一定の速度で伝わる」と仮定した。これを「光速度不変の原理」とよぶ。
われわれが日常目にする運動を記述するニュートン力学では、速度とは観測者の運動状態に依存した相対的な概念である。たとえば同じ車の速度でも、道路に立っている人、同じ車線を走る人、対向車線を走る人によって、みな、違って見える。確かに身近な例ではそうなるが、電磁気学の基本法則に含まれる光速について、この解釈をそのまま当てはめることはできないと、アインシュタインは考えた。観測者ごとに光速が違うとすれば、電磁気学の法則自体もそうなってしまうからである。そもそも、物理法則とはすべての観測者にとって同等に成り立つべきものであり、見る人によってばらばらでは普遍性に欠け、法則とはなりえないことになる。
このように、いかなる条件下においても光の速度は一定という規制が課せられると、必然的に時間と空間は相対的な概念にならざるをえなくなる。その結果、運動状態の異なる観測者どうしが同時刻の概念を共有することはできなくなる。同じ現象を目撃しても、観測者によって事の後先(あとさき)は違ってくるわけである。
もうひとつの重要な帰結として、アインシュタインは、真空中の光速が、あらゆる運動において速度の上限となることを導き出した。これは、どんなにエネルギーを投入しても、光速を超えることは絶対に不可能ということである。
さて、そうなると、当然のことながら、特殊相対性理論は、先ほど車の走行を例にあげたような速度の合成則と食い違ってくる。こうした合成則は、実は人間の感覚でとらえられる程度の速度の範囲内でのみ成り立つ近似法則に過ぎなかったのである。つまり、物体の速度が光速に近づくにつれ、相対性理論の効果は増大し、ニュートン力学からのずれも大きくなっていく。言葉をかえれば、ニュートン力学にはこうした適用限界が存在したのである。
また、同じ1905年に発表された相対論の二つ目の論文で、アインシュタインはエネルギーEと質量mが等価であることを示す簡潔な式、E=mc2(cは真空中の光速)を導き出している。
ところで、特殊相対論は基本的に互いに等速直線運動する座標系(慣性系)での話であったのだが、アインシュタインはこれを加速度運動する座標系にまで拡張した一般相対性理論を、1916年に発表した。そこでは、重力と見かけ上の力(遠心力のように、加速度運動によって生じる力)を同等とみなす「等価原理」が提唱されている。この原理と特殊相対論の光速度不変の原理を組み合わせると、重力場(重力の作用が働く空間)を通過する光は、その道筋が屈曲するという結論が導かれる。すなわち、直進するはずの光が、曲線を描くということになる。実際、1919年にエディントンが率いるイギリスの観測隊により、恒星から出た光が太陽の重力によって曲げられる現象が、皆既日食を利用して確認された。その結果、重力の効果が大きくなると、ここでもやはり、ニュートン力学は適用できなくなることが判明したのである。こうして、相対性理論は時間、空間、質量の概念を根底から覆したのである。
[小山慶太]
相対性理論の誕生は、従来の科学常識を打ち砕く、革命的なできごとといえるが、20世紀初め、時期を同じくして、もうひとつ物理学の基礎理論に変革をもたらす、新しい体系が打ち立てられた。それが量子力学である。その予兆は、19世紀末に始まった。
当時、放電管(低圧の気体を封入し、電極の間で放電をおこさせるガラス管)の陰極から、陰極線とよばれる未知の放射線が発生することが知られていた。1895年、陰極線の正体解明に取り組んでいたレントゲンは、思いがけずも、陰極線とは別に放電管から、透過性のきわめて高い新種の放射線が出ていることに気づいた。X線の発見である。X線の発見に触発される形で、翌1896年、ベックレルがウラン化合物から放射能を発見する。ウラン化合物は自発的に、X線とは異なる、なにかの放射線を出していたのである。またさらに、ベックレルの研究に触発される形で、1898年、キュリー夫妻が2種類の放射性元素、ラジウムとポロニウムを発見した。両元素とも、ウランよりはるかに強い放射能(放射線を出す能力)を帯びていたのである。
さて、ベックレルが放射能を発見した1896年、ゼーマンが、磁場をかけるとナトリウム原子が出す黄色い光のスペクトル線が数本に分岐する現象(ゼーマン効果)を発見した。ゼーマンからこの報告を受けたローレンツは、発光現象は原子の中に含まれる荷電粒子の運動に起因すると仮定し、ゼーマンの実験結果からこの粒子の比電荷(電荷と質量の比)を計算した。一方、1897年、J・J・トムソンが陰極線に電場と磁場を作用させると、陰極線が屈曲する現象を確認している。そこから、懸案であった陰極線の正体は負電荷を帯びた粒子であることが明らかになった。つまり、ここに電子が発見されたのである。また、電磁場による陰極線の屈曲から、その比電荷を求めると、それはゼーマン効果に基づいてローレンツが算出した値と一致したのである。すなわち、原子の中には電子という基本構成要素が含まれており、それが外へ飛び出してきた流れが陰極線であったわけである。この事実は同時に、原子は電子とそれ以外の要素に分割されることを示していた。
正体の解明といえば、1899年から1900年にかけて、放射性元素から出る放射線は透過力の違いによって、α線(アルファせん)、β線(ベータせん)、γ線(ガンマせん)の3種類に分けられることが判明した。そして20世紀に入ると、α線はヘリウム原子核の流れ、β線は電子の流れ、γ線は高エネルギーの電磁波であることがそれぞれ実験で証明される。また、X線の正体がラウエにより、紫外線よりも波長の短い電磁波であることが示されるのは、1912年においてであった。
