日本大百科全書(ニッポニカ) 「緒方郁蔵」の意味・わかりやすい解説
緒方郁蔵
おがたいくぞう
(1814―1871)
幕末の蘭方(らんぽう)医学者。備中(びっちゅう)国(岡山県)の人。父は大戸萬吉という。名は惟嵩(これたか)、字(あざな)は子文、通称は郁蔵、研堂または独笑軒と号した。江戸の坪井信道(しんどう)の塾で緒方洪庵(こうあん)を知り、洪庵が大坂・瓦(かわら)町に適々斎塾を開いたのを知り入塾、『扶子(ふし)経験遺訓』の共訳者となり、義兄弟の約を結んで洪庵を助けた。1843年(天保14)適塾が過書(かしょ)町(大阪市中央区北浜3-3)に移転すると、郁蔵は瓦町に独笑軒塾(北の適塾に対して南塾とよばれた)を開き、洪庵の除痘館(じょとうかん)事業に協力した。葭島(よしじま)刑場においての人体解剖勉強を両方の塾生の共同で行った記録もある。郁蔵は土佐藩の嘱託を受けて兵書の翻訳と書生の教育にあたった。1869年(明治2)大坂医学校開設にあたっては取締である緒方惟準(これよし)(洪庵の嗣子(しし))の下で副校長格であり、大学少博士・正七位の辞令を受けた。『大坂医学校官版日講記聞』第1号の序文は郁蔵による。著書に、牛痘種痘の解説本『散花錦嚢(さんかきんのう)』ほか出版されたもの3編、写本で流布したもの10余編がある。政治家緒方竹虎(たけとら)は孫の一人である。
[藤野恒三郎]