苗鹿庄(読み)のうかのしよう

日本歴史地名大系 「苗鹿庄」の解説

苗鹿庄
のうかのしよう

琵琶湖岸の苗鹿一―三丁目付近を庄域としていたと考えられ、北は雄琴おごと庄と接する。湖に注ぐ大正寺たいしようじ川が中央を東流する。中世の史料上、しばしば苗鹿村ともみえる。中世を通じて小槻氏(古代の栗太郡を本拠としていた小槻山君の末裔)領有下にあり、庄内には氏寺法光ほうこう寺がある。同寺蔵の木造男女神坐像は応永三年(一三九六)九月八日の年紀をもち、墨書銘のうちに「苗鹿大明神」とみえる。これは現那波加なばか神社のこととされ、法光寺は同社の神宮寺であった。

当地は古くは延暦寺の支配下にあったようで、「天台座主記」および「叡岳要記」によると、天元二年(九七九)八月二八日には、東坂本・三津みつ浜および苗鹿村の住人に課せられた同寺堂塔修理のための臨時雑役を免除する旨の官宣旨が下されている。承元二年(一二〇八)一一月日の承信譲状(山城曼殊院文書)には「東坂本苗鹿領」とみえ、京都曼殊院門跡領が存在していた。いつの頃からか当庄は小槻氏の支配する法光寺領となっていたが、元亨二年(一三二二)六月一四日の太政官符案(壬生家文書)によると、嘉禄年中(一二二五―二七)法光寺検校の後見であった定俊が、「小槻氏長者永代管領」の同寺・同末寺の所領や雄琴神社(小槻氏の氏神)妙法院門跡に寄進したといわれ、このなかに当庄および雄琴庄が含まれていたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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