さて、1902年、ラザフォードとソディは、トリウム元素が放射線を出しながら、別の元素に変換していくことを突き止めた。元素の崩壊という現象が明らかにされ、新しい“錬金術”の扉が開かれ始めたのである。そして、放射能を伴う現象では、化学反応とは比べ物にならぬ莫大なエネルギーが放出されていたのである。
このように、19世紀末から20世紀初めにかけ、電子や原子、さらには原子の内部構造といったミクロの対象にかかわる実験事実が蓄積されるにつれ、ニュートン力学やマクスウェルの電磁気学ではそうした現象を説明できないことがわかってきた。ここにも、旧来の理論体系の適用限界が露呈したのである。それにかわる新しい理論体系の基盤となったのは、1900年にプランクが提唱した量子仮説に物理的意味づけを与えた、アインシュタインの光量子仮説(1905)である(なお、一般に物理量――たとえばエネルギーなど――がある単位をひとかたまりにして、その整数倍ごとに不連続に変化するとき、それを量子とよぶ)。
19世紀、光の波動説が確立し、その正体は電磁波であることが実証されていたが、アインシュタインは、波である光には同時に、エネルギーのかたまりとしての粒子の属性も備わっていると考え、「波と粒子の二重性」という、マクロの対象には見られない、新しい概念を提唱した。実際、光量子仮説の正しさは、当時知られていた光電効果(光を照射された物質から電子が叩(たた)き出される現象)や、1922年に発見されるコンプトン効果(物質内の電子との衝突において現れるX線――これも電磁波の一種――の粒子性)などを通じて認められていく。要するに、波か粒子かの二者択一を迫るのではなく、作用の受け方に応じて、光は二つの属性のうち一方をより強く表すと解釈すべきなのである。そして、既存の理論では扱えなくなってきたミクロの対象の特性を解く鍵が、この波と粒子の二重性にあることが明らかになっていく。
1920年代に入ると、ド・ブローイが光量子仮説とは逆に、電子など粒子と考えられていた物質にも波動性が付与されているとする物質波の概念を提唱する。1926年、シュレーディンガーがド・ブローイの考えをさらに発展させ、物質波のふるまいを記述する方程式(シュレーディンガーの波動方程式)を発表した。新しい波動方程式は、波と粒子の二重性を取り込み、ミクロの対象を扱う基本方程式として位置づけられていくことになる。また、1927年には、G・P・トムソンらにより電子の波動性を示す実験が行われている。結晶に電子を照射すると、結晶内に周期性をもって配列された原子に散乱された電子が、波特有の干渉をおこすことが示されたのである。
同じ年、ハイゼンベルクがやはり波と粒子の二重性に起因する「不確定性原理」を発表している。その結果、ミクロの世界では、ニュートン力学のように初期条件を定めれば、100%の精度で結果を確定することは、原理的にできなくなる。決定論的な自然観はそこではもはや成り立たず、粒子の位置や運動量、エネルギーなどに対して、不確定さを伴う確率的解釈の自然観が生まれたのである。
こうして1920年代の後半、人間の素朴な実感を超越した、ミクロの対象を記述する量子力学が確立されることになる。
1928年、ディラックがその量子力学と特殊相対論の融合に成功し、そこから、反粒子(質量が同じで、電荷または磁気モーメントの符号が反対の粒子)の存在を予言した。1932年、アンダーソンによって電子の反粒子にあたる陽電子が発見され、予言の正しさは実証された。その後、1955年に反陽子が、1956年には反中性子が発見され、今日ではすべての素粒子に対(つい)となる反粒子が存在すると考えられている。
[小山慶太]
量子力学が確立された後、それが適用されることになる物質の研究は、大別して二つの方向に進んでいく。一つは、原子を電子と原子核に分割したのにとどまらず、物質の構成要素の階層をより下の段階へと降りていく流れである。もう一つは、物質のマクロな特性(電気的、磁気的、光学的、熱的、力学的、化学的な諸性質や原子の配列構造など)を、電子や原子の集団的なふるまいとして、ミクロの視点から解明する流れである。
まず前者について触れると、前述したように1932年、陽電子が発見されたが、この年には他にもチャドウィックが中性子を、ユーリーが重水素を発見している。また、コッククロフトとウォルトンが加速装置を用いて、原子核を破壊する実験を行っている。ここで、年代順に1930年代の大発見を列挙すると、次のようになる。1934年、ジョリオ・キュリー夫妻がアルミニウムにα線を照射し、人工的に放射性物質をつくりだした。これを受け、フェルミがα線のかわりに中性子をさまざまな物質に照射し、多くの人工放射性元素を生成している。1935年には湯川秀樹が、核内に陽子、中性子を束縛している作用を説明するため、中間子論を発表した。そして、ハーンとシュトラスマンが中性子照射によって、ウランの原子核を分裂させ、その現象が連鎖反応的に進行することを発見するのは、1938年のことになる。このとき、アインシュタインが導いたエネルギーと質量の等価性を与える式に従って、核内に閉じ込められていた莫大なエネルギーが放出されたのである。ここに人間は、新しいエネルギー源を手にすることになる。こうして、1930年代に原子核物理学の土台が築かれた。と同時に、それは核兵器の開発という「パンドラの箱」を開けることにもつながった。アメリカ、ニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の実験が行われるのは、ハーンとシュトラスマンの実験からわずが7年後の1945年のことである。
さらに第二次世界大戦後、加速装置の急速な高エネルギー化に伴い、物質の基本構成要素の追求は、より下の階層へと降りていった。その成果として、20世紀末、物質は究極的に6種類のクォーク(陽子や中性子の構成要素)と6種類のレプトン(軽粒子。電子とニュートリノの仲間)に分解できることが突き止められるにいたった。つまり、宇宙に存在する物質はすべて、この12種類の粒子を部品として組み立てられていることになる。
