目次 西洋 日本 一般には文芸用語として,19世紀後半,フランスにあらわれて各国にひろまった文学思想,およびその思想に立脚した流派の文学運動を指す。ナチュラリスムという原語は,古くは哲学用語として,いっさいをナチュールnature(自然)に帰し,これを超えるものの存在を認めない一種の唯物論的ないし汎神論的な立場を意味していたが,博物学者を意味するナチュラリストnaturalisteという表現や,自然の忠実な模写を重んずる態度をナチュラリスムと呼ぶ美術用語など,いくつかの言葉の意味が重なり合って影響し,文学における一主義を指す新しい意味を獲得するにいたった。文学は科学と実証主義の方法と成果を活用し,自然的・物質的条件下にある現実を客観的に描かなければならないとする理論,これを〈ナチュラリスム〉の名のもとに組みあげていったのは,名実ともに自然主義派の総帥ともいうべきフランスの作家ゾラである。ナチュラリスム,ナチュラリズム などの西欧語は,日本に導入されるに際して〈自然主義〉という訳語があてられて定着したが,もともと〈nature〉と〈自然〉のあいだにあった意味のずれが,ナチュラリスム理解にゆがみをもたらし,日本文学における自然主義の特殊な性格を生む原因の一つになったとも考えられている。
西洋 自然主義の文学運動は,1870年前後から20年余りにわたってフランスの小説と演劇を支配した。自然科学のめざましい進歩,産業革命の進展,実証主義思想の隆盛といった時代現象を背景として,すでに19世紀半ばごろから〈写実主義 〉が文学の支配的傾向となっていたが,この写実主義文学の影響,とりわけフローベール の強い影響を受け,テーヌをはじめとする実証主義の思想家たちの感化のもとに自然主義の文学運動が開始される。すなわち,19世紀前半のロマン主義に対する反動としておこった写実主義の思想を受け継ぎながら,現実を支配する自然的・物質的条件をいっそう重視し,生物学的人間観を強く打ち出したのが自然主義であるということになる。写実主義の文学傾向が自然主義理論を得るに至る流れのなかで,事実上,自然主義成立を準備する役割を果たした作家がゴンクール兄弟である。事実記録や文献資料によって小説に完ぺきな客観性を与えようと努めたこと,人間心理を生理学的に解き明かそうという姿勢をとったことなどによって,ゴンクール兄弟は一面においてすでに自然主義の作家であったとみることもできよう。
しかし,自然主義に明確な理論的基盤が与えられ,流派が形成されるには,なおゾラの登場を待たなければならなかった。ゾラは,まず《テレーズ・ラカン》(1867)によって科学研究に類する小説を書きえたと自負し,構築しつつあった自然主義理論に対する確信を深めたあと,やがて,遺伝と環境に支配された〈一家族の自然的社会的歴史〉を描きつくすという壮大な意図のもとに,20巻の小説から成る〈ルーゴン・マッカール叢書〉(1871-93)を書き始める。また,小説執筆のかたわら,ゾラは自らの自然主義文学理論を《実験小説論》(1880)にまとめあげた。バルザックの《人間喜劇》にならった〈ルーゴン・マッカール叢書〉全体の構想が,P.リュカの遺伝理論など生理学・生物学の成果に多くを負っているのと同じように,〈実験小説論〉は,クロード・ベルナール の《実験医学研究序説》に示された医学上の方法論をほとんどそのまま小説に適用することを主張するもので,ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論であった。この理論はただちに多くの批判と反論を呼び起こし,科学的な実験と小説における想像上の〈実験〉を同一視するという基本的な誤りはその後も何度となく指摘された。しかし,この小説論は,その極端な立論を通して,少なくとも,素朴な熱情にも似た科学への信仰を共有することによって時代精神に適合した自然主義の一面,この文学思想の根底にある科学主義志向を最も端的に表し伝えている点で,自然主義の代表的文学理論の一つに数えられる。
1870年代の半ばごろからゾラの周辺に集まった自然主義派の若い作家たちは,会合の場所であったゾラの別荘がメダンにあったことから〈メダンのグループ〉と呼ばれるが,これに属するモーパッサン,J.K.ユイスマンス,H.セアール,L.エニック,P.アレクシの5人は,1880年,首領格のゾラとともにおのおの1編ずつの短編を持ち寄って作品集《メダンの夕べ》を公刊し,自然主義文学派の存在を強く印象づけた。これらの作家たちのほかに,自然主義派ないしそれに近い作家としては,日本にも早くから紹介されたA.ドーデ,O.ミルボー,劇作家H.F.ベックらがいる。
