経典そのものの教化宣揚を図る曼荼羅(まんだら)や変相図,釈迦を題材とする涅槃(ねはん)図や八相図,寺社の宣伝に供せられる祖師高僧伝絵・寺社縁起絵・参詣曼荼羅,英雄の最期や物語・伝説類を絵に描いたものなど,いずれも宗教的背景を持ったストーリーのある絵画を説話画といい,その内容や思想を当意即妙に説き語ること,あるいはその解説者を絵解きという。視聴覚に訴える絵解きは早くインドに起こり,中央アジア・中国を経て日本にも流伝し,さらに独自な展開をした。
日本に現存する最古の記録は,藤原良房建立の貞観寺に参詣した際,良房をまつる太政大臣堂の柱に描かれた《釈迦八相図》を寺僧から絵解きされたという重明親王《李部(りほう)王記》承平1年(931)の記事(《醍醐寺雑事記》所収)である。くだって,藤原頼長《台記》の康治2年(1143)から久安6年(1150)の条には,四天王寺の絵堂でつごう6度《聖徳太子絵伝》の絵解きを受けたが,寺僧の絵解きが興味本位の通俗的なものであったため,しばしば頼長や信西がその誤謬を正した,とある。しかし,異伝ともいうべき寺僧の所説こそ,後に下層階級を相手とする絵解きの隆盛をもたらす要素だったのである。平安時代の絵解きは,皇室や貴紳たちを対象とし,また高僧みずから仏寺堂塔内の壁画や障屛(しようへい)画を説き語るものだったと思われる。
鎌倉時代に至ると,元来宗教的なものであった絵解きの芸能化が急速に進み,話芸の特質を帯びるようになった。と同時に,寺社に属する専従の〈絵解法師〉と呼ばれる下級の絵解僧や,格好だけは僧形の散所(さんじよ)生活者の手にゆだねられ(《民経記》《東寺百合文書》など),聞き手層も下がり,絵解く内容は興味本位なもの,当意即妙なものへと変わっていった。室町時代には,絵巻や掛幅絵を携えて流浪漂泊した絵解法師とともに,寺社にまったく拘束されず,巷間に身を置き,貴紳の邸宅に出入りする俗人の〈絵解き(解説者)〉も出現した(《看聞御記》《春日若宮拝殿方諸日記》など)。《三十二番職人歌合》には,烏帽子(えぼし)・小素襖(こすおう)を纏(まと)った有髪の男が折り畳んだ掛幅絵を前に,伴奏用の琵琶(びわ)を抱え,絵画を指すために先に雉子(きじ)の尾羽根が付いた棒を持った姿が描かれており,一休《自戒集》(1455)にも俗人絵解きの芸態が述べられている。彼らは底辺に生きる芸能者だったのである。このころ,多人数が一度に鑑賞可能であり,各人がそれぞれの場面を容易に一覧しうる〈異時同図〉という壁画の特質を継承した掛幅絵が,同じく携帯や移動の点で簡便な絵巻に代わって多用されるようになった。
室町末期以降,このような通俗化した賤業の者たちの中に〈熊野比丘尼(びくに)〉とか〈絵解比丘尼〉などと呼ばれる女性が登場する。熊野牛玉(くまのごおう)や護符類を配り籾集めをするおりおり,俗に〈熊野の絵〉〈地獄極楽図〉と称する《観心十界曼荼羅(かんじんじつかいまんだら)》を用いて女子供を相手に即興性に富んだ絵解きを行ったが,文献・絵画ともに豊富な近世資料中には,絵解きの芸態や口ぶりを生き生きと伝えるものもある(《東海道名所記》《艶道通鑑》《籠耳》など)。この絵は,血の池地獄・不産女(うまずめ)地獄・賽の河原など女性にまつわる地獄を中心に六道(ろくどう)の諸相をつまびらかに描いていて,インドやチベットに伝わる《五趣生死輪図(ごしゆしようじりんず)》は言うまでもなく,ヨーロッパに伝来する《人生の階段図》との連関も注目される。
かつて絵解きは日本の至る所で容易に視聴できる宗教的な芸能だった。現在でも,毎年7月の〈太子伝会〉に1週間余を費やして絵解く富山市の旧井波町瑞泉寺の《聖徳太子絵伝》をはじめ,長野市往生寺の《刈萱(かるかや)親子御絵伝》,愛知県美浜町野間大坊《義朝公御最期之絵図》,三木市法界寺《三木合戦図》,絵巻を用いる現行唯一の例として著名な和歌山県日高川町の旧川辺町道成寺の《道成寺縁起》などが点在しているが,多くの場合絵解きの古態・伝統を維持することは困難である。
→変文
執筆者:林 雅彦
