朝日日本歴史人物事典 「藤井較一」の解説
藤井較一
生年:安政5.8.18(1858.9.24)
明治大正期の海軍軍人。岡山藩士藤井広の長男。明治13(1880)年海軍兵学校卒業。24年ロシアのニコライ皇太子来日の際,接伴皇族有栖川宮威仁親王付武官として大津事件に遭遇,天皇の行幸を請う電文を起案するなど善後処理に努めた。日露戦争(1904~05)には,「吾妻」艦長,のち第2艦隊参謀長として出征。旅順港口に機雷の沈置を進言して,マカロフ提督が乗る戦艦「ペトロパブロフスク」を撃沈,ロシアの旅順艦隊に打撃を与えた。さらに東郷平八郎連合艦隊司令長官統裁の会議で,バルチック艦隊の対馬海峡通過を理をもって論じ,島村速雄第2艦隊司令官と共に,大勢であった北方迂回論を制した。この予測が的中,日本海海戦を勝利に導く。戦後,海軍軍令部次長,佐世保,横須賀各鎮守府司令長官などを歴任。大正5(1916)年軍事参議官となり海軍大将に進んだ。遺言により爵位を謹辞。<参考文献>藤井秀雄『先考海軍大将藤井較一事跡』,没後六十周年記念誌刊行会『藤井大将を偲ぶ』
(岸本昌也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報