これら自然主義派の作家たちの多くには,生物学的・生理学的な人間理解,同時代の社会に対する批判精神,記録や資料の活用,主観を排した叙述態度,感覚的描写の重視など,いくつかの共通する傾向がある。しかし,一時期,互いに共感し合い,一つの流派をかたちづくったことが事実であるにしろ,彼らが皆,まったく同じ理論,同じ文学的信条のもとに仕事をしたわけでは決してなく,流派の領袖ゾラの自然主義理論に対しても,なんらかの点でこれに同ぜず,批判的・懐疑的な見解を抱く者も少なくなかった。そのうえ,ゾラの場合も含め,彼らの理論的主張と実際の作品とのあいだにはしばしば大きな隔りがあり,このことが自然主義派作家たちの作品に対する評価をいっそう複雑なものにしている。もともと彼らのあいだにひそんでいた文学観のずれ,個性的特色と制作態度の相違は,1880年代の末ごろからしだいに表面化し,科学や実証主義思想に対する懐疑がひろがりはじめると同時に,自然主義の文学運動は衰微と退潮の時期を迎える。
フランス自然主義は各国文学に強い影響を及ぼし,同系統の文学を生んだ。ドイツでは,G.ハウプトマンやH.ズーダーマン,北欧では,イプセンやストリンドベリらによって,おもに演劇における自然主義の傑作が書かれ,アメリカでは,F.ノリス,S.クレーン,T.ドライサーなどの自然主義的作家が出た。しかし,写実主義文学の独自の伝統をもつイギリスに自然主義は栄えなかったし,ロシアにもゾラ流の自然主義は根づかず,この思想にくみする作家は数少なかった。イギリスではG.ムーア,ロシアではP.D.ボボルイキンが,これら少数の作家たちの代表である。 執筆者:斎藤 昌三
日本 ゾラの名は早くから日本に伝えられていたが,1900年代の初頭に小杉天外や永井荷風らが一種の主張をともなって,ゾラの理論と方法を適用した小説を発表している。しかし,島村抱月によって前期自然主義と呼ばれたこの試みは,遺伝と環境認識の未熟な模倣にすぎず,見るべき成果をあげることなく終わった。そして日本の自然主義は日露戦争後に,浪漫詩人の自己転身の形をとって,個の解放を求める主我性が既成の権威を否定して人生の真に徹しようとする志向と結びつくという形で成立した。島崎藤村の《破戒》(1906)と田山花袋の《蒲団(ふとん)》(1907)がその記念碑的な作品である。先駆的存在として,小民(庶民)の生活を描き続けた国木田独歩もいた。《破戒》は主題と方法の清新さによって,《蒲団》は実生活の愛欲の赤裸々な告白として,いずれも文壇に大きな衝撃を与えた。また,《破戒》をいち早く西欧自然主義の命脈を伝えた作と評価した島村抱月をはじめ,長谷川天渓,片上伸(天弦)らの評論活動による理論的バックアップも有力だった。自然主義はやがて《早稲田文学》《文章世界》《読売新聞》などを有力な拠点とする一種の文学運動にまで成長し,1910年前後に最盛期を迎える。《何処へ》(1908)の正宗白鳥,《新世帯》(1908)の徳田秋声,《耽溺(たんでき)》(1909)の岩野泡鳴,《別れたる妻に送る手紙》(1910)の近松秋江らの新しい作家も現れ,ほとんど文壇の主流を形成する観があった。
日本の自然主義の際だった特色は,《蒲団》の強い影響下に虚構と想像力による作品創造を避けて,実生活レベルでのあからさまな自己表白の文学を目ざしたところにある。閉塞した現実のなかでかろうじて個を擁立する方法であったが,当然,社会性の喪失ないし希薄化を免れなかった。他方,現実の追求を個人生活の内面に限定したことは,内なる自然としての本能を人間存在の究極の事実として重視する傾向を生じ,あらゆる形式道徳の束縛を否定しながら無理想・無解決を標榜するにいたる。美を幻影として退ける態度も徹底していたが,フランスの自然主義に見られるような科学的精神には乏しかった。総じて,硯友社以来の風俗写実を否定して,本格的な近代小説の確立にあずかって力あったことは否めず,また,個の思想にもとづくリアリズム精神の深化と,現実を否定する契機としての反逆性は評価できるが,同時に,彼らの試みた〈真〉の追求は,〈現実暴露の悲哀〉に通じる虚無的な人生観をも胚胎することになった。実行のるつぼにのまれることを恐れた観照性をしだいに深め,それは官能描写の過剰とともに自然主義の短命をもたらした。運動としての自然主義は絶頂に達すると同時に急速に衰微し,その命脈は藤村や秋声,白鳥など,個々の作家の個としての成熟によって守られることになった。しかし,自己の内なる真実の表現こそ文学の本道であるという自然主義の残した牢固な文学観は,後代の作家たちに大きな影響を与え,大正期に入ってから私小説,心境小説という日本独自のリアリズム様式の誕生を見た。 →私小説 執筆者:三好 行雄