また、こうした物質の構成要素の追求と並行して、これらに作用する力の解明も進められた。そして現在、自然界は重力、電磁気力、強い相互作用、弱い相互作用の四つの基本的な力によって支配され、それらの力を伝達する粒子がそれぞれ存在すると考えられている。こうした力の担い手となる粒子はゲージ粒子とよばれ、重力を除く三つの力についてはすでに、おのおののゲージ粒子が発見されている。というわけで、万物は6種類のクォークと6種類のレプトンという部品に還元され、4種類のゲージ粒子がこれらにそれぞれの力を伝えて物質を形づくるという、簡潔な描像ができあがったのである。
次に、物質のマクロな特性をミクロの視点から明らかにする研究も、著しい進展をみせた。たとえば1911年、カマーリン・オネスが低温実験で発見した超伝導の解明は、その代表的なものであろう。金属を固有の臨界温度以下に冷却すると、電気抵抗が突然消失するこの現象も、量子力学特有の効果であることが1957年、バーディーンらが提唱したBCS理論によって明らかにされた。ほかにも物質の特性に関する研究は、半導体、集積回路、レーザー、超伝導物質、強磁性体など、現代社会を支える多様なテクノロジーの産物をもたらしている。
[小山慶太]
ところで、物質科学の発展はDNA(遺伝子)の構造解明という形で、生命科学とも深いかかわりをもってきた。その際、威力を発揮したのが、X線構造解析とよばれる実験手法である。1912年、ブラッグ父子が、結晶にX線を照射し、干渉をおこさせると、そのパターンから、結晶の構造(原子の周期的な3次元配列)が解析できることに気がついた。食塩やダイヤモンドなどお馴染(なじ)みの結晶の原子配列も、この手法の確立によって明らかになったものである。そして、実験技術の進展とともに、より複雑な物質の構造も解析できるようになってきた。
そうしたなか、ウィルキンズらが撮ったDNAのX線回折像をもとに、1953年、ワトソンとクリックは、それが二重螺旋構造(らせんこうぞう)をとるとした分子モデルを発表した。歴史を振り返ってみると、生物学が近代科学の仲間入りを果たすきっかけとなった一つは、1859年、自然選択説を唱えたダーウィンの『種の起源』の刊行であった。その後、メンデルが有名なエンドウの交配実験から遺伝法則を導き出したのは、1865年のことである。当時、それはあまり注目されなかったが、1900年、ド・フリースらによって遺伝法則が再発見されたのを契機に、メンデルの先駆的な業績は歴史に名を残すこととなった。そして20世紀後半、DNAの二重螺旋構造が突き止められたことにより、その複製増殖のメカニズムが究明され、遺伝は分子レベルで研究されるようになるのである。DNA自体は核酸という物質であり、生命そのものではないが、生物と非生物を区別する鍵(かぎ)ともいえる遺伝子の研究が、物質科学の対象として取り込まれたところに、20世紀の科学の特徴を見て取ることができる。
[小山慶太]
20世紀後半は、テクノロジーの進歩により天文学の観測データの蓄積が質、量とも大幅に増大した結果、宇宙に関する認識が一変させられる時代ともなった。その背景には、可視光だけでなく、電波、X線、γ線、赤外線、紫外線と、宇宙から飛来するあらゆる波長領域の電磁波をとらえて情報量を急増させた観測体制の充実があった。そして、その成果の象徴が、ビッグ・バン宇宙論であろう。
1929年、ハッブルが銀河から届く光のドップラー効果(光源と観測者の運動に応じて、光の波長が変化して見える現象)を観測したところ、地球からの距離に比例する速度で銀河が遠ざかりつつあることが明らかになった(ハッブルの法則)。これは宇宙が膨張している可能性を示唆するものであった。そうなると、時間を遡(さかのぼ)れば、宇宙は収縮し、やがて一点に収束してしまう。そこで1940年代後半、ガモフは、ケシ粒よりも小さな高温高密度の火の玉が大爆発(ビッグ・バン)をおこして宇宙は誕生し、その膨張はいまも進行中であるとする、「ビッグ・バン宇宙論」を提唱した。
はたして1965年、ペンジアスとウィルソンが、ビッグ・バンの痕跡(こんせき)となる電波(宇宙背景放射)を検出、その証拠をとらえたのである。また、宇宙に存在する元素の組成比の観測データからも、宇宙には始まりがあったとする仮説が支持されている。なお現在は、ハッブルの法則による観測から、ビッグ・バンはおよそ138億年前のできごとと推定されている。そのとき、時間も生まれたわけである。
さて、宇宙とはいっても、初期のそれは素粒子なみの極小サイズであり、その中にすべてのエネルギーと物質の素(もと)が詰め込まれていたことになる。したがって、そこは超高温、超高密度の空間となる。また、こうした状態では、先ほど述べた自然界の四つの基本的力(重力、電磁気力、強い相互作用、弱い相互作用)にまだ区別はなく、ひとつに統一されていたと考えられている。
そこで、高エネルギー加速器による素粒子の衝突実験を行うと、瞬間的に、そうした状態を創造できるので、初期宇宙の姿を再現することが可能になる。また、ハイテクノロジーを駆使し、遠い宇宙の姿をとらえることができる各種の望遠鏡も、生まれて間もない宇宙の状態を探る有力な道具となった。遠くを見ることは、それだけ時間を遡り、過去を見ることに等しいからである。たとえば1990年、アメリカはスペースシャトルに搭載して高性能の光学望遠鏡(ハッブル宇宙望遠鏡)を大気圏外に打ち上げ、地球の周回軌道に乗せている。ここでは大気の影響による星のまたたきを排除できるため、深い宇宙の鮮明な画像を得ることができる。大気圏外ではないが、1999年、天候と気流の状態が観測に適した高地に位置するハワイ島マウナケア山の山頂(4200メートル)に設置された、日本の光学赤外線望遠鏡「すばる」も集光力に優れ、140億光年のかなた(140億年の過去)と考えられるクエーサー(強い電波を出す星雲)の観測などに成功している。
