( 1 )「おとしぶみ」の漢字表記「落書」を音読したものであり、元来は匿名の投書により犯人を告発する文書をいった。平安時代には、政争に伴う便宜的手段としても行なわれ、次第に権力者に対する批判の意図をもって用いられるようになった。著名な例として、南北朝時代の「建武年間記」に見える「二条河原落書」がある。
( 2 )鎌倉時代初期に始まったとされる「落書起請」(「無名入札」とも)とは、匿名の投書(宣誓書付投票)による犯人確定の制度のことであるが、永享二年(一四三〇)の奥書をもつ「出法師落書」は、犬追物の射手に対する批評であり、「落書」の意図が批判・風刺から批評一般へと転化している。
時の政情や社会風潮の風刺・批判,陰謀の密告,特定の個人に対する嘲弄・攻撃のために作成し,ひそかに,人目につきやすい場所に落としておいたり(落しぶみ),門戸や壁に書きつけたり,紙に書いて掲示したりした匿名(とくめい)の文書。詩歌の形式によるものは,とくに〈落首(らくしゆ)〉といいならわしてきている。また,いわゆる〈いたずらがき〉としての〈らくがき〉(落書,楽書)は,〈らくしょ〉が変化したものであるが,本来のそれとは区別されている。
落書の歴史は平安時代の初頭に貴族階級のあいだで始まり,しばしば政争の具に利用されて,昇任・栄転をめぐる官僚どうしの確執・暗闘にひと役かっていたようであるが,〈世間に多々〉広まった落書として有名なのは,嵯峨天皇の時代(9世紀初め)の〈無悪善〉という落書で,史上に名だかい学者の小野篁(おののたかむら)がこれを〈悪(さが)無くば善(よ)かりなまし〉と解読したという(《江談抄》)。以後,さまざまな落書,落首が各種の文献に記録され,それぞれの時代相をうかがわせる好資料となっているが,政情の混迷,社会の矛盾を巧みな表現で鋭くついたものとしてとくに著名なのは,後醍醐天皇による建武の新政時に京都の鴨川の二条河原に掲げられたという〈二条河原落書〉で,落書の歴史上,比類のない傑作とまで評価されている。
匿名の投書で他人の隠れた罪状を告発する落書は,かなりはやくから寺院組織内で実施されていたが,中世に入ると荘園領主である大社寺によって荘園の支配・管理のために積極的に活用されるようになり,領内の犯罪者の検索・摘発に大きい効果をみせた。この種の落書には,領民各自の自発的意思にゆだねる場合と,領主の強制による場合とがあった。鎌倉時代の初期からは,領主の強制によるものがしだいに制度化し,領民を支配するための有力な〈てこ〉となった。しかし,その反面では,強制的に実施された落書は領民たちから漏らさず情報を得るのを目的としていたため,領民の側でも事後の処罰を避けるべく,万一にも遺漏のないようにたがいに気をつけあわねばならず,そのことが領民のあいだに自治的な気風・慣習をやしなわせることにもなった。落書を求められた領民は,事と次第によって該当者の名前を記したり,〈ミズ(見ず)〉〈シラズ(知らず)〉などと記したが,領主はいっそう確実な情報・証言を得るために,匿名ではあるが絶対に偽証のないことを神仏に堅く祈誓する旨の文言をそえた〈落書起請(らくしよきしよう)〉の提出を求めた。実施の方式は領主によって,また時と場合とによって必ずしも一定しないが,室町時代の諸例では落書を強要されたのは住民のうち15歳以上の男子であった。おおむねその年齢に達していて,はじめて成人と見なされるのが慣習であり,言動の一つ一つが一人前の社会的責任を負うものとして公認されたからであった。
執筆者:横井 清 江戸時代になると落書はいっそう多くなり,1709年(宝永6)将軍綱吉の死後,柳沢吉保,稲垣重富,荻原重秀,隆光らの罪悪をあげた〈宝永落書〉をはじめ黒船の来航などにかかわるものはとくに多い。その事件なり,当時の人々のうけとめかたや世評といったものを端的に表現し,まさに〈寸鉄人を刺す〉という言葉どおりのものがある。傑作も少なくなく,また公式記録などからはうかがうことのできない機微や世相・人心の動向などを知ることができるものが多く,歴史の側面を知るのに有用である。
