西安寺村(読み)さいあんじむら

日本歴史地名大系 「西安寺村」の解説

西安寺村
さいあんじむら

[現在地名]玉東町西安寺

村南より発する白木しらき川支流の西安寺川流域に立地し、東は那知なち(現鹿本郡植木町)、北は二俣ふたまた村、西は上白木かみしらき村、南は原倉はらくら村に接する。

「事蹟通考」によると古くは山北やまきた村と称し、のち村内にあった西安寺にちなみ村名を改めたという。同書所載の相良系図の頼平の項に、玉名郡山北に住し山北五郎左衛門を称したとあり、年未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書)に三男領地として「山北郷三十五町」がみえ、元久二年(一二〇五)相良長頼人吉ひとよし庄地頭職を得たのち長頼の弟頼平も鎮西に下向し当地一帯を領したと思われる。嘉禄三年(一二二七)長頼の弟宗頼が没すると宗頼の子頼重と長頼の間でいずみ(現鹿本郡鹿本町・菊鹿町一帯)内の地をめぐって相論が起き、訴訟の過程で幕府に提出された安貞三年(一二二九)一月日の長頼に宛てた父頼景の譲状には「長頼一期之間、背命之時者、山井山北内弐所々知者悔返之、可為長頼沙汰」とあって頼重に譲られていたことが知られる(寛元元年一二月二三日「関東下知状」同文書)

西安寺村
さいあんじむら

[現在地名]能都町瑞穂みずほ

山田やまだ川左岸に位置し、南東はち村。正保郷帳に村名がみえ高一一二石余、田方五町四反余・畑方二町。承応三年(一六五四)の村御印の高一三二石余、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一四三石、免五ツ二歩、小物成は山役四五匁・炭竈役二六匁(三箇国高物成帳)。明治八年(一八七五)当村は八ノ田村など二村と合併して瑞穂村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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