こうした数々の実験、観測成果をもとに、ビッグ・バンをおこした後、宇宙の膨張とともに、基本的な力が四つに分化し、物質の素となる粒子が形成され、軽い元素が生まれ、星が誕生し、それが輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返すなかで重い元素がつくられ、今日の宇宙ができあがったとする進化のシナリオが描かれるようになってきた。ガリレイが望遠鏡を夜空に向けてから400年を経た今日、人間は空間的だけでなく時間的にも、宇宙に対する認識を深めようとしているわけである。
[小山慶太]
『プリンキピア』のなかで三つの運動法則と重力の法則を世に問うたニュートンは、一方において、万物の創造者である神はいまも宇宙に遍在し、時間と空間を構成していると記している。近代科学の誕生にこれほどの貢献をした人物が、同時に、現代のわれわれからみると神秘的としか思えぬ記述を残していることに、いささかの違和感を禁じえない。しかし、あらためて振り返ってみれば、宇宙の起源にしても、生命と非生命の区分けにしても、比較的最近まで、それらはいずれも、多分に神秘のベールに包まれたままの対象であった。こうしたテーマはなかなか、一直線には科学の射程に入らなかったのである。
ところが前述したように、新型望遠鏡による天文観測と素粒子の衝突実験を中心に20世紀末、科学は宇宙の起源に迫り、宇宙の進化の足跡をたどり始めるところまできている。また、DNAの構造解明を契機に、生命科学のここ半世紀の成長は著しく、ゲノム解読やクローン技術への応用へと発展してきた。
さらに生命とのかかわりでいえば、脳の研究にも現在、熱いまなざしが注がれている。かつて、デカルトは『人間論』(刊行は死後の1662年)のなかで、人体はさまざまな部品からなる機械であると述べ、機械の働きにあてはまる自然法則は、人体の機能にもそのまま適用できるとみなしていた。ただし、人間の精神だけは機械論的な枠組みには収まらないとデカルトは主張し、身体とは一線を画している。その点が、すべてが機械論で説明のつく動物と、崇高な人間の明確な違いであると考えたのである。これに対し、ラ・メトリは1748年、『人間機械論』を発表し、書名のとおり、精神までも含めて、人間は完全なる自動機械であるという論を展開した。ラ・メトリは精神について、こう述べている。「人間も動物も、脳の構造と役割は基本的には同じである。ただ人間の場合、動物と比べ、体のサイズに対する脳の大きさが大きく、脳のひだも多くなる。その分、人間の精神活動は動物よりも優れてはいるが、それは量的な差違にすぎない」。本質的には、人間の脳も動物と同様、機械の一部品であり、精神を特別扱いする必要はどこにもないというわけである。
その脳の機能は今日、神経細胞どうしの接点(シナプス)をスイッチとする回路を信号が流れる現象に還元して説明されているが、こうした機構を解明したカールソンらの「神経系のシグナル伝達に関する発見」に対し、2000年のノーベル医学生理学賞が贈られたことも、現在の脳科学の進展ぶりを象徴している。
人間の記憶や感情、意識といった、それまではブラックボックスに閉じ込められていたテーマにも、物質に適用するのと同じ科学法則に基づいて、研究のメスが入り始めたのである。デカルトが語った「我思う、ゆえに我あり」の言葉がもつ意味と実体にも、唯物論の視点から現代の科学は挑もうとしているのである。
考えてみれば、人間は科学という営為のなかで、自分たちを生み出した宇宙の起源と進化に思いをめぐらし、その思いめぐらしている脳そのものにも光を当てようとしているわけであるから、不思議といえば不思議である。不思議であると同時に、ここまで守備範囲を急速に広げてきた科学は、その影響力、支配力、存在感が、あまりにも甚大となってしまったため、人々の常識、感覚、倫理との間に、齟齬(そご)や軋轢(あつれき)も生じさせている。たとえば、クローン技術や不妊治療と生命倫理のかかわり、地球温暖化をはじめとする環境破壊、原子力発電所における事故など、解決しなければならぬ課題は山積している。換言すれば、これからの科学の発展は、こうしたやっかいな問題を新たに生み出す可能性をつねに秘めていることになる。それだけに自らが生み出す難問をいかに解決し、人々の生活、社会と折り合いをつけていくかも、現代科学の今後の重要な課題となっているのである。
[小山慶太]
『バナール著、鎮目恭夫訳『歴史における科学』全4巻(1966・みすず書房)』▽『アレクサンドル・コイレ著、横山雅彦訳『閉じた世界から無限宇宙へ』(1987・みすず書房)』▽『平田寛著『科学の文化史』(1988・朝倉書店)』▽『高橋憲一訳・解説『コペルニクス・天球回転論』(1993・みすず書房)』▽『新田義弘著『岩波講座現代思想10 科学論』(1994・岩波書店)』▽『米沢富美子著『岩波科学ライブラリー27 複雑さを科学する』(1995・岩波書店)』▽『中村静治著『技術論論争史』新版(1995・創風社)』▽『ロビン・ダンバー著、松浦俊輔訳『科学がきらわれる理由』(1997・青土社)』▽『黒崎政男編『サイエンス・パラダイムの潮流』(1997・丸善)』▽『岡田節人・佐藤文隆・竹内啓・長尾眞・中村雄二郎・村上陽一郎・吉川弘之編『岩波講座 科学/技術と人間』全11巻・別巻(1999・岩波書店)』▽『平野勝巳著『生きてゆくためのサイエンス――生命論パラダイムの現在』(1999・人文書院)』▽『菅野礼司著『科学は「自然」をどう語ってきたか』(1999・ミネルヴァ書房)』▽『フリーマン・J・ダイソン著、鎮目恭夫訳『多様化世界――生命と技術と政治』新装版(2000・みすず書房)』▽『井山弘幸・金森修著『現代科学論――科学をとらえ直そう』(2000・新曜社)』▽『「ネイチャー」編『知の歴史――世界を変えた21の科学理論』(2002・徳間書店)』▽『E・O・ウィルソン著、山下篤子訳『知の挑戦――科学的知性と文化的知性の統合』(2002・角川書店)』▽『金森修・中島秀人編著『科学論の現在』(2002・勁草書房)』▽『ハンス・ライヘンバッハ著、市井三郎訳『科学哲学の形成』(1985・みすず書房)』▽『A・F・チャルマーズ著、高田紀代志・佐野正博訳『科学論の展開――科学と呼ばれているのは何なのか?』