執筆者:南 和男
門や壁など書くべきでないところにいたずら書きすること。転じて,記述や描写の目的を定めずに遊び心で描く態度をさす。日本では,〈落書〉を〈らくしょ〉と読んだ時代が長く,そもそもは〈落首(らくしゅ)〉に由来することばである。落首は,詩歌の形で時事や人物を諷した章句を門や塀にはったり,道に落として世間の評判をたてようとする行為や作品をいった。平安時代に貴族のあいだで行われ,やがてそれが恋の相手などへの思慕のメッセージをさすものとなったのが〈落し文(おとしぶみ)〉であり,詩歌という形にとらわれず匿名の風刺をさす語となったのが〈落書〉である。16世紀に長崎の宣教師たちが編んだ《日葡辞書》がRacuxo(ラクショ)の訳を〈caqivotosu(カキオトス)〉,だれかある人にあてつけて,人目につく所に置く風刺などの貼紙,としているのは,他人をおとしめるために書く行為という目的ないし意図にこの語の中軸があったことを伝えるものである。落書がひときわ盛んだったのは,幕藩体制下のとくに19世紀の江戸においてである。飢饉はあいつぎ米価はあがる一方なのに,幕閣の汚職はあいつぎ幕政は倹約令を主とする〈改革〉をつづけるばかりでなんら有効な政策がとられなかった。町人たちは不満を落首や落書に表現したのである。しかし,禁制や禁令が強化されるにつれて,匿名の意思表明は多数の共感を得るためのくふうをかさねるようになり,数え唄や経文の形をとって覚えやすく伝えやすい語呂をつづることが流行した。民間伝承として広く知られている章句を〈もじり〉,また有名な物語の登場人物たちなどに〈見立て〉る,ということば遊びの要素の強い風刺がそこに成立した。
欧米で落書をさすgraffitiという語は,19世紀にポンペイなどイタリアの古代遺跡が発見されてのち,その壁画の研究のなかで造語された考古学,美術史の学術用語である。とくにポンペイの絵についてはその性交描写が倫理観にそむくという論争がつづいたことは,日本で落書の自然発生的な性格が禁制と対立する要素をもったこととかさなり合うところがある。1973年アメリカでジョージ・ルーカスGeorge Lucas監督が1960年代の青春を映画《アメリカン・グラフィティAmerican Graffiti》に描いてのち,この学術用語は学界の枠を超え,とくに現代日本のジャーナリズムで率直な感性表明という意味をこめて愛用されるようになっている。なお,子どもが地面や紙の上に白墨,クレヨンなどで何を描くともなく,無心に描くような行為をさしていう落書は,英語でscribbling,米語でdoodlingと呼んでいる日常語がほぼ該当する。この場合,描く像がそれ自体として意味を伝えなくてもよいような筆の遊び,心の遊びであって,禁制という要件は入ってこない。心理学では,このような描写行為を人間性の発達の一段階として重視する立場がある。子どもの絵はこのスクリブリング行為から始まって,やがて描写しつつ対象を言葉で告げるようになり,そこから描いてものを伝えるという段階にすすむ。人類史においては,後期旧石器時代のものと推定されている南フランスの洞窟壁画に,手の指で描いた曲線の交錯があり,主題不明のこの複線画がスクリブリング段階の代表とみなされている。原始美術では,この段階につづいて牛や人物像の描画が生まれた,と考えられている。
→落書(らくしょ)
執筆者:荒瀬 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
