生年の1663年は《貞柳伝》説による。《海音貞峨居士伝》説では1665年(寛文5)生れ。江戸時代中期の浄瑠璃作者,俳諧師。本名は榎並喜右衛門,のち善八。号は紀海音,大黒屋海音,鯛屋海音,貞峨,契因,昌因,白鷗堂,鳥路観。法名は清潮院海音日法。大坂御堂前雛屋町西南角の菓子商鯛屋善右衛門の次男に生まれる。父は貞門の俳人貞因,兄(異母兄弟説がある)は狂歌師油煙斎貞柳,叔父(貞因の弟)は俳人・狂歌師貞富という文学環境に育つ。少年期から青壮年期の20年間以上僧籍にあり,悦山和尚その他に師事し禅僧修行をしたが,その後,還俗する。大和柿本寺にもいたというが時期不明。還俗後大坂で医師となり,契沖に和歌を学び,かたわら俳諧も学ぶ。《貞柳伝》に海音の放蕩(ほうとう)と,豊竹若太夫芝居の浄瑠璃作者で紀海音と号した記載がある。若太夫と海音とが協力した豊竹座作者時代は,1707年(宝永4)暮の豊竹座再興のとき座付作者となって以来,23年(享保8)の《傾城無間鐘》まで続く。芝居引退,父の没後は兄貞柳に代わって鯛屋の経営に努め,34年,貞柳の没した後は鯛屋を養子忠七に任せ,高津菩提庵に隠居,俳諧以外に狂歌をも作った。36年(元文1)5月に医師として法橋位に叙せられ,契因と改号。古今伝授も受けて,晩年には俳諧や詩歌の交遊もあった。それまで抒情的傾向の強かった浄瑠璃界で文学・宗教・医学など広範囲にわたる多才・多識によって理知的・理論的表現を持つ浄瑠璃制作に成功した。いたずらに愁嘆に流れず,登場人物の感情も割り切って整然と処理する作劇術を示した。当時海音にとって最大の競争相手であった近松門左衛門の浄瑠璃が感情や心理の微妙な動きを抒情的な描写で表現したのとは対照的な作風である。近松の浄瑠璃は当時の観客,ことに女性や子供にとってやや理解困難な傾向があったのに対し,海音の作品は田夫児輩にも理解しやすかったことを《浪速人傑談》が指摘している。この相対立する作風が太夫の芸風の相違とも結合して,当時の道頓堀の東と西で〈海音・豊竹若太夫〉〈近松・竹本義太夫〉と両者競演したところに浄瑠璃史上の大きな意義がある。この豊竹座・竹本座の対立的な風の相違は後々まで影響した。海音の浄瑠璃作品のおもなものには,《椀久末松山》(1710以前),《お染久松袂の白しぼり》(1710),《今宮心中丸腰連理松》(1711夏推定),《傾城三度笠》(1715秋以前推定),《八百やお七》(1716ころ以前推定),《笠屋三勝二十五年忌》(1719推定),《心中二つ腹帯》(1722以前推定),《傾城無間鐘》(1723)など。浄瑠璃作品以外にも海音には俳諧,雑俳,和歌,狂歌,歌謡,浮世草子(存疑作)などの作品がある。
執筆者:横山 正
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浄瑠璃(じょうるり)作者、俳諧師(はいかいし)。大坂の老舗(しにせ)の菓子屋鯛屋(たいや)の次男に生まれる。通称喜右衛門。父は貞因(ていいん)と号し貞門の俳人、兄は狂歌師油煙斎貞柳として、ともに名を知られた。若いころ出家したが、父の死後還俗(げんぞく)して医者となり、また俳諧師として活躍。やがて豊竹(とよたけ)座から迎えられて紀海音の名で浄瑠璃を書き、竹本座の近松門左衛門と対抗、操(あやつり)界を二分する働きをみせた。その最初の作は1708年(宝永5)の世話物『椀久末松山(わんきゅうすえのまつやま)』で、その後の20年間に、時代物に『鎌倉三代記』『鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)』『傾城無間鐘(けいせいむけんのかね)』、世話物に『傾城三度笠(さんどがさ)』『心中二つ腹帯』『お染久松袂(たもと)の白(しら)しぼり』『八百屋お七』など50編余りを書いた。海音の作は、近松のそれが人間愛を重んじ、文学的にも優れているのに比べ、義理をもっぱらとする理知的な作風で、情味に乏しいという嫌いがあった。しかし戯曲構成の技巧に優れ、後世の並木宗輔(そうすけ)、近松半二(はんじ)らに近松以上に大きい影響を与えた。
[山本二郎]
『『日本古典文学大系51 浄瑠璃集 上』(1960・岩波書店)』▽『『日本古典文学全集45 浄瑠璃集』(1971・小学館)』▽『海音研究会編『紀海音全集』全8巻(1977~80・清文堂出版)』