新版(1986・恒星社厚生閣)』▽『B・C・ファン・フラーセン著、丹治信春訳『科学的世界像』(1986・紀伊國屋書店)』▽『M・ドゥ・メイ著、村上陽一郎ほか訳『認知科学とパラダイム論』(1990・産業図書)』▽『内井惣七著『科学哲学入門――科学の方法・科学の目的』(1995・世界思想社)』▽『小林道夫著『デカルトの自然哲学』(1996・岩波書店)』▽『小林道夫著『科学哲学』(1996・産業図書)』▽『ジョン・プライス・ロゼー著、常石敬一訳『科学哲学の歴史――科学的認識とは何か』復刊版(2001・紀伊國屋書店)』▽『高橋昌一郎著『科学哲学のすすめ』(2002・丸善)』▽『R・G・コリングウッド著、平林康之・大沼忠弘訳『自然の観念』新装版(2002・みすず書房)』▽『落合洋文著『科学はいかにつくられたか――歴史から入る科学哲学』(2003・ナカニシヤ出版)』▽『ジョン・ザイマン著、松井巻之助訳『社会における科学』上下(1981・草思社)』▽『フリーマン・ダイソン著、伏見康治ほか訳『核兵器と人間』(1986・みすず書房)』▽『M・ギボンズ、P・ガメット編、科学史科学教育研究所訳『科学・技術・社会をみる眼』(1987・現代書館)』▽『C・G・ウィーラマントリ著、原善四郎・桜木澄和訳『核兵器と科学者の責任』(1987・中央大学出版部)』▽『成定薫著『科学と社会のインターフェイス』(1994・平凡社)』▽『市川浩ほか編『科学と環境』(1999・培風館)』▽『森谷正規著『21世紀の技術と社会』(1999・朝日新聞社)』▽『小林良彰ほか著『社会科学の理論とモデル』全12巻(2000~2002・東京大学出版会)』▽『松本三和夫著『知の失敗と社会――科学技術はなぜ社会にとって問題か』(2002・岩波書店)』▽『平野喜一郎著『社会科学の生誕――科学とヒューマニズム』(2003・大月書店)』▽『ガリレオ・ガリレイ著、青木靖三訳『天文対話』上下(岩波文庫)』▽『廣重徹著『科学の社会史』上下(岩波現代文庫)』▽『トーマス・サミュエル・クーン著、常石敬一訳『コペルニクス革命――科学思想史序説』』▽『村上陽一郎著『近代科学を超えて』』▽『池田清彦著『構造主義科学論の冒険』』▽『H・バターフィールド著、渡辺正雄訳『近代科学の誕生』(以上講談社学術文庫)』▽『カール・セーガン著、青木薫訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』上下(新潮文庫)』▽『柴谷篤弘著『反科学論』(ちくま学芸文庫)』▽『エルヴェ・バロー著、松田克進訳『エピステモロジー』(白水社文庫クセジュ)』▽『ジョン・ホーガン著、筒井康隆監修、竹内薫訳『科学の終焉』(徳間文庫)』▽『小山慶太著『科学史年表』(中公新書)』▽『村上陽一郎編『現代科学論の名著』(中公新書)』▽『志村史夫著『文科系のための科学・技術入門』(ちくま新書)』▽『江上不二夫著『生命を探る』』▽『八杉竜一著『進化論の歴史』』▽『中山茂著『科学技術の戦後史』(以上岩波新書)』
科学とは今日通常は自然科学を指す。人文科学,社会科学という呼び方もある。元来は英語(もしくはフランス語)のscienceの訳語として19世紀末に日本で造られた単語であり,その後中国にも輸入された。scienceとは本来ラテン語のscientiaつまり〈知識〉全般を指す言葉から生まれたものと解される。ヨーロッパ語としてはフランス語に取り入れられたのが早く,17世紀初期に英語としても定着した。ドイツ語ではこれにWissenschaftという訳語を当てた。したがって,フランス語圏,英語圏,ドイツ語圏,さらには時代によってもその意味内容は微妙にくい違う。それをすべて〈科学〉と訳す日本の事情もまた考えなければならないことになる。
もともと〈知識〉一般を指したscienceが,他の知識とは区別される,ある特別な知識である,という事態が生まれてきたのはいつか,という点を考えることは,科学の概念規定にとって重要であるが,今日〈自然科学〉という言葉で了解されるような意味が形成されるに当たっては,いくつかの時代相の変化が必要であったと思われる。12世紀以降のアリストテレスのラテン語訳稿本にときに現れる形容詞scientificusは,やや限定された意味で使われた形跡がある。体系的な知識,正確でしっかりした知識というような意味合いが生まれる可能性がそこに含まれていたとする説もある。17世紀にイギリスでも用いられるようになったとき,この言葉は,ユークリッド幾何学のような演繹(えんえき)的にがっちりと組み立てられた知識体系を指すこともあり,また実験や観察から得られた知識を指すこともあったが,たとえば今日では科学にかかわる学会と考えられているローヤル・ソサエティが1660年代に生まれたとき,〈自然についての知識の改良のための学会〉とうたわれているにせよ,そこでの〈知識〉はknowledgeであって,scienceは使われていない。これは,この学会をまねてつくったといわれるフランスのアカデミー・デ・シアンスが,はっきりとsciences(複数)と表現しているのと対照的である。もちろん,ここでのsciencesが今日の〈科学〉と同じではなかったことは当然である。
