穴穂部間人皇女(読み)あなほべのはしひとのひめみこ

改訂新版 世界大百科事典 「穴穂部間人皇女」の意味・わかりやすい解説

穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ)
生没年:?-621(推古29)

欽明天皇皇女。埿部(はつかしべ)穴穂部皇女,法隆寺金堂釈迦三尊像銘では鬼前太后とも記す。母は蘇我稲目の女小姉君(おあねのきみ)。同母の兄弟に穴穂部皇子や崇峻天皇らがいる。父を同じくし,母の同母姉の堅塩媛(きたしひめ)を母とする用明天皇の后となり,聖徳太子,来目皇子,殖栗皇子,茨田皇子を生んだ。天皇の没後,天皇と異母妹蘇我石寸名との子である田目皇子と結ばれ,佐富女王を生んだ。
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朝日日本歴史人物事典 「穴穂部間人皇女」の解説

穴穂部間人皇女

没年:推古29.12.21(622.2.7)
生年:生年不詳
欽明天皇と蘇我小姉君との皇女。用明天皇の皇后。聖徳太子の母。泥部穴穂部皇女,穴太部間人王,孔部間人 公主,神前皇后,鬼前太后,間人穴太部王とも。異母兄橘豊日尊(用明天皇)の妃となり,敏達3(574)年に宮中諸司を巡行した際,馬官の厩戸の前で聖徳太子を容易に出産したという。合わせて4男を生んだ。用明1(586)年に皇后となる。用明の死後,継子である多米王と再婚し,佐富女王を生んだ。大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長陵に,聖徳太子とその妻膳部菩岐岐美郎女と共に合葬された。石室内の3棺のうち,奥正面の石棺に葬られているという。

(明石一紀)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「穴穂部間人皇女」の意味・わかりやすい解説

穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのこうじょ)
あなほべのはしひとのこうじょ
(?―621)

欽明(きんめい)天皇の女(むすめ)。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の女小姉君。586年用明(ようめい)天皇の皇后となり、4人の皇子を生んだ。長男が厩戸(うまやど)皇子、すなわち聖徳太子である。ほかに来目(くめ)皇子、殖栗(えくり)皇子、茨田(まんた)皇子がいる。621年(推古天皇29)12月21日に亡くなったことは『日本書紀』には記載されていないが、『上宮聖徳法王帝説』や法隆寺金堂釈迦(しゃか)三尊光背などでわかる。鬼前(かんざき)太后ともいった。

[横田健一]


穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
あなほべのはしひとのひめみこ

穴穂部間人皇女

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「穴穂部間人皇女」の意味・わかりやすい解説

穴穂部間人皇女
あなほべのはしひとのこうじょ

[生]?
[没]推古29(621).12.21. 大和
用明天皇の皇后。聖徳太子の母。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目 (そがのいなめ) の娘小姉君 (おあねぎみ) 。天寿国繍帳彼女と太子の死をいたんで,太子の妃橘大郎女 (たちばなのおおいらつめ) が采女 (うねめ) に織らせたもの。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「穴穂部間人皇女」の解説

穴穂部間人皇女 あなほべのはしひとのおうじょ

?-622* 飛鳥(あすか)時代,用明天皇の皇后。
欽明(きんめい)天皇の皇女。母は蘇我小姉君(そがの-おあねのきみ)。用明天皇元年(586)皇后となる。厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子),来目(くめの)皇子,殖栗(えくりの)皇子,茨田(まんたの)皇子を生んだ。推古天皇29年12月21日死去。

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