(原道生)
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…98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《用明天王職人鑑》以後,竹田出雲(座本),近松門左衛門(作者),辰松八郎兵衛(人形),竹沢権右衛門(三味線)を擁し活躍した。その没後は竹本政太夫(《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫(豊竹若太夫,越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。 享保(1716‐36)後半からの人形機巧の発達,舞台装置の発達は浄瑠璃の脚本化,舞台装置の歌舞伎化を招く。…
…浄瑠璃では,元禄年代の末に上(揚)巻助六の情死を扱った《千日寺心中》などの作品が生まれていたが,1703年に近松門左衛門の世話浄瑠璃の初作《曾根崎心中》が上演されると,浄瑠璃だけではなく,歌舞伎でも歌謡でも空前の心中物ブームが訪れた。近松自身も《心中二枚絵草紙》《卯月紅葉》《心中重井筒(かさねいづつ)》《心中万年草》とたてつづけに心中物の秀作を発表,ライバル関係にあった紀海音も《難波橋心中》《梅田心中》《心中二ツ腹帯》などの作を発表した。歌舞伎の方でも,京坂で《鳥辺山心中》《助六心中紙子姿》《心中鬼門角》《好色四人枕》などの作品が世話狂言として上演され,その影響は宝永・正徳・享保(1704‐36)ごろには江戸にも及び,はじめは時代物の二番目として組みこまれていたが,やがて宝暦・明和(1751‐72)ごろには独立した世話狂言としても演じられるようになった。…
…1703年(元禄16),竹本義太夫の門弟竹本采女(うねめ)が独立,豊竹若太夫(のち上野少掾,越前少掾)と改名して道頓堀に開設した。いったん失敗したが,07年(宝永4)に紀海音を座付作者に,人形の辰松八郎兵衛を相座本にむかえて再興した。24年(享保9)の大坂の大火で焼失する出来事もあったが,《北条時頼(じらい)記》などが大入りして隆盛におもむいた。…
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[浄瑠璃全盛期――1720年代~1751年]
1703年初代義太夫の門弟豊竹若太夫(越前少掾)は,竹本座から独立し豊竹座を創立,持ち前の美声と経営的手腕で地歩を固め,初代義太夫,近松没後の浄瑠璃界は竹豊両座対抗の時代を迎えた。両座の競争により浄瑠璃界はいっそう活気を帯び,享保後半~寛延期(1726‐51)25年間に,現在の文楽や歌舞伎の主要演目となる名作が次々と初演されるが,近松・紀海音(1723年(享保8)以前の豊竹座作者)時代と異なり,これらの作品の多くは合作制により生み出された。34年人形に三人遣いが考案され,人形浄瑠璃の写実的傾向はいっそう強まり,特に竹本座の人形遣い吉田文三郎は人形が〈生きて働く〉と絶賛され,彼の考案した演出,衣装などは,現在まで文楽,歌舞伎の舞台に生き続けている。…
… 文耕堂は後世の番付面から,竹田出雲の門弟説があるが確証はない。紀海音(きのかいおん),竹田出雲,並木宗輔と並んで浄瑠璃四天王と呼ばれ,浄瑠璃全盛期の時代物作者として活躍したが,源平合戦に取材した地味な作品が多い。単独作は《河内国姥火》《車還合戦桜(くるまがえしかつせんざくら)》《元日金年越(がんじつこがねのとしこし)》《応神天皇八白旗(おうじんてんのうやつのしらはた)》の4作で,世話物は1作,他は合作である。…
…(1)に基づいた芝居歌。古く《落葉集》(1704)などに収録されるものもあったが,現行されるものは,紀海音(きのかいおん)作詞,沢野九郎兵衛作曲と伝えられる。三下り物で,途中に本調子の古い〈伊勢音頭〉が挿入され,再び三下りに戻って,能の《山姥》および《邯鄲(かんたん)》による〈山めぐり〉部分となる。…
…3巻。紀海音作。1709‐10年(宝永6‐7)ころ大坂豊竹座初演。…
※「紀海音」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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