イギリスでscienceが知識のなかでもある特定の部分を指すように,特別の意味を担いはじめるのは19世紀半ば近くのことであろう。当時scienceを定義した言葉のなかには,理性と想像力の所産,時間,空間,物質の世界や人間やその他の生物の身体などについての人間の知的征服,因果律のなかでの事象の生起を人間が見きわめようとする営み,人間経験を公共的,客観的に整理し伝えようとする営み,宇宙の秩序と美しさへの信頼に立った職業的,専門的な知識追究の活動,などというものが散見される。これらのうちのどれもが,今日の〈科学〉という概念の一部を言い当てている。
とくに注目すべきは,専門的,職業的な研究活動にすでに言及されていることである。イギリスでは科学者に相当する単語scientistが1830年代になって造られている。これは,そのころから研究を職業とし,研究する時間に対して対価を払われることを当然と考える人間が現れてきたことを意味している。そして,このような職業化された科学研究は,また同時に研究領域の自立化,独立化をも含んでいた。単に自然についての学問のみならず,人間や社会についての学問もまたこの時期にphilosophyから分化を始め,この傾向は今日まで激化の一途をたどっている。この時期に,本格的にヨーロッパの学問に接した日本人が,それを,いろいろな〈科目〉に分かれた〈学〉と受け取り,〈科学〉と名づけたのも自然なことであったろう。こうして,今日ではいちおう,科学を,自然についての,人間の経験に基づく客観的,合理的な知識体系であって,厳密な因果性の信頼の上に観察と実験を武器にした専門的,職業的な研究者によって推進されている,物理学,化学,生物学などを含む学問の総称,と定義することができる。
社会科学は,自然科学を範型として成立した概念ということができ,対象は自然一般ではなく人間社会に限定され,内容はできる限り上の科学(自然科学)の定義に近づくことが期待されるものの,対象の制約から観察や実験にはおのずから限界が生じるし,厳密な因果性も求められない。人文科学という概念はさらにあいまいで,こういう言葉が成立した背景には,〈科学〉というものをプラスに評価したうえで,その評価を借用しようとする意図さえ感じられる。たとえば人文科学を表す英語はhumanitiesであって,scienceの語は含まれていない。したがってこれらは,科学(自然科学)の概念の確立に伴って,学問分類の便宜上現れた概念といえる。
上にも触れたように,現在,一般的には科学はそれだけでプラスの評価を与えられている。〈科学的〉という形容詞とその否定〈非科学的〉を比べてみれば,その点がはっきりしよう。そうしたプラスの評価は,通常,科学的知識のもつ確実性,普遍性,汎用性などに求められている。厳密な因果性に立てば,それを応用した際には確実性が得られる。人工衛星の打上げにニュートン力学の法則が用いられるが,ニュートン力学の法則の厳密な因果性がきわめて高い精度の応用を可能にする。同じようにニュートン力学の運動法則は,事実上すべての運動につねに適用され,また文化や時代を超えた汎用性をもつという意味で普遍的である。そうした点が,他の領域の知識に対する科学の特権的優位性を明証していると考えられる。実際,ニュートン力学は,科学の最も重要な典型を与えている。物理学が科学の主導的地位を占めてきたのもそこに理由がある。ニュートン力学的世界像がニュートンその人の立てたものでなかったことは気をつけなければならないが,物質の世界を質点に還元したうえで,各質点のふるまいを,完全に一義的な運動法則で決定論的に記述することによって,原理的には世界に生起するいかなる現象も網羅的に把握できる,というニュートン力学的世界像は,量子力学の出現によって力学法則の一義性が少なくともミクロの世界では成り立たないことが明らかになった今日でさえ,依然として科学の基本となっている。
したがって科学は,世界に生起するすべての現象を,〈もののふるまい〉としてとらえ,そのふるまいを支配する法則としてはニュートンの運動法則もしくはそれに類したできる限り厳密な因果法則を採用する,という共通の性質をもっている。〈もの〉はデカルト的な意味で延長を備えるがゆえに,客観的である。そこで客観性を目ざす科学は基本的に唯物論的傾向をもつことになる。科学は自然を対象とするが,その自然のなかには,当然人間も含まれる。したがって,人間の科学的探究は,ものとしての人間の探究に終始することになる。ここに科学のもつ内容的特質の一つが現れる。科学は,その説明記述のなかから,〈こころ〉を締め出す。擬人主義やアニミズムがしばしば〈非科学的〉と切り捨てられる理由は,それらが,基本的にこころという概念を用いざるをえないからである。現代の科学的医学や科学的心理学が,人間のこころに立ち入らずに,もののふるまいとしての生体機能の検査を重視し,人間の行動に着目するのも,そうした理由による。
一方,科学は,ものという概念に階層性を与えることになった。それは,力学と並んで科学のもう一つの理念的柱となっている原子論,もしくは要素還元主義の結果ともいえる。物質を究極的な構成要素に到達するまで分割しようとする原子論の論理,さらにそこから系として派生する感覚的な性質を機械的・力学的性質に還元しようとする還元主義は,物質の世界にいくつかの階層を設けた。その階層は,科学における学問領域の分化にもある程度対応している。今日,最もミクロなレベル(素粒子)を扱うのは物理学である。原子レベルは物理学でも化学でも扱うが,高分子レベルは化学の領域であると同時に,生物学の領域でもある。細胞から個体,あるいは生物集団はやはり生物学で扱われるが,自然環境を含め,地球など天体レベルでは,再び物理学の領域になる。一般的にいうと,上位のレベルに属する概念や法則は,下位のそれで置き換えることができると信じられており,一部に批判はあるものの,今日の科学においては,この種の要素還元主義志向は,根強い特徴となっている。
