朝日日本歴史人物事典 「荘田平五郎」の解説
荘田平五郎
生年:弘化4.10.1(1847.11.8)
明治時代の実業家。三菱財閥の経営者で,福沢諭吉系財界人の指導的存在。豊後国(大分県)臼杵藩士荘田雅太郎,セツの長男。臼杵生まれ。維新前後に藩より英学修業のため江戸,鹿児島に派遣されたのち,明治3(1870)年慶応義塾に入学,2年後には教師の資格を得た。大阪分校設立の任に当たるなど,福沢諭吉の信頼厚く,塾長格的存在であった。8年2月三菱蒸汽船会社社長岩崎弥太郎から幹部人材として嘱望され,三菱に転じた。三菱会社(8年9月郵便汽船三菱会社と改称)では,翻訳係,複式簿記の導入,会社規則(定款)制定等の重要な職務を担当した。岩崎社長から寄せられた期待の大きさは,岩崎の姪田鶴と結婚した事情からもうかがわれる。12年には本社管事として飛躍する三菱の首脳部の一角を形成するに至った。他方,福沢およびその門下生たちと協力し,福沢の盟友である岩崎の出資を得て,東京海上,明治生命,山陽鉄道などの創立,経営に当たった。 18年,岩崎社長が死去してその弟弥之助があとを継ぎ,三菱会社の海運事業を日本郵船に譲渡して,炭鉱,造船など陸の事業へと展開すると,弥之助社長のために大いに貢献した。先輩格の本社管事川田小一郎が22年に日銀総裁に就任したこともあって,弥太郎死後の三菱は弥之助社長,荘田管事のコンビを軸に動いたといえる。臼杵藩士が設立し,経営難に陥っていた第百十九国立銀行を三菱の傘下に吸収するよう斡旋したこと(三菱銀行の前身),21年からの1年間の海外視察中に製鉄業とビル街建設を提案したこと,製鉄業が無理と知るや造船業の拡充を主張,自ら造船所長を兼任して現地で長崎造船所の近代化工事を指揮したことなど,功績は大きい。41年に岩崎弥之助が死ぬと,2年後管事を退き,三菱系企業の役員として余生を送った。<参考文献>宿利重一『荘田平五郎』
(森川英正)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報