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主として中・近世に仏教を説くために仏画の掛物(かけもの)(まれに絵巻物)を掲げ、むちをもってその絵を説明した芸能、およびそれを行う雑芸者のこと。寺院の高級僧によって行われる場合もあったが、多くは大道芸として、かっこうのみ僧体の絵解法師などによって演じられた。中世、庶民仏教化に併行して盛んになったもので、一宗一派の宣伝や仏教の敷衍(ふえん)化、すなわち説教の視聴覚啓蒙(けいもう)といえる。仏教説話画を用いることが多かったが、しだいに社寺縁起絵、地獄図、物語伝説などの類が増え、多様化していく。文献初出は、931年(承平1)の『吏部王記(りぶおうき)』における重明親王が『釈迦(しゃか)八相図』の絵解きを受けた一条があり、ついで1143年(康治2)の『台記』の、四天王寺で藤原忠実(ただざね)と頼長(よりなが)の父子が『聖徳太子絵伝』を観聴した詳しい記録が残っている。このころはまだ庶民には接しえない高級な絵解きであったろう。中世に入って、『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』などの画証風俗にも乞食(こじき)法師による絵解きが行われていたことが察せられる。彼らの持ち歩いた材料は霊山霊地の参詣(さんけい)案内図や、地獄の苦患(くげん)のさまを描いた掛物などの縁起類で、『住吉(すみよし)祭礼図』には、観心十界図の画中画を示して大道芸する熊野比丘尼(くまのびくに)の画証がみえる。近世の熊野比丘尼は、もっぱら地獄図をもって女人の罪障を説いて生計の足しとした。今日でも滅びゆく芸能として、少数だが絵解きを行っている寺院もある。
[渡邊昭五]
『川口久雄著『絵解きの世界』(1981・明治書院)』▽『林雅彦著『日本の絵解き』(1982・三弥井書店)』
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…一方,仏教説話や民衆の間で語り継がれた説話を内容とする《信貴山縁起》《伴大納言絵詞》が12世紀後半に作られた。また《華厳五十五所絵巻》のような経典の絵解きや,六道輪廻思想に基づく《地獄草紙》《餓鬼草紙》さらに《病草紙》のような一群の作品も平安時代末の末法思想を背景に制作された。このように,物語文学や仏教説話などの影響のもとに各種の絵巻が創造された12世紀は,絵巻の黄金時代といえよう。…
…後者は全国10ヵ所以上に遺存例があり,いずれも那智山に登拝する道俗男女の姿と堂塔のたたずまいを所狭しと配置して描いており,地方民衆に熊野への参詣の意欲をわかせる性質のものであったことがわかる。これらの絵は当然絵解きのわざを伴ったと考えられ,それも初期は絵解き法師か山伏であったろうが,熊野の場合は女性の宗教者としての熊野比丘尼の活躍を認めることができる。すなわち,地方を巡歴していた中世の巫女が,熊野三山の修行に名を借り,民間に熊野系の祈禱行為とともに,熊野の神徳の絵解きを行ったのである。…
…近世の寺領はわずか5石だったが,江戸後期には江戸や京都で本尊の千手観音像や縁起絵の出開帳が行われ,また安珍・清姫の物語が盛んに上演されたので,道成寺はますます庶民の間で有名となった。いまも縁起堂で絵巻を使って参詣者に絵解き説法が行われている。現代風に内容はアレンジされているが,絵巻を広げるための見台が置かれ,片側から巻きながら絵解き説法がなされ,中世の絵解法師の活躍をしのばせて貴重である。…
…しかし中原の作例は全く伝存せず,敦煌に多くの実例を見いだすことができる。経変は大画面構図をとる場合が多く,予備知識のない信者や大衆を相手に,説話とその意味の理解や教化のために絵解きが行われた。敦煌からはその時用いられた絵解きのテキスト,すなわち変文が数多く発見された。…
※「絵解き」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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