もっとも,19世紀以降自然探究は〈もの〉のみではなく,ものに担われながらものではなく,しかももののふるまいを支配する二つの概念,すなわちエネルギーと情報を土台とする方向にも向かっている。20世紀中葉から始まった情報科学は,在来型のものに密着した科学の内容を徐々に変えつつあるとみることもできる。
科学の応用の側面は,応用科学ないしは工学の分野である。すでに述べたように,応用の側面における科学のもつ有効性,確実性,普遍性は,科学の特権性の主たる基盤であるが,とりわけ20世紀に入って,制度化され,産業化された科学では,社会との関係において占める位置は極度に肥大している。科学研究は,今日では,政治,経済,軍事,教育,産業など社会の各セクターの援助なしには成立しえないし,逆にそうしたセクターも,つねに科学研究支援の見返りを期待している。しかもその見返りの影響力は,原子爆弾の開発に象徴されるように,きわめて大きい。したがって,研究者の側でも,みずからの研究成果が,つねに社会に対してしかるべき有効性をもつものという宣伝を怠らない。これを怠るとき研究の続行が経済的に不可能になる,という強迫感が生まれているからである。しかも研究者のつくる科学者共同体は,研究それ自体がみずからの職業であり,それを遂行することによって自身のすべての生活が支えられている職能者の集団である以上,その集団内部では,科学研究はつねに善であり,これを阻害する要素はすべてつねに悪である,という論理が働く。こうした状況が,1970年代以降の社会の一部に,つねに善であったはずの科学に対する批判を生み出した。こうした批判はいくつかの内容に分けられる。原子物理学や素粒子論などの科学の研究成果が,人類全体にとっても恐るべき脅威となる核兵器の開発に直接かかわっている。巨大産業のなかで威力を発揮する科学技術の成果が,環境破壊や公害を生み出している。このように,科学研究の成果の利用方法の問題は,しばしば,応用を誤った問題としてとらえられる。遺伝子の分子生物学的研究がもたらす生命操作の可能性を巡る是非の議論も,巨大産業と結びつくとはいえないまでも,応用の問題に属する。
半導体物理学の進展に伴って生まれたコンピューターと高度通信技術の組合せによる高度技術化社会は,今後急速に実現するであろうが,その価値を評価する側と,その価値自体を疑問視する立場とに現在では事態が分裂している。したがって,こうした場合は,単に科学の応用の善悪といういい方では片づけられない側面ということができる。さらに極端な例では,科学的な立場からみて信頼される延命用の医療装置が,ある場合には,患者自身の利害に反するように働くというように考えられる事態を生み出している。つまり,こうした事態のなかでは,科学が追究してきた目標そのものが,それを追究することによって,自己矛盾を起こす,という可能性さえ現れている。
このように考えると,産業面に応用された科学だけに問題があるのではなく,また,科学は中立で,価値とは無縁の客観的な知識体系ではなく,それ自体非常に強い志向性をもち,非常に強い価値観と連動するものであって,しかもそれは産業化の著しい今日,とくに増幅された形で現れているのだ,という科学そのものを相対的な視点から眺める発想が生まれてきている。このような視点から科学を眺めなおしてみると,これまでとは異なった科学の姿が見えてくる。すでに一応の定義として挙げた,〈客観的〉かつ〈普遍的〉という科学の属性も,科学それ自体がもつ性格というよりは,科学とはみずからをそうした性格のものとして主張したがる傾向をもつ,という形に読みうる。また自然現象を要素還元主義的に扱おうとすることも,単に科学がもつ一つの価値観であるとみなすことができる。
科学の普遍性の主張は,ヨーロッパの近代科学がキリスト教社会を背負って生まれてきたことと無縁ではない。キリスト教のもつ〈普遍主義〉の姿勢がそのまま科学のその主張に反映されているとみることができるからである。そうした点で,科学とキリスト教との関係は,従来の解釈のように,初めから対立していたものではなく,本来同根であったと考えられるようになっている。それは少なくともコペルニクスからニュートンに至る〈科学者〉たちが実際には宗教者であってscientistでなかったこと,つまり,彼らがキリスト教信仰の基礎に立って彼らの仕事を遂行していたという事実に符合する。さらにこうした相対的な発想を進めると,科学の特権性への批判も生まれる。科学が,自然のなかに客観的に存在している法則であり,すべての人間は人間である限り備えている理性を正しく使いさえすれば,必ず発見すべきものである,という解釈が成り立たないとすれば,言い換えれば,それがヨーロッパという特殊な思想的・文化的伝統に依拠した特殊な知的な営みの一部であるとすれば,今日科学といわれるものが何であれ,それが通時的にも共時的にも,それ以外の知的体系に比べて,とくに優れたものである,という見解もまた成り立たなくなる。
この新しい立場に立つと,通時的には,科学の時系列上の進歩,つまり進歩史観が否定され,共時的には,現在の西欧的科学のみが唯一の自然についての正しい知識であるという考え方が否定される。では科学が外見上他のさまざまな〈民族科学ethno-sciences〉に対して優越しているようにみえるのはなぜか。それは,基本的には,現在科学が,政治,教育,経済などあらゆる社会的制度によって,その正当性と正統性とが保証されているからにすぎないと考えられる。他の民族科学(たとえば中国の伝統的医学)も,現在先進社会で科学に対して行われているような,社会制度を挙げての投資と保護とを得たときには,科学に匹敵するような〈有効性〉をもつ可能性は捨てられない,と考えるP.K.ファイヤアーベントのような論者もいるのである。このような徹底した科学の相対化の立場は,多少奇矯にみえながらも,1960年代以降に生まれた新しい科学論の展開に支えられて,今日一部に根を下ろしつつあり,また,少なくとも科学のある側面を鋭く言い当てていることは確かであると思われる。