落書とは署名のないもの、無記名のものの意で、歴史的には以下のように二つの意味をもつ。(1)養老律(ようろうりつ)の編目の一つである「闘訟律(とうしょうりつ)」に「匿名の書を投げて罪人を告発する者は徒(ず)二年」とあるように、落書は本来犯罪人を告発する投書をさすものであった。平安から室町時代にかけての寺社では、犯罪者を決める無記名投票が制度化しており、とくにそのなかで起請(きしょう)の形式をとったものを落書起請といった。(2)時局の風刺や権力者を批判、嘲笑(ちょうしょう)した匿名の文章や詩歌。詩歌形式のものを落首(らくしゅ)という。衆人の注目しやすい場所での貼(は)り紙、捨て文、投書によって、間接的に人々に噂(うわさ)を流布させることをねらったもので、政治の動揺期に数多くみられ、公然と政治を批判することのできない民衆の憤りの発露としてつくられた。落し文ともいう。各時代の世論を反映した作品の大部分は、庶民の反権力志向に基づくものであり、史実を側面からとらえ、その本質に迫るものが多い。先駆的例としては、未来を予言する神の声として流布した古代の童謡(わざうた)が知られている。時勢を風刺した中世落書の白眉(はくび)は「此比(このごろ)都ニハヤル物 夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)」で始まる「二条河原(がわら)落書」(『建武(けんむ)記』)である。これは、建武の新政に伴う政治の混乱ぶりを百七十余句のなかで巧みに嘲弄(ちょうろう)、批判したもので、南北朝前後の世情を探るうえで貴重な史料とされている。近世に入ると、町人文学の盛行に伴い、落書は、謡曲、物は尽くし、番付型など多様な形態をとるようになり、作品数も激増するが、その内容は卑俗化し、文芸的価値は乏しくなる。
[錦 昭江]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
本来は犯人告発のための匿名の投書をさしたが,一般的には社会や権力者などを批判・諷刺した匿名の文章や詩歌をいう。とくに和歌の形式のものを落首(らくしゅ)というが,中世には区別せずすべて落書とよばれたようである。「建武年間記」に載る「二条河原落書」が著名。これは後醍醐天皇と建武新政府を非難した内容で「此比(このごろ)都ニハヤル物,夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)」と始まり,七五調の物尽しの形式になっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…古代では,正倉院に伝わる写経の片すみに描かれた〈大大論〉と書き入れのある人物のカリカチュアがよく知られている。こうした身近な人物の特徴をとらえた戯画は天平期の落書(らくがき)(文書の余白や紙背,建築の目だたぬ部分に描かれる)に最も多いモティーフであった。法隆寺金堂の天井板や唐招提寺金堂の梵天像台座に隠されていた落書には,人物にまじって性器や性交場面の描写も見られて興味深い。…
…詩歌の形式によるものは,とくに〈落首(らくしゆ)〉といいならわしてきている。また,いわゆる〈いたずらがき〉としての〈らくがき〉(落書,楽書)は,〈らくしょ〉が変化したものであるが,本来のそれとは区別されている。 落書の歴史は平安時代の初頭に貴族階級のあいだで始まり,しばしば政争の具に利用されて,昇任・栄転をめぐる官僚どうしの確執・暗闘にひと役かっていたようであるが,〈世間に多々〉広まった落書として有名なのは,嵯峨天皇の時代(9世紀初め)の〈無悪善〉という落書で,史上に名だかい学者の小野篁(おののたかむら)がこれを〈悪(さが)無くば善(よ)かりなまし〉と解読したという(《江談抄》)。…
…転じて,記述や描写の目的を定めずに遊び心で描く態度をさす。日本では,〈落書〉を〈らくしょ〉と読んだ時代が長く,そもそもは〈落首(らしじゆ)〉に由来することばである。落首は,詩歌の形で時事や人物を諷した章句を門や塀にはったり,道に落として世間の評判をたてようとする行為や作品をいった。…
※「落書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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