改訂新版 世界大百科事典 「織田氏」の意味・わかりやすい解説
織田氏 (おだうじ)
近世大名。姓ははじめ藤原で,のち平姓を称するようになった。古く越前国丹羽郡織田荘に拠り,織田を称するようになったと考えられる。越前守護斯波氏に仕え,斯波義重が尾張守護を兼ねると,織田常昌が尾張守護代となる。斯波氏の分裂抗争とともに,織田氏も春日井郡清須城に拠り下四郡を領する一家と,丹羽郡岩倉城において上四郡を領する一家とに分裂し互いに争う。天文年間(1532-55)になると,清須織田家の三奉行の一人織田信秀がしだいに力を強め,主家をしのいで隣国にまで勢力をのばすようになる。その子信長は1568年(永禄11)足利義昭を奉じて入京,室町幕府を再興する。のち義昭を追って幕府を倒し,東は上野・甲斐・駿河・越前,西は播磨・因幡までをみずからの支配下に収めるに至った。しかし82年(天正10)本能寺の変にたおれ,嫡子信忠も二条城で自刃。信忠の子秀信が豊臣秀吉に擁されて家を継ぐが,関ヶ原の戦で西軍に属して宗家は滅びた。江戸時代には,信長の次子信雄(のぶかつ)と信長の弟長益(有楽斎)の子孫が大名として残り,明治に至って子爵となった。織田信雄の嫡子信良は早世し,嫡孫信昌が上野小幡2万石を継ぐが,信邦のとき明和事件に座し,信浮(のぶちか)は出羽国高畠に移された。のち信美のとき同国天童に移った。また,信雄の第5子高長(信友)は父の遺領大和宇陀郡3万石を領したが,信休のとき,父信武発狂のため減封,1695年(元禄8)丹波柏原2万石に移された。一方,長益は関ヶ原の戦後,大和で3万石与えられたが,のち第4子長政に戒重1万石,第5子尚長に柳本1万石を分与,長政の子孫は長清のとき陣屋を芝村に移し明治に至った。
執筆者:久留島 典子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報