科学の相対化から得られるもう一つの重要な論点は,科学と科学でないものとの間の,知的な身分に関するものである。科学がある独特の方法に支えられていると考えられている間は,科学は科学以外の知的領域から区別される特別な身分を担っていた。かつてその特別な方法として,データからの帰納主義(F. ベーコン,およびその後多くの変形版がある),あるいは反証主義(K.R. ポッパー)などが挙げられていた。しかし科学方法論が展開するにつれて,科学の現場で起こっていることのすべてにつねに妥当するような特定の方法論は存在しないという点が明らかになった。ポッパーの反証主義はそれを認めたうえでなお,事実の問題ではなく,権利の問題として,反証主義を言い立てようとするが,ポッパーがそれに固執するのも,もしその点で譲歩すると,科学と科学でないもの,とりわけみずからは科学を僭称していながらその実科学の仲間に入れられないとされるもの,すなわち〈疑似科学pseudo sciences〉との間に明確な線が引けなくなるからであった。こうした線引きに関する問題は〈demarcation problem〉と呼ばれる。ファイヤアーベントのような論者は,線引問題そのものが成り立たないのだと主張している。
すでに述べたように,科学は今日では一般の社会のなかにさまざまな制度を通じて堅固に組み込まれている。他方,科学にたずさわる研究者は,職業的専門家として,一つの社会(科学者共同体scientific community)を構成している。科学はそうした独特の共同体のなかで行われている知的営為である。このように二重の意味で,科学は〈社会的〉である。そこで,科学という知的営為をそうした社会的側面から学問的に追究しようとする領域が1950年代から徐々に現れてきた。一般には科学社会学sociology of scienceと呼ばれ,アメリカの社会学者R.K.マートンに発すると考えられている。
このように科学は現在さまざまな方法で,さまざまな領域から解明を試みられているが,たいせつなことは,それがつねに姿を変え形を変え性格を変えてダイナミックに変化するものであって,包括的かつ静的にとらえようとすると,必ずどこかでその把握からはみ出す,という点であろう。明確な実体のないままに,一種の虚構として現代先進社会の人間の生活を支配しそこに君臨するもの,それが科学であるといえよう。その意味では70年代に西欧に噴出した新しい全体論的パラダイム模索の動きは,東洋思想への傾倒と相まって,旧来の虚構を脱出しようとするニュー・エージ・サイエンスを構成しつつあることに注目しておこう。
→科学史 →科学者
執筆者:村上 陽一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…狭義には,科学研究成果の主たる発表メディアであって,ふつう活字印刷された定期刊行物で,学会などの刊行母体をもち,学会員によって投稿を購読されるもの(scientific periodicalまたはscientific journal)。広義には,科学記事を中心とする商業雑誌scientific magazineを含む。…
…社会科学とは,自然に対比された意味での社会についての科学的な認識活動,およびその産物としての知識の体系をいう。この定義で中枢的位置を占めているものは〈社会〉という語および〈科学〉という語の二つであるから,以下これらについて注釈を加えよう。 〈自然〉対〈社会〉という対概念は,古代ギリシアの哲学者によるフュシスphysis対ノモスnomosという対概念以来のもので,フュシスは人間とは無関係に存在しその法則に人間が介入しえない世界という意味での自然を意味し,これに対してノモスは習慣や法律や制度など人間が人為的につくったものを意味した。…
…これ以上分析的に,技術の概念規定を行うことは,特殊な目的をもつ場合を除いて,必要ではない。
[技術と科学]
過去には技術は,もっぱら経験的知識の蓄積のうえに発達してきた。それを担ってきたのは職人であり,その習得方法は,徒弟制度のもとでの実務を通しての修練であった。…
…社会科学とは,自然に対比された意味での社会についての科学的な認識活動,およびその産物としての知識の体系をいう。この定義で中枢的位置を占めているものは〈社会〉という語および〈科学〉という語の二つであるから,以下これらについて注釈を加えよう。…
…
【近代西欧の哲学】
キリスト教における〈神的な知〉への愛としての哲学は,近代西欧の哲学において,地上的な人間存在による知への愛としての哲学へ転回せしめられた。近代西欧の哲学は,17世紀に新しい哲学としての自然学を生み出し,18世紀には人間学すなわち今日の社会科学や人文科学へと展開された。しかしそれらは,18世紀後半に至るまでなお,今日の意味における〈科学〉ではなく実は〈哲学〉であり〈形而上学〉であった。…
…反科学とは,こんにち科学的とみなされている数量的・実証的な,対象(自然,社会,人間)への接近方法が,真理に到達できる唯一絶対の方法である,という考え方に異議を唱える思想全般を指す言葉である。ただし実際には反科学という言葉は,ずっと多義的に使われている。…
※「科学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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