諫早湾干拓事業(読み)いさはやわんかんたくじぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「諫早湾干拓事業」の意味・わかりやすい解説

諫早湾干拓事業
いさはやわんかんたくじぎょう

諫早湾有明海の内湾で、湾奥部の諫早干潟を含め、飛び抜けて魚介類の生産性の高い海域であり、瀬戸内海がまったく汚染されていないころの生産力に匹敵するといわれていた。その大規模な干拓計画(通称は南総開発)が持ち上がったのは1970年だったが、休止、再開、計画内容の変更などが重なり、ようやく諫早湾深奥部すなわち諫早干潟(約3000ヘクタール)を干拓することとなった。そのため97年4月14日、潮受け堤防の排水門が締め切られた。これには強い反対もあり、全国的な問題となったが、農林水産省と県、市は「防災と優良農地の造成」を名目に強行し、貴重な干潟を抹殺した。干潟は魚介類の生産の場としてだけでなく、高い水質浄化機能をもち、渡り鳥のかけがえのない中継点、越冬地でもある。この干拓事業の当初予算は1350億円だったが、それが2370億円に膨れ上がった。また国土交通省(旧建設省)は諫早湾に注ぐ本明川に防災ダムの建設を計画しているなど、省庁ごとの縦割り行政の欠陥も露呈している。なお、排水門を開いて干潟に海水を入れよという要請は、引き続き行われているし、市民ムツゴロウなど生き物を原告に加えて諫早湾の干拓事業見直しを求めている裁判では、99年10月、長崎地裁が現場検証を行った。また農水省は2000年度中に完成する予定だった干拓事業を2006年度まで延長し、2001年に「時のアセスメント」(公共事業の再評価)を実施した。その結果、2002年に事業計画の変更を行い、干拓面積を約2分の1に縮小、また「農と緑と水辺の空間」の実現といううたい文句で環境配慮対策の実施を決めた。しかし、事業そのものの見直しと排水門の開放を求める運動が続けられている。

[永戸豊野]

『山下弘文著『干潟を守る――有明海・諫早湾、環境とアセスメントに対する一住民の闘いの記録』(1980・武蔵野書房)』『山下弘文著『日本の湿地保護運動の足跡――日本最大の干潟が消滅する?有明海諫早湾 干潟を守る懲りない面々たち1』(1994・信山社出版)』『山下弘文著『諫早湾ムツゴロウ騒動記――二十世紀最大の環境破壊』(1998・南方新社)』『富永健司写真文『有明海――諫早湾の干潟と生活の記録 新版』(1996・まな出版企画)』『片寄俊秀編『諫早干潟の再生と賢明な利用――国営諫早湾干拓事業の問題と代替案の提案』(1998・游学社)』『永尾俊彦著『ルポ諫早の叫び――よみがえれ干潟ともやいの心』(2005・岩波書店)』『日本海洋学会編『有明海の生態系再生をめざして』(2005・恒星社厚生閣)』『宇野木早苗著『有明海の自然と再生』(2006・築地書館)』

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知恵蔵 「諫早湾干拓事業」の解説

諫早湾干拓事業

農林水産省が1950年代から、長崎大干拓構想の一画として、有明海に面する諫早湾(長崎県南部)で計画を進めてきた干拓事業。当初は、食糧確保のための水田開発が目的だったが、全国的な米余りが問題になると、灌漑(かんがい)用水の確保や畑地の開発に変わり、89年の着工前には水害防止が最大の目的となった。そのため、動き出したら止まらない大型公共事業の典型例として報じられる。
その後も、有明海の水質悪化を懸念する漁業関係者や環境保護団体から反対の声が続き、規模は縮小されたが、計画の根幹となる干拓事業は予定通りに進められた。97年、全長7kmに及ぶ水門(潮受堤防)によって、湾の奧が外海と遮断され、堤防内の約3500haの区域に干拓地と調整池が造られた。この時、鋼鉄製の300枚近い水門がまるで「ギロチン」のように海に突き刺さっていくニュース映像が流され、全国に大きな衝撃を与えた。
その後、2000年に有明海の養殖のりが記録的な凶作となり、長崎大・東幹夫教授らから、干潟の減少による浄化機能の喪失などが原因とする調査報告が発表された。また、文部科学省所管の科学技術振興機構も、水産業振興の妨げになった事例として、「失敗知識データベース」にリストアップしている。こうしたなか、02年に地元の漁業者団体が工事の差し止めを求めて国を提訴。第一審の佐賀地裁(04年)では認められたが、福岡高裁(05年)では認められず、最高裁でも退けられた。こうして、07年11月、総事業費2533億円をかけた干拓事業は完成し、08年から営農が始められた。
ところが、地元の漁業者団体が差し止めと同時に提訴した、堤防撤去を求める訴訟では、正反対の司法判断が出された。08年6月、第一審の佐賀地裁は国に5年間の常時開門を命じ、10年12月の福岡高裁もこれを支持する判決を出したのである。これを受け、かねてから水門開放を唱えていた菅直人首相は、上告を放棄。事業推進派の地元商工団体・農業関係者はこれに猛反発し、同じく長崎県中村知事も国の上告放棄を不服として、諫早市長・雲仙市長との連名で、首相あてに23項目からなる抗議の質問状を出している。今後、3年間の猶予期間を経て、開門される見通し。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2011年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「諫早湾干拓事業」の意味・わかりやすい解説

諫早湾干拓事業
いさはやわんかんたくじぎょう

長崎県南部,有明海にある諫早湾での干拓事業。当初は食糧増産のための水田確保を目的に 1952年,1万haの干拓が予定されていた。しかし,その後の米余りや漁業関係者の反対などによって,目的は水道用水の確保,次いで水害防止へとたびたび変更され,規模も縮小されて,3550haを干拓地と調整池にすることとし,1989年に着工された。その後も総事業費の増大や,防災効果や調整池の水質の悪化に対する疑問,さらにはムツゴロウなど干潟を生息地とする生物の保護,自然保護などの観点から,自然保護団体をはじめとする市民団体や地元住民から事業の見直しを求める動きが起こった。そうしたなか,1997年4月計画どおり全長 7kmの潮受け堤防によって湾奥が閉め切られ外海から遮断された。1999年潮受け堤防が完成。2000年養殖ノリが記録的な不作となり,干潟の減少が原因との調査報告がなされた。2002年地元の漁業者らが漁業被害を訴え工事の差し止めなどを求める裁判を起こしたが,差し止めは認められず,2007年干拓事業が完了,翌 2008年から営農が開始された。漁業者らは排水門の開門を求めて提訴し,2010年福岡高等裁判所が国に 5年間の常時開門を命じる判決を出した。国は上告を見送り判決が確定したが,干拓農地の営農者らは,開門すれば農作物に被害が生じるとして 2011年開門差し止めの仮処分を申し立て,2013年長崎地方裁判所はこれを認める決定をくだした。さらに 2014年4月佐賀地裁が開門しない場合の制裁金を,2014年6月長崎地裁が開門した場合の制裁金をそれぞれ国に命じ,福岡高裁もこれを支持。相反する司法判断に対し国は抗告を申し立てたが,2015年1月最高裁判所はこれを棄却し,排水門の開閉にかかわらず制裁金が発生する事態となった。

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