置戸村(読み)おけとむら

日本歴史地名大系 「置戸村」の解説

置戸村
おけとむら

[現在地名]常呂ところ郡置戸町字置戸・字北光ほつこう・字豊住とよずみ・字川南かわみなみ・字境野さかいの・字雄勝おかち・字秋田あきた・字幸岡さちおか・字中里なかさと・字拓殖たくしよく・字勝山かつやま・字春日かすが・字常元つねもと・字安住あずみ留辺蘂るべしべ町字富岡とみおか訓子府くんねつぷ仲町なかまちなど

大正四年(一九一五)から同九年まで存続した常呂郡の村。大正四年四月野付牛のつけうし村から分立し二級町村置戸村が成立。常呂川上流とその支流訓子府川流域に広がる。村名は「戊午日誌」(登古呂誌)にみえる地名「ヲケトシ」にちなみ、同書には「此処昔し鹿(皮)投込し処なりと云伝ふ」と記される。明治中期頃からはオケトウンナイとよばれた(状況報文)


置戸村
おけとむら

大正九年(一九二〇)から昭和二四年(一九四九)まで存続した常呂ところ郡の自治体。大正九年六月、東部訓子府くんねつぷ村として分村し、成立。木材の好景気が過ぎたこの頃以後は長期にわたって不況が続き、工業生産も減少した。大正一四年の当村の全農家に占める小作農家率は六三パーセントと不在地主が多いことが農業の発展・安定をさまたげ、また三年に一度は冷害などに見舞われることもあって離農する小作人が後を絶たなかった。大正末―昭和初期には産業組合設立、昭和一〇年置戸村信用購買販売利用組合設立など自作農を作り出して農業を再